
あれは二十四歳のとき、初めて単独で地方出張に行った帰りの話だ。
取引先との打ち合わせが想定外に長引いて、俺は県境にある小さな駅で最終列車を逃した。
タクシーを呼ぼうとしたが、その駅周辺にはタクシー会社の電話番号を案内する掲示すらなかった。スマホで検索しても電波が弱く、ロクに繋がらない。
仕方なく、翌朝の始発まで駅の待合室で過ごすことにした。
※
待合室には木製のベンチが三脚あるだけで、自動販売機も暖房もなかった。
十一月の山間部の夜は想像以上に冷えた。スーツの上着を頭からかぶって、俺はベンチに丸まった。
どのくらい経ったか。
気づいたら、向かいのベンチに中年の男が座っていた。
紺色のジャンパーに、汚れた作業ズボン。五十代くらいだろうか。頭にタオルを巻いて、膝の上に古びたショルダーバッグを置いている。
いつから居たのか、まったく気づかなかった。
無人駅の待合室で夜中に二人きり、という状況に少し緊張したが、男は俺には目もくれず、窓の外をぼんやり眺めていた。
しばらくして、男が口を開いた。
「今日、課長から怒られたやろ」
突然のことで、俺はうまく返事ができなかった。
「……はい?」
「取引先で。書類の順番、間違えたやろ」
確かにそうだった。今日の打ち合わせで、提出書類のページ順を一部入れ違えてしまい、同行した課長にその場で小声で注意を受けた。取引先に気づかれないよう素早く修正したが、終了後に課長からきつく叱られた。それが打ち合わせの延長に繋がった。
「なんで……知ってるんですか」
男は答えなかった。ただ、窓の外を見たまま、また言った。
「五年後、おまえその課長に礼を言うことになるで」
※
意味が分からなかった。礼を言う?あの説教のことで?
詳しく聞こうとしたが、そのとき外で車の音がして、俺は無意識に窓の方に目をやった。
たった二秒も経っていなかった。
振り向くと、男はいなかった。
荷物も、ベンチの温もりも、何もない。まるで最初からそこに誰もいなかったかのようだった。
待合室に通じる出入口は一つだけで、外には誰の姿もなかった。駅舎の裏に回れる構造でもない。
俺はしばらくベンチに座ったまま、ただ薄暗い待合室を見回した。
※
それから五年後のことを書いておく。
俺は二十九歳になっていた。あの出張からずっと同じ会社に勤めて、あの日に俺を叱った課長はとっくに別の部署に移っていた。
ある日、偶然社内で鉢合わせた。
「そういえば」と課長が言った。「おまえ、あのときの失敗を糧にして、ここ数年で一番成長したな。部長も言ってたぞ」
その言葉があとになって出世に繋がるとは、その時点では思ってもみなかった。
ただ、あの夜のことがふいに頭をよぎった。
紺色のジャンパー。膝の上のショルダーバッグ。
「五年後、おまえその課長に礼を言うことになるで」
俺はその日の帰り、課長に短くメールを送った。
あの頃、叱ってくれてありがとうございました、と。
おっさんは何者だったのか、今でも分からない。
ただ、あの無人駅の待合室に、確かにいた。