
三年前の夏に、俺が体験した話を書く。
八月の二週目だったと思う。
当時二十一で、上京して大学に通っていた。
夏休みを使って、実家に帰っていたときのことだ。
地元は、田んぼばかりが広がる場所だ。
コンビニまで自転車で二十分かかる。
その田んぼの真ん中に、水神様の祠がある。
一画だけが森のようになっていて、入り口に古い鳥居が立っている。
水神様の祠には、子どもは近づいてはいけないとされていた。
禁忌というほど厳しいものではない。
ただ、親も学校の先生も、そこだけは名前を出して止めた。
理由を説明されたことは一度もなかった。
小学生のうちは、素直に言いつけを守っていた。
中学に上がると、悪戯心で何度か忍び込んだ。
中は、学校のプールと同じくらいの広さだ。
剥がれてまばらになった石畳が、祠まで続いている。
それ以外は、空も見えないほど木が茂っている。
大人も滅多に入らないから、手入れは全くされていない。
祠まで行くのに、枝や草を払いのけながら進むしかない。
石畳も、雑草を掻き分けないと見えない。
何度か入ったが、特に何も起きなかった。
一度だけ、妙なことがあった。
中学二年の秋に、三人で入ったときだ。
祠の前で、誰かの話し声が聞こえた気がして、三人とも黙った。
耳を澄ますと、声ではなく水の音だった。
石畳の下から、ちょろちょろと流れる音がしていた。
「用水路、こっちまで来てんのかな」
友達がそう言った。
石畳を持ち上げようとしたが、びくともしなかった。
指が入るほどの隙間もない。
帰ってから、その友達の手のひらに細かい切り傷ができていた。
本人は、いつ切ったのか覚えていなかった。
強いて言えば、祠の裏の用水路だけが異様に綺麗だった。
湧き水が出ているらしく、そこだけ水が澄んでいる。
蛍の季節には、その一帯だけ光が集まる。
もう一つ、覚えていることがある。
祠の前の石畳は、三枚目だけが、いつも濡れていた。
雨の降っていない日でも、そこだけが黒く湿っている。
子どもの俺たちは、そこを踏まないで飛び越えるのを遊びにしていた。
祖母は、水神様のことを名前で呼ばなかった。
「あっち」とだけ言う。
「あっちの草は持って帰るな」
田んぼの畦草を刈ってきた日に、一度そう言われたことがある。
俺が刈ったのは家の前の畦だった。
それでも祖母は、軍手まで外して確かめた。
蛍の季節になると、あの一帯だけ光が濃くなる。
田んぼのほうにはほとんど出ないのに、森の縁にだけ集まるのだ。
見に行った子どもは、必ず親に叱られた。
だから蛍は、遠くから見るものだった。
俺は小学四年の夏に、畦道から双眼鏡で覗いたことがある。
光は、上下に動いていなかった。
地面すれすれを、横にだけ流れていた。
そのことを親に言ったら、双眼鏡を取り上げられた。
水神様の祠がいつ建てられたのかは、誰も知らない。
石を積んだだけのもので、銘も彫られていない。
町史には、一行だけ載っている。
水神を祀る小祠あり、と書いてあるだけだ。
由来も、建立年も空欄になっていた。
同じ町史に、川の氾濫の記録は何ページも載っている。
昭和の初めまで、この辺りは三年に一度は水に浸かっていたらしい。
その記録の中に、行方の分からなくなった子どもの名前が並ぶ年がある。
俺が読んだときは、洪水のせいだと思っていた。
砂利道の自転車
帰省して何日か経った日に、近所を散歩していて幼馴染に会った。
中学まで同じだった、ケンという奴だ。
暇だったので、その晩、二人で飲みに行くことになった。
家から自転車で三十分ほどの川沿いに、小さな飲み屋が一軒ある。
二人乗りでそこまで行った。
飲み屋は、カウンターだけの店だった。
常連の年寄りが三人いて、テレビの野球を見ていた。
ケンは、春から市内の工務店で働いていると言った。
