
ばりばりの音を、私は夢の中で聞いた。
先日、酷く怖い夢を見た。
怖い夢なら誰でも見る。
ただ、この夢は、二度目だった。
そして、二度目だということを、夢の中の私に教えたのは、私の筆跡で書かれた一枚の紙だった。
ばりばりの音のことを、順番に書く。
三度目を見る前に、どこかに書き残しておきたいからだ。
緑色の廊下のトイレ
私は、学校にいた。
中学校だ。
もう随分前に卒業した。
これが夢だとすぐに気づいたのは、校内があまりにも静まり返っていたからだ。
生徒の声も、チャイムも、上履きの音もない。
何より、今の自分に中学校へ来る用事などない。
少々不気味ではあったが、緑色の廊下や、歩くとミシミシいう教室の床は、懐かしかった。
窓の外は、昼とも夕方ともつかない、白い光だった。
二年三組の教室に入ってみた。
黒板には、日付も、日直の名前もなかった。
自分の席だった窓際の後ろから二番目に座ると、机の天板が、記憶より低かった。
身体だけが、大人のままだった。
机の中に手を入れると、何もなかった。
何もないのに、指先が、紙の角に触れた気がした。
校庭には、誰もいなかった。
サッカーゴールのネットだけが、風もないのに、少し揺れていた。
廊下の時計は、四時四十四分で止まっていた。
私は、それを見なかったことにして、歩き続けた。
音楽室の前を通ると、中からピアノの蓋を閉める音がした。
開ける音は、しなかった。
私は、音楽室のドアの小窓を覗かなかった。
覗いていたら、たぶん、トイレまでたどり着かなかったと思う。
それが良かったのか悪かったのか、いまもわからない。
誰かが、私が通る前から、ずっと蓋を閉め続けていたような音だった。
しばらくぶらついていると、廊下の隅のトイレが目についた。
「はは、懐かし」
中学時代の私は胃腸が弱く、授業中にトイレへ駆け込むことがよくあった。
変な言い方だが、トイレは、私にとって結構身近な場所だった。
キィッ、とドアを開けて中に入る。
相変わらず、汚い。
タイルの目地が黒く、換気の窓が半分だけ開いていた。
水道の蛇口が一つ、締まりきらずに、ぽつ、ぽつ、と鳴っていた。
個室は、四つ。
一番奥のドアだけが、閉まっていた。
そのときは、気にならなかった。
私は、なぜか吸い込まれるように、個室に入った。
洋式便器に、どかっと腰を下ろす。
「何で、俺、こんなことしてんだ……?」
そこでようやく、私は自分の行動の異常さに気づいた。
なんで私は、夢の中で、トイレの個室なんかに入っているんだ。
じわじわと、恐怖感が芽生え始めた。
「怖い……怖い! 何で俺、トイレなんかに入ってんだよ……!」
軽いパニックになって、きょろきょろと周りを見回した。
すると、動いた拍子に、かさっという音が上着のポケットから聞こえた。
何だろうと思って引っ張り出すと、何の変哲もない一枚の紙だった。
くしゃくしゃに丸まっていた。
開いてみる。
そこには、私の筆跡と思しき字で、こう書かれていた。
『ばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばり』
「ばりばり……?」
意味がわからない。
元々字が汚い私だが、そこに書かれた字は、それに輪をかけて汚かった。
ひどく焦って書いたような印象があった。
紙の裏に、もう一行あった。
『門は、きゅうしょくの方』
ひらがなで、字は、表よりさらに崩れていた。
そのときの私には、その一行の意味も、わからなかった。
ただ、ひらがなで書いてあることが、妙に気になった。
急いでいて、漢字が出なかった人の字だった。
私は、紙をもう一度ポケットに戻した。
戻すとき、ポケットの底に、もう一枚、紙の感触があった。
それは、取り出さなかった。
取り出さなかったことを、いまも後悔している。
首を傾げていると、一番奥の個室から、物音がした。
一番奥の個室のばりばりの音
びっくりした。
誰もいないと思っていたのに。
音は、断続的に続いていた。
自然と、そっちに耳を傾ける。
ばり……ばりばり、ばりっ……ばりばり。
心臓が飛び出るかと思った。
ばりばりの音。
紙に書いてあったのは、このことだ。
でも、この音源がなぜここにあるのかは、全く見当がつかなかった。
ただ言えることは、軽い音ではなく、なんとなく重い感じの音だった。
乾いた枝を折る音と、濡れた布を裂く音を、同時に鳴らしたような。
音には、間があった。
ばりばり、と鳴って、三つ数えるほど止まり、また鳴る。
止まっている間、飲み込む音がした。
私は、個室の中で、紙を握り潰していた。
汗で、『ばりばり』の字が滲んだ。
滲んでも、字の数は減らなかった。
二十回。
私は、数えていた。
音も、数えていた。
