深夜の無人駅で会ったおっさん

夜の待合室と月明かり

あれは二十四歳のとき、初めて単独で地方出張に行った帰りの話だ。

取引先との打ち合わせが想定外に長引いて、俺は県境にある小さな駅で最終列車を逃した。

タクシーを呼ぼうとしたが、その駅周辺にはタクシー会社の電話番号を案内する掲示すらなかった。スマホで検索しても電波が弱く、ロクに繋がらない。

仕方なく、翌朝の始発まで駅の待合室で過ごすことにした。

待合室には木製のベンチが三脚あるだけで、自動販売機も暖房もなかった。

十一月の山間部の夜は想像以上に冷えた。スーツの上着を頭からかぶって、俺はベンチに丸まった。

どのくらい経ったか。

気づいたら、向かいのベンチに中年の男が座っていた。

紺色のジャンパーに、汚れた作業ズボン。五十代くらいだろうか。頭にタオルを巻いて、膝の上に古びたショルダーバッグを置いている。

いつから居たのか、まったく気づかなかった。

無人駅の待合室で夜中に二人きり、という状況に少し緊張したが、男は俺には目もくれず、窓の外をぼんやり眺めていた。

しばらくして、男が口を開いた。

「今日、課長から怒られたやろ」

突然のことで、俺はうまく返事ができなかった。

「……はい?」

「取引先で。書類の順番、間違えたやろ」

確かにそうだった。今日の打ち合わせで、提出書類のページ順を一部入れ違えてしまい、同行した課長にその場で小声で注意を受けた。取引先に気づかれないよう素早く修正したが、終了後に課長からきつく叱られた。それが打ち合わせの延長に繋がった。

「なんで……知ってるんですか」

男は答えなかった。ただ、窓の外を見たまま、また言った。

「五年後、おまえその課長に礼を言うことになるで」

意味が分からなかった。礼を言う?あの説教のことで?

詳しく聞こうとしたが、そのとき外で車の音がして、俺は無意識に窓の方に目をやった。

たった二秒も経っていなかった。

振り向くと、男はいなかった。

荷物も、ベンチの温もりも、何もない。まるで最初からそこに誰もいなかったかのようだった。

待合室に通じる出入口は一つだけで、外には誰の姿もなかった。駅舎の裏に回れる構造でもない。

俺はしばらくベンチに座ったまま、ただ薄暗い待合室を見回した。

それから五年後のことを書いておく。

俺は二十九歳になっていた。あの出張からずっと同じ会社に勤めて、あの日に俺を叱った課長はとっくに別の部署に移っていた。

ある日、偶然社内で鉢合わせた。

「そういえば」と課長が言った。「おまえ、あのときの失敗を糧にして、ここ数年で一番成長したな。部長も言ってたぞ」

その言葉があとになって出世に繋がるとは、その時点では思ってもみなかった。

ただ、あの夜のことがふいに頭をよぎった。

紺色のジャンパー。膝の上のショルダーバッグ。

「五年後、おまえその課長に礼を言うことになるで」

俺はその日の帰り、課長に短くメールを送った。

あの頃、叱ってくれてありがとうございました、と。

おっさんは何者だったのか、今でも分からない。

ただ、あの無人駅の待合室に、確かにいた。

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