
あれは、実家に帰省するために夜行バスに乗った夜のことだ。
フリーランスで仕事をしていた時期で、深夜料金を節約したくて夜行バスをよく使っていた。二十三時頃に新宿を出て、目的地の地方都市には朝六時頃に着く予定だった。
バスに乗り込んでシートを倒し、アイマスクをして、そのまま眠った。
途中一度だけ目が覚めた。サービスエリアらしき場所に停まっていて、車内灯が薄暗くついていた。時計を見ると、深夜二時だった。問題ない。まだ先は長い。また眠りに落ちた。
次に目が覚めたとき、バスは停まっていた。
車内灯が明るくなっていて、他の乗客が席を立ち始めていた。着いたのか、と思ってアイマスクを外した。窓の外を見ると、バスターミナルだった。
ただ、何か変だった。
※
バスを降りたのは、俺一人だった。
さっき席を立っていた他の乗客の姿が、もうどこにもいない。降りたはずなのに、バスターミナルには誰もいなかった。バスもいつの間にか消えていた。振り返っても、停車スペースには何もなかった。
周りを見渡した。ターミナルの建物があり、乗り場を示す案内板が立っている。建物の中も見えたが、受付カウンターに人はいなかった。自販機に明かりはついているが、店舗のシャッターはどれも下りている。
外に出ようとしたが、出口の自動ドアが開かなかった。センサーの前で手を振っても、何も反応しない。
スマホを出した。圏外だった。時計は表示されているが、秒針が動いていない。三時四十七分で止まったままだ。
静かだった。建物の空調の音もなく、外からの音もない。完全な無音の中で、俺の呼吸の音だけが聞こえた。
焦りながら建物の中を歩き回っていると、奥の通路の方から足音が聞こえてきた。
※
作業服を着た男が歩いてきた。六十代くらいで、白髪まじりの短い頭髪をしている。胸にバッジをつけていて、手にはクリップボードと、古い型のライトを持っていた。
俺を見ると、男は足を止めた。
「あー、また出た」と男は言った。面倒そうな口調だったが、敵意はなかった。
「あの、ここどこですか」と俺は聞いた。
「バスターミナルだよ」と男は言った。「あなたが乗ってたバスの終点。ただ少し早く着いてる」
「早く着いてる?」
「時刻表上は朝六時着なんだけど、ここは少し前の時間に繋がってる。まだ六時前なんだよ、ここは」
意味がよくわからなかったが、男の口調はあくまで事務的で、冷静だった。
「他の乗客は?」
「普通に着いてるよ。正規の時間に」男はクリップボードに何かを書いた。「あなただけここに引っかかった。眠ってたでしょ。眠ってると境界を認識しないから入りやすいんだよ」
「境界って何ですか」
「言っても説明しにくいんだけど……まあ、縫い目みたいなもんだよ。ほつれてる部分がある。そこに入ると少しずれた場所に出る」
男は建物の中央に向かって歩き始めた。俺も後をついて行った。
「さっきの自動ドア、外に出ようとしてたんでしょ。あれじゃ出られない。正規の出口じゃないから」
「正規の出口って……」
男は案内板の前で止まり、板の端を指で押した。ぺこっと小さな音がして、案内板がわずかにずれた。その隙間から、白い光が漏れていた。
「ここ抜けて。そのまままっすぐ歩けば、正規の出口に出る」
「あなたは誰なんですか」と俺はまた聞いた。
男は少し考えてから、「補修の担当だよ」と答えた。「さっきのほつれみたいなやつを直す仕事。全国で起きてるから忙しいよ」
そう言って苦笑した。その笑い方が、普通のおじさんの笑い方に見えて、少しだけ怖さが和らいだ。
「ありがとうございます」と俺は言った。
「気をつけて。次は眠るとき、乗り物の中では少し意識を残しておくといい」
俺は案内板の隙間に体をすべり込ませた。
※
次の瞬間、外にいた。
朝の光が差していた。バスターミナルの外に出た場所で、後ろを振り返ると自動ドアが普通に閉まっていた。乗客が何人かそこから出てきた。みんな寝起きの顔をしていて、何か変なことがあったようには見えなかった。
スマホを見ると、六時ちょうどだった。電波も普通に入っていた。
実家に着いてから、母親に話してみた。「また時空のおっさんに会ったの、あなたも」と母親は言った。
「え、あなたもって」
「お父さんも若い頃に会ってるよ。出張の帰りに」
うちの親父も、あのおっさんに会っていた。そう思うと、何か変な気持ちがした。不思議なのか、怖いのか、おかしいのか、自分でもよくわからない気持ちだった。
その後、父に確認してみたが、「そういえばそんなことあったな」と言うだけで、詳しくは教えてくれなかった。
今でも夜行バスには乗るが、乗るたびにあの案内板の隙間から漏れていた白い光を思い出す。眠るとき、意識は残しておくようにしている。