「屋根の上ばっかりだ」
「落ちるなよ」
「落ちねえよ。腰縄あるし」
そういう話を、二時間くらいしていた。
帰り際、店の女将さんが外まで出てきた。
「気をつけて帰りよ」
「はい」
「川沿いは暗いでな」
女将さんは、そこで一度、言葉を切った。
「田んぼのほうは通らんでな」
そのときは、暗いから遠回りするなという意味だと思った。
自転車の荷台に、ケンを乗せて坂を下りた。
風が生ぬるかった。
川の水音が、思っていたより大きい。
「今年、蛍いたか」
ケンが後ろから聞いた。
「見てない」
「去年もいなかったんだと。うちの婆ちゃんが言ってた」
「減ってんのかな」
「そうじゃなくて、場所が変わったって」
その話は、そこで終わった。
砂利道に入って、俺たちは自転車を降りた。
帰りは飲んでいたので、自転車を押して歩いた。
田んぼの脇の、舗装されていない砂利道だ。
街灯はない。
月も出ていなかった。
携帯の明かりだけが、足元の砂利を照らしていた。
「なあ、水神様に寄ろうぜ」
急にケンがそう言った。
「やめとけよ」
「一回も入ったことないんだよ」
「なんもないって。草だらけだ」
「だから見たい」
ケンは、酔うと引かない奴だった。
自転車を農道の脇に停めて、二人で鳥居のほうへ歩いた。
鳥居の前に立つと、中から風が出てきた。
生ぬるい風だった。
草いきれと、土の匂いが混ざっていた。
「思ったより暗いな」
ケンの声が、少し小さくなった。
俺は落ちていた枝を拾って、草を掻き分けた。
携帯の明かりを頼りに、ゆっくり進んだ。
虫の声が、鳥居をくぐった途端に遠くなった気がした。
気がした、というだけだ。
そのときは、深く考えなかった。
鳥居の柱は、思っていたより太かった。
手を当てると、木肌が湿っている。
夏なのに、冷たいくらいだった。
「これ、立て直したのかな」
ケンが柱を叩いた。
音が、こもって返ってきた。
中が詰まっている音だった。
水神様の祠の草
祠までは、二、三分で着いた。
石が積まれただけの、小さな祠だ。
扉の金具は錆びていて、色がほとんど残っていない。
「これだけ」
ケンが言った。
「これだけだ」
「しょぼ」
そう言いながら、ケンは奥へ進もうとした。
「湧き水のとこ見たい。綺麗なんだろ」
「暗くて見えねえよ」
「行くだけ行こうぜ」
俺は仕方なくついていった。
祠の裏手は、木がいっそう密になっている。
枝が顔に当たるので、腕で払いながら進んだ。
木々を抜けた瞬間に、強い違和感があった。
最初に気づいたのは、空だった。
濃い紺というか、紫というか、濁った色をしている。
さっきまでは、月もない真っ暗な空だったはずだ。
それから、雲の動きがおかしかった。
台風のときのような速さで、一方向に流れている。
風は、まったく吹いていない。
足元の草も、揺れていなかった。
田んぼの形も違っていた。
この辺りは基盤整備が入っていて、碁盤の目のように区切られている。
それが、ぐねぐねと曲がった昔の形になっていた。
畦の幅もばらばらだった。
「おい」
俺が呼んでも、ケンは返事をしなかった。
遠くから、音が聞こえていた。
ぼわーん、ぼわわーん。
銅鑼を叩くような、低い音だ。
それとは別に、もっと遠くで、カーン、カーン、と乾いた音が鳴っている。
一定の間隔で、ずっと続いていた。
音の間隔を、俺は数えていた。
十秒に一度だ。
銅鑼の音が鳴ってから、遅れて乾いた音が来る。
返事をしているように聞こえた。
ケンは、口を半分開けたまま空を見ていた。
「なあ」
俺が呼んでも、瞬きをしない。
頬を叩いたら、ようやくこちらを見た。
「いま、何時」
ケンが最初に言ったのは、それだった。
携帯を見ると、画面は真っ暗だった。
電源が入らない。
さっきまで、明かりとして使っていたものだ。
濁った紺色の空