音は、十八回目だった。
紙に書かれた数と、音の数が、同じになる前に、ここを出なければならない。
根拠はなかった。
ただ、そう思った。
個室の鍵を、音を立てずに外した。
金具が、指の汗で滑った。
私は、今すぐ逃げ出したい気持ちだった。
それなのに、どういうわけか、壁をよじ登って、上から音源の個室を覗き見ることにした。
もちろん、細心の注意を払って、音一つ立てないように。
夢の中の身体は、私の言うことを半分しか聞かなかった。
私は、見た。
私の個室からは、隣の隣に位置するため、全ては見えなかった。
しかし、音源が人間であることはわかった。
それも、女の子だ。
黒髪の。
おかっぱで。
そう、まるで、みんながイメージする「トイレの花子さん」そのまんまだ。
髪が邪魔で、何をしているかはわからなかった。
手だけが見えた。
小さな手で、爪が、長かった。
爪の先だけが、黒かった。
何かを持って、口元へ運ぶたびに、黒い部分が増えていくように見えた。
個室の床に、水が広がっていた。
水ではないかもしれなかった。
私は、それを見ないように、手だけを見ていた。
十九回目の音が、鳴った。
ただ、そいつが頭を上下に動かすたびに、あのばりばりの音が響いた。
噛んでいる。
何かを、噛み砕いている。
私は、自分でも驚いたが、信じられないほどの勇気を持って、さらに身を乗り出した。
そこで、私は見た。
少女の両手の中にあるものは、丸くて、髪の生えたものだった。
人の形をしたものの、一部だった。
少女は、それを、ばりばりと、噛んでいた。
少女の頭が、動きを止めた。
髪の間から、目が一つ、こちらを向いた。
私は、絶叫した。
『もう、なりふりかまっていられない! 追いつかれる!』
ドアを蹴破って、個室を飛び出した。
足がもつれて、男性用の便器に激突したが、それどころじゃない。
振り向くと、一番奥の個室のドアが、薄く開き始めていた。
『やばいやばいやばいやばいやばい!!!』
全力疾走。
トイレを出て、階段を目指す。
母校だけあって、校内の地理は完璧だった。
自分がいるのは、三階。
三段、四段飛ばしで駆け下りる。
手すりが、氷のように冷たかった。
二階の踊り場で、上から、ドアの開く音が降りてきた。
私は、下を見て走った。
すぐに、一階にたどり着いた。
錠前のかかった門
そこで、私は異様な光景を見た。
下駄箱には、片足のない少年や、和服姿の女の子、そのほかにも妖怪のような、気持ちの悪いやつらがうようよしていた。
でも、そいつらは私を珍しがってはいたが、敵意はなさそうだった。
すぐに襲いかかってくる気配はなかった。
和服の女の子だけが、私を見て、三階のほうを指した。
その子の下駄箱には、名前の札が入っていなかった。
「あれ、来るよ」
それだけ言った。
私は、ほっと安心する間もなく、校庭に出る扉に飛びついた。
一つ目の扉には、鍵がかかっていて開かなかった。
二つ目も、三つ目も。
四つ目にも鍵がかかっていたが、これだけは内鍵のような仕様で、ひねれば簡単に開く鍵だった。
開けるなり、また蹴破るように外へ飛び出した。
「やった! 助かった!」
『やった、助かった……?』
自分で言って、なんだか変な感じがした。
何で、外に出ただけで、助かったなんて言えるのだろうか。
ここに来てやっと、私は思い出した。
「……俺、この夢、見たことある……」
そう、前に一度だけ、これと同じ夢を見たことがある。
あのばりばりというメッセージも、前の夢で自分が書いたものなのだろう。
この扉を出てすぐ右手に、フェンスを切り取って作ったような簡単な出口がある。
前の夢では、そこを出た瞬間に目が覚めたのだ。
だから、ゴールが近いということを知っていたから、「助かった」などと言ったのだ。
たとえばりばりが追ってきたとしても、ダッシュで走れば、もう追いつかれないという自信すらあった。
そう思って、私は出口のほうを見た。
絶句した。
私が通っていた頃、その出口は常時開け放たれていた。
それなのに、今は閉まった状態で、おまけにごつい錠前までしてあった。
「うそ……うそうそウソだろふざけんなっ!!!」
私は、すっかり忘れていた。
最近、小学校や中学校も物騒になってきて、登下校の時間以外は、全ての門を閉めておくことになっていたのだ。
私が前にこの夢を見たときには、そんな規則はまだなかった。
だから、門はいつも開いていた。
夢は、私の記憶の学校ではなく、今の学校を映していた。
私はどうしていいか全くわからず、天を仰ぎ見た。
すると、トイレの窓から、誰かがこちらを見つめているのに気がついた。
ばりばりと、目が合った。
鳥肌がぶわっと立った。
全身の毛穴が開く感じ。
