
二、三年前。
私がまだ建設業の見習いだった頃、真夏のある日に体験した不思議な出来事です。
その年の夏は特に暑く、現場はビルの改修作業でてんてこ舞い。
私は先輩や上司に指示されるまま、ほとんど休憩も取らずに作業に没頭していました。
※
昼過ぎ、材料が不足し、作業が一時中断となりました。
上司が「ちょっと車に探しに行ってくるわ」と言って離れ、私はビルの3階の廊下で一人、ようやく腰を下ろしました。
そのときふと気づいたのです。
……異様な静けさに。
本来なら見かけるはずのサラリーマンやOLの姿はなく、空調や機械の動作音も消えている。
まるでビル全体が、世界から切り離されたように、シンと静まり返っていました。
※
不安に駆られ、廊下の突き当たりにある小さな窓に歩み寄りました。
外の様子を確認しようと、窓から身を乗り出すと――
信じられない光景が広がっていました。
ビルの外、そこにあるべきはずの街並みが、どこにも見当たらないのです。
建物も、道路も、車の一台もなく、空間だけがぽっかりと広がっている。
そんな虚空のような景色の中、たった一人の男が、ぽつんと立っていました。
おっさん、と呼ぶのがしっくりくる風貌のその人物は、じっと、まっすぐに私を見つめていました。
※
驚きのあまり、窓を開けて何か言おうとしたその瞬間、
彼は、凄まじい声量で叫びました。
「どこから来た!?」
声はビリビリと鼓膜を震わせ、身体の芯まで刺さるようでした。
それは、私に答えを求めているようなものではなく、まるで確認のような、怒りにも似た響きでした。
私は凍りついたまま動けませんでした。
するとおっさんは続けて、
「戻りたいならじぶ……」と口にしました。
けれど、その後の言葉は聞き取れませんでした。
口の動きだけが、音のない世界に飲まれていったのです。
※
気がつくと、私は廊下に膝をついていました。
目の前には、散らばった書類やファイルの山。
そして、驚いたようにこちらを見下ろすOLの姿がありました。
どうやら彼女が抱えていた資料を、私がぶつかって落としてしまったようです。
私は慌ててそれらを拾い集めながら、さっきまでの出来事が、夢だったのか現実だったのか判断がつかず、頭の中が混乱していました。
廊下には、さっきまでの静寂が嘘のように、人々の足音や話し声、機械の駆動音が戻っていました。
※
その日の帰り道、
私は「戻りたいならじぶ……」という、おっさんの言葉を何度も思い返していました。
「じぶ」――自分?
つまり「戻りたいなら、自分でなんとかしろ」という意味だったのでしょうか?
あの空っぽの世界と、おっさんの異様な声。
忘れようにも、忘れられるものではありませんでした。
※
それ以降、私は常に携帯を肌身離さず持つようになりました。
あのときもし携帯が鳴っていたら、何かが変わっていたかもしれない――そんな気がして。
ただ、あのような出来事は、その一度きり。
再び起こることはありませんでした。
けれど、今でもふとした瞬間に、あの窓から見えた空っぽの街と、おっさんの叫び声が脳裏によみがえることがあります。
まるで、あのとき別の世界にほんの一瞬、足を踏み入れてしまったかのような――
そんな、奇妙で忘れられない体験でした。