
俺が夜間警備の仕事を始めたのは、四十を過ぎてからだった。前の職場を辞めたあと、なかなか次が見つからず、ようやく拾ってもらったのがS県の山あいにある温泉旅館の夜間管理人だった。
旅館といっても、もう営業はしていない。オーナーが高齢で引退し、建物の買い手がつくまでのあいだ、管理を任されているだけだ。週に三晩、夕方六時に入って翌朝六時に出る。やることは巡回と施錠確認、あとは管理室で待機するだけ。
築五十年以上の木造三階建て。全二十四室。大浴場が一階の奥にあり、中庭を挟んで別棟に露天風呂がある。営業していた頃はそれなりに賑わっていたらしいが、俺が来た時にはもう、廊下の蛍光灯も半分は切れたままだった。
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最初の一ヶ月は何もなかった。静かで、退屈で、持ち込んだ文庫本を読むくらいしかやることがない。巡回も慣れてしまえば作業でしかなく、暗い廊下を懐中電灯で照らしながら歩くのも、別に怖いとは思わなかった。
異変に気づいたのは、二ヶ月目の半ばだった。
深夜一時の巡回で大浴場の前を通りかかったとき、扉の向こうから微かな音がした。水の音だ。ぽたん、ぽたんと、蛇口から滴が落ちるような音。
古い建物だから水漏れもあるだろうと思い、念のため中を確認した。懐中電灯で照らすと、タイル張りの洗い場はからっぽで、蛇口はすべて閉まっていた。水の音はもうしなかった。
ただ、一つだけ気になったのは、浴槽だった。湯は当然張っていないのだが、浴槽の底がうっすらと濡れていた。まるでついさっきまで湯が入っていたかのように。
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それから、大浴場の前を通るたびに耳を澄ませるようになった。毎回聞こえるわけではない。三日に一度くらいの頻度で、あの水音がする。
ある晩、思い切って扉を開けた瞬間、むわっと湿った空気が顔に当たった。湯気だ。浴場の中が白く曇っている。懐中電灯の光が湯気に散って、奥がよく見えない。
ボイラーは完全に止めてある。水道も元栓から閉じてあるはずだった。それなのに、浴場の中は明らかに温かく、タイルの表面には細かい水滴がびっしりとついていた。
湯気の向こうに、何かが見えた気がした。
人の輪郭のような、揺らぎ。座っているように見えた。洗い場の椅子のあたりに、一つ。
「誰かいますか」
声が反響して返ってきただけだった。湯気は数秒のうちに薄れ、中はいつもの暗い空間に戻っていた。浴槽の底だけが、やはり濡れていた。
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翌日、オーナーに電話で報告した。水漏れがあるかもしれない、と。オーナーは少し黙ったあと、「ああ、大浴場か」とだけ言った。
「前の管理人さんも同じことを言ってたよ。水道屋に見てもらったけど、どこにも異常はなかった」
それだけ言って、電話は切れた。前の管理人が辞めた理由は聞いていなかった。聞きたくもなくなった。
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三ヶ月目に入った頃、巡回のルートから大浴場を外そうかと本気で考えた。だが仕事だ、と自分に言い聞かせた。
その晩、大浴場の扉を開けると、やはり湯気が充満していた。今度は前より濃い。一メートル先も見えない。
そして、音が聞こえた。
水の滴る音ではない。桶で湯を汲む音だ。かぽん、という木桶が湯面を叩く、あの独特の響き。続いて、ざあっと湯を浴びるような水音。
誰かが、体を洗っている。
俺は扉を閉めた。静かに、音を立てないように。管理室に戻って、朝まで出なかった。
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次の巡回から、大浴場は扉越しに耳を当てるだけにした。音がしない夜はそのまま通り過ぎる。音がする夜は、足早に離れる。
それでうまくやれていた。少なくとも、そう思っていた。
四ヶ月目のある夜、管理室で本を読んでいたら、廊下の奥からぺたぺたという音が聞こえた。素足で歩くような、湿った足音。大浴場の方向から、こちらに向かって近づいてくる。
足音は管理室の前で止まった。
ドアのすりガラス越しに、人影のようなものが見えた。ぼんやりと白っぽい。動かない。
三十秒ほどそのままだったと思う。やがて影は、来た方向に戻っていった。ぺたぺたという足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
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翌朝、廊下を確認した。管理室の前から大浴場に向かって、タイルの廊下に水滴の跡が点々と続いていた。素足の足跡のような形で。途中から跡は薄くなり、大浴場の扉の手前で消えていた。
俺は写真を撮り、オーナーに送った。返事はなかった。
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結局、俺はその月末で辞めた。引き継ぎのとき、次の管理人に何か言うべきか迷ったが、やめておいた。言ったところで信じてもらえないだろうし、言わなくてもそのうち自分で気づくだろうと思ったからだ。
一つだけ引っかかっていることがある。辞める前日、最後の巡回で大浴場の扉を開けた。湯気はなく、音もなかった。ただ、洗い場の隅に小さな木桶が一つ、伏せて置いてあった。
俺が働き始めた日、備品はすべて撤去されていたはずだった。桶も、椅子も、何もかも。
あの桶がどこから来たのか、俺にはわからない。今でも、わからないままだ。