背筋が凍ったような気がして、体温も急激に下がっていった。
「逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 逃げなきゃ!」
私は、とにかく走った。
あいつから、少しでも離れなきゃいけなかった。
そこで、私は思い出した。
たしか、給食センターの車が入る門がある。
あれはかなり低いので、よじ登ることだってできるだろう。
『門は、きゅうしょくの方』
ポケットの紙の裏の一行が、そこで初めて意味を持った。
一度目の私は、門のことまで、書き残していたのだ。
そこへ向かって、がむしゃらに走った。
確かめてはいないが、すぐ後ろに、ばりばりがいることが何となくわかった。
しかも、自分より速い。
五十メートルもしないうちに、追いつかれるような勢いだった。
もうここからは、感覚というものがほとんどなかった。
ただ走って、門が見えて、それを全身で這うようにして登った。
鉄の棒の冷たさが、腹に食い込んだ。
最後は、転がり込むように、門の外へ身を投げ出した。
「助かった。今度こそ」
そう思った。
訳もなく。
ただ、絶対に自分は助かったという、安心感があった。
ノートの最後のページ
私は、視線を外から学校へ向けた。
ばりばりとの距離が、どれだけ縮まっていたのか、確かめておきたかった。
振り向いた瞬間、私は再び肝を冷やした。
ばりばりとの距離は、無きに等しかった。
もう目と鼻の先に、あいつがいた。
門の、内側。
私の頭を両手で掴み取らんとばかりに、これでもかと腕を伸ばした状態で、固まっていた。
門の格子の間から、指だけが、こちら側に出ていた。
そして、あいつはこう言った。
「今度は、連れていけると思ったのに」
そこで、私は目が覚めた。
当然のごとく、全身は汗びっしょりで、軽くめまいすらした。
起きて私がした行動は、この夢を忘れないように、ノートにメモを取ることだった。
あまりにも怖い夢だったので、後で誰かに話したかった。
しかし、メモなんて滅多にしないので、すぐにはノートが見つからなかった。
本棚の奥にあった古びたノートを、やっと見つけた。
中学のときに使っていた、理科のノートだった。
開いた瞬間、また私は絶句した。
『ばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばり』
ノートの最後のページに、確かに、そう書いてあった。
その下に、一行。
『門は、きゅうしょくの方』
ひらがなで。
私は、恐怖のあまり、しばらく動けなかった。
窓の外が明るくなるまで、ノートを閉じることも、開いたままにすることも、できなかった。
一度目の夢を見たのは、たしか、中学二年の頃だ。
そのころ、確かにこのノートを使っていた。
では、一度目の夢から目覚めた中学二年の私が、これを書いたのか。
そう思えば、筋は通る。
通るはずだった。
私は、ページに顔を近づけた。
紙は黄ばんで、角が丸くなっていた。
インクは、青が抜けて、灰色に近かった。
私は、自分の手を見た。
右手の中指に、ペンの跡はなかった。
ノートの最後のページの字は、今朝書くつもりだった字より、インクが古かった。
それは、いい。
古いのは当然だ。
おかしいのは、その字が、中学二年の私の字ではなかったことだ。
私は、三十を過ぎてから、字の癖が変わった。
『り』の最後を跳ねる癖は、仕事を始めてから付いた。
ノートの『ばりばり』は、全部、跳ねていた。
今の私の字で、十数年前のノートに、インクの古い字が書いてある。
赤いクレヨンの話を読んだとき、私は似たものを感じた。
書いた覚えのない字ほど、怖いものはない。
一度目の夢は、ほとんど記憶にないが、割と楽に逃げ切れた気がする。
二度目は、今話したとおりだ。
門の内側に、指が出るところまで来た。
でも、三度目は……考えただけでぞっとする。
はっきり言って、今度またあの夢を見たら、逃げ切れる自信はない。
門の規則は、もう変わってしまった。
給食センターの門も、いつ閉まるかわからない。
私は、ノートの最後のページの、『門は、きゅうしょくの方』の下に、今の字で、一行だけ書き足した。
『三度目は、トイレに入るな』
書いてから、気づいた。
一度目の私も、たぶん、同じつもりで書いたのだ。
ばりばり、と二十回。
あれは、音の説明ではなく、警告だった。
私は、それを読んで、トイレの個室に座っていた。
正夢という言葉を、私は使いたくない。
ただ、もし今後、新聞か何かで「眠ったまま目を覚まさなかった人」なんて記事があったら、それはもしかしたら私かもしれない。
絶対に、そんなことは起きてほしくないけれど。
今夜も、ノートは、枕の横に開いて置いてある。