深夜病棟の見廻り
3年程前の話です。
私は地方の総合病院で看護師をしていました。
準夜勤で消灯の準備をしていた時のことです。
消灯の前には病室だけでなく、病棟全体を見廻る決まりでした。
病棟全体と言っても、見て廻るのは小さな面談室やエレベーターホール、談話室、当直室、非常階段くらいで、見廻っても異常があったことはありませんでした。
『わざわざ見廻りする必要なんてあるのかな?』と、いつも思っていたくらいです。
でも一応決まりなので、その日もささっと見廻りに行きました。
※
非常階段を見廻った時、下の階との間にある踊り場に、子供がこちらに背を向けて立っていました。
恐らく3歳くらいの痩せた子供が、病衣を着て点滴台に掴まっていたのです。
点滴台には点滴袋がぶら下がっており、シリンジポンプ(点滴に別の薬を少しずつ混ぜる機械)も付いていたことを覚えています。
その非常階段は普段、人があまり通ることは無いので驚きました。
しかも窓も無いただの壁を向いて黙って立っている。
でもその時は別に怖くはなく『もうすぐ消灯なのに、何やってるんだろ?』くらいに思い、階段の上から声を掛けました。
「どうしたの? もう消灯になるよ」
「…」
声を掛けても、何も反応はありませんでした。
『もしかして迷子? 脱走? 一緒に小児科まで連れて行くべきか?』と考えを巡らせました。
「お部屋分かる? 早く戻らないと…」
と続けて声を掛けた時、ナースPHS(私が働いていた病院では、看護師は一人一台PHSを持つことになっていました)が鳴りました。
先輩から力を貸してくれとのコールだったので、その子を小児科まで連れて行くのは断念し、
「早くお部屋に帰るんだよ」
と声を掛けてその場を離れました。
※
そしてあれこれ消灯前の雑務をこなし、ようやく消灯してナースステーションで一息ついた時、非常階段の子供のことを思い出しました。
あの子はちゃんと部屋に戻っただろうか?
「ちょっと非常階段を見て来ます」
と他の看護師に言うと、
「何で?」
と聞かれたので、子供のことを話しました。
すると先輩が、
「やめときなよ」
と言います。続けて、
「その子、一人で点滴台を持ち上げて、階段昇れるような子だったの?」
はっとしました。
無理だ。3歳くらいの身長で、がりがりに痩せた子供。
点滴台を押して歩くことは出来ても、持ち上げて階段を踊り場まで上がるなんて出来る訳がない。
しかも機械まで付いていた重い点滴台。
先輩は黙り込んだ私に、
「もしかしたら本当は親と一緒で、点滴台を持ってもらったのかもね。
だったら近くに保護者が居たということだから行く必要ない。
もしそうでなかったとしたら、尚さら行かないでおいた方がいいでしょ」
と、事も無げに言いました。
親が近くに居た? それならどんなに良いだろう。でも、きっと有り得ない。
消灯直前に3歳くらいの子供をわざわざ階段の踊り場に連れて来て、側を離れる親が居るのか? きっと居ない。
しかもよく考えると、小児科病棟は私の病棟から4階も下にある。
※
私はパソコンで小児科の入院患者を見ました。
その日は連休前だったので外泊患者が多く、小児科病棟は空きベッドが目立ちました。
外泊していない2~5歳の患者は数人しか居ませんでした。
個室に入っていて人工呼吸器が着いている寝たきりの子、車椅子の子、2時間程前に開腹手術が終わったばかりの子。
あの子らしき患者は居ない。じゃあ、あの子はやっぱり。まさか。
そう考えていた時、先輩が私のパソコンを覗き込み
「もうやめなよ」
と言うと、にやりと笑いました。
「このくらい慣れなきゃ。私は死んだ患者にピアス取られたこともあるんだから」
先輩はショートボブの髪に隠れがちだった耳を見せてくれました。
耳朶の斜め上のところ(軟骨にピアスを開けていたのだと思う)には、一旦裂けてくっついたような、ケロイドの盛り上がったような傷跡がありました。
先輩がかつて、亡くなった患者さんに死装束を着せ、おしろいを塗っていた時、ふと後ろを振り返ったと同時に耳に激痛。
耳が裂けている、ピアス(穴が塞がらないようにする透明のやつ)が無い。
あちこち探したら、ピアスは死んだ患者が胸の前で重ねた手と手の間にあったそうです。