ここにいてはいけない、と思った。
「帰るぞ」
そう言っても、ケンは景色を見たまま動かない。
腕を掴んでも、体が重かった。
そのとき、祠のほうから音がした。
ガサガサと草を分けて、何かがこちらへ来る。
固唾を飲んで待っていると、人が出てきた。
神主のような格好をした、ひどく小さな爺さんだった。
身長は百五十センチもなかったと思う。
装束は普段見るものと似ていたが、色が妙だった。
袖の一部がオレンジで、襟が緑をしている。
爺さんは、俺たちを一目見て叫んだ。
「こっちゃに来い」
地元の訛りだった。
勝手に入ったから怒られるのだろう、とそのときは思った。
祠の前まで戻って、俺は言葉を失った。
さっきまで生い茂っていた草が、一本もなくなっている。
刈り跡が新しく、土の匂いが立っていた。
石畳も、端から端まで見えていた。
一瞬でこうなるはずがない。
「若ぇ氏ら、どっから来ただ」
爺さんが聞いた。
「こん時期ば水神様に来ちゃあいかんでねが」
「せば、どこん倅だ」
この辺りでは、年寄りに聞かれたら屋号で答えたほうが早い。
俺は、うちの屋号を言った。
「そんじゃあ川向こうんとこのかぁ」
爺さんは、少し声を落とした。
「だけぇ、こったらとこば来ちゃいかん」
「あの、さっきまでここ、草ぼーぼーだったんすけど」
俺が聞くと、爺さんは首を振った。
「おめぇら本当になんも知らねぇで、こったらとこ来ちゃいかんで」
「誰にも言うちゃいかんぞ。誰にも言うちゃいかん」
ケンの顔が、青くなっていた。
「いいか。本当にここば場所、どったらいう場所か聞いてねぇのか」
家族や先生から、行くなと言われただけだと答えた。
「なん場所か知らでか」
爺さんは、そこで長く黙った。
その沈黙のあいだ、俺は爺さんの足元を見ていた。
草履を履いていた。
ただ、鼻緒が片方だけ赤かった。
もう片方は、色が抜けて白くなっている。
手は、節が太くて、爪が異様に短かった。
草を刈る人間の手だと思った。
その手に、鎌は持っていなかった。
俺は、周りの草の切り口を見た。
刃物で刈った断面ではなかった。
引きちぎったような、繊維の潰れた跡だ。
それが、土のすぐ上で揃っている。
何十本もの草が、同じ高さで同じように潰れていた。
水神様の祠の周りだけが、そうなっていた。
一歩外に出ると、草は腰の高さまである。
境目は、線を引いたようにまっすぐだった。
空の色のことを、俺はあとで何度も思い出した。
赤い世界という話を読んだとき、色が違う空の描写が自分の記憶と近くて驚いた。
同じものを見た人がいるのかどうかは、分からない。
ただ、あの紺色は絵の具の名前で言えないような色だった。
紺に、墨を一滴落としたような色だ。
「もう帰れ。祭りば時もいかん」
その言葉に、俺は引っかかった。
この水神社に、祭りはない。
親父が小さい頃にはあったらしいが、いつからかやらなくなっている。
そう伝えると、爺さんの顔が変わった。
声にならない、という顔だった。
それから何かを考え込んで、低い声でお経のようなものを唱え始めた。
「もう二度と、ここには来ちゃいけねぇ」
そう聞こえた瞬間、俺たちは鳥居の前に立っていた。
空は、元通りの真っ暗な夜だった。
風が戻ってきて、草が鳴っていた。
自転車は、停めたところにそのままあった。
家までの二十分
何も言わずに、二人で家まで歩いた。
別れ際に、ケンが一度だけ振り返った。
「なあ、あれ何時だったと思う」
俺は答えられなかった。
家に着いて時計を見ると、飲み屋を出てから二十分しか経っていなかった。
自転車を押して歩くだけで、三十分はかかる道だ。
不可解な扉の向こうという話にも、時間が合わない話が出てくる。
俺の場合は、足りないのではなく、余っていた。
その差の二十分に、何が入っていたのