声のない街

声のない街

二、三年前。
私がまだ建設業の見習いだった頃、真夏のある日に体験した不思議な出来事です。

その年の夏は特に暑く、現場はビルの改修作業でてんてこ舞い。
私は先輩や上司に指示されるまま、ほとんど休憩も取らずに作業に没頭していました。

昼過ぎ、材料が不足し、作業が一時中断となりました。
上司が「ちょっと車に探しに行ってくるわ」と言って離れ、私はビルの3階の廊下で一人、ようやく腰を下ろしました。

そのときふと気づいたのです。
……異様な静けさに。

本来なら見かけるはずのサラリーマンやOLの姿はなく、空調や機械の動作音も消えている。
まるでビル全体が、世界から切り離されたように、シンと静まり返っていました。

不安に駆られ、廊下の突き当たりにある小さな窓に歩み寄りました。
外の様子を確認しようと、窓から身を乗り出すと――

信じられない光景が広がっていました。

ビルの外、そこにあるべきはずの街並みが、どこにも見当たらないのです。
建物も、道路も、車の一台もなく、空間だけがぽっかりと広がっている。

そんな虚空のような景色の中、たった一人の男が、ぽつんと立っていました。

おっさん、と呼ぶのがしっくりくる風貌のその人物は、じっと、まっすぐに私を見つめていました。

驚きのあまり、窓を開けて何か言おうとしたその瞬間、
彼は、凄まじい声量で叫びました。

「どこから来た!?」

声はビリビリと鼓膜を震わせ、身体の芯まで刺さるようでした。
それは、私に答えを求めているようなものではなく、まるで確認のような、怒りにも似た響きでした。

私は凍りついたまま動けませんでした。

するとおっさんは続けて、
「戻りたいならじぶ……」と口にしました。

けれど、その後の言葉は聞き取れませんでした。
口の動きだけが、音のない世界に飲まれていったのです。

気がつくと、私は廊下に膝をついていました。
目の前には、散らばった書類やファイルの山。

そして、驚いたようにこちらを見下ろすOLの姿がありました。
どうやら彼女が抱えていた資料を、私がぶつかって落としてしまったようです。

私は慌ててそれらを拾い集めながら、さっきまでの出来事が、夢だったのか現実だったのか判断がつかず、頭の中が混乱していました。

廊下には、さっきまでの静寂が嘘のように、人々の足音や話し声、機械の駆動音が戻っていました。

その日の帰り道、
私は「戻りたいならじぶ……」という、おっさんの言葉を何度も思い返していました。

「じぶ」――自分?
つまり「戻りたいなら、自分でなんとかしろ」という意味だったのでしょうか?

あの空っぽの世界と、おっさんの異様な声。
忘れようにも、忘れられるものではありませんでした。

それ以降、私は常に携帯を肌身離さず持つようになりました。
あのときもし携帯が鳴っていたら、何かが変わっていたかもしれない――そんな気がして。

ただ、あのような出来事は、その一度きり。
再び起こることはありませんでした。

けれど、今でもふとした瞬間に、あの窓から見えた空っぽの街と、おっさんの叫び声が脳裏によみがえることがあります。

まるで、あのとき別の世界にほんの一瞬、足を踏み入れてしまったかのような――
そんな、奇妙で忘れられない体験でした。

関連記事

旅館(フリー写真)

いにしえの宴会

旅行先で急に予定が変更になり、日本海沿いのとある歴史の旧い町に一泊することになった。 日が暮れてから旅館を予約したのだけど、シーズンオフのためか、すんなり部屋が取れた。 …

夜の繁華街

時空を越えた入れ替わり

最近、ふと思い出した話がある。 霊媒体質の人には、まれに意識が入れ替わることがあるらしい。 だがこれは、ただの憑依ではなく、「意識がタイムスリップして入れ替わった」としか…

入れ替わった友人

怖くないけど、不思議な小ネタ。若しくは俺が病気なだけ。 俺は今仕事の都合で台湾に住んでる。宿代もかからず日本からも近いから、たまに友達が台湾に遊びに来る。そういう時の話。 …

プルタブ(フリー素材)

不思議なプルタブ

小学5年生の夏、集団旅行に行った帰りの事。 貸し切りの電車の中、友人と缶ジュースを飲みながら雑談していた。 私はスポーツ飲料を飲み干し、その缶を窓辺に置いて網棚の上から荷物…

携帯電話(フリー素材)

携帯にまつわる話

俺の携帯の番号は「080-xxxx-xxxx」という『080』から始まる番号です。 でも、機種変してすぐは「090-xxxx-xxxx」だと思っていて、彼女にもその『090』から…

田んぼ

田んぼの案山子の秘密

私は田舎に住んでいて、学校への通学路は常に田んぼの脇道を歩いていた。 ある日、帰宅中に田んぼの中にピンク色の割烹着を着た姿が見えた。 「田植えをしているのか」と思ったが、…

メールの送信履歴

当時、息子がまだ1才くらいの頃。 のほほんとした平日の昼間、私はテレビを見ながら息子に携帯を触らせていた。 私の携帯には家族以外に親友1人と、近所のママ友くらいしか登録して…

ビルの隙間(フリー写真)

隙間さん

小学生の時、俺の住んでいた町ではある噂が実しやかに囁かれていた。 それは、夜人気の無い道を歩いている時にビルとビルの隙間の前に立つと、その暗闇から細長い腕が伸びてきて引き摺り込ま…

ショートカット

小学校の頃の体験です。 私が通っていた校舎は4階建てでした。 校舎の両端にそれぞれ階段があって、東階段と西階段と呼ばれていました。 東階段部分の校舎は3階までしかなく…

昭和のような町並みの異世界

田舎の高校に通っていた高1の夏休みの時の話をします。 部活が20時に終わり、その後23時くらいまで部室で怖い話をしていた。 さすがに遅くなったから帰るかという事になり、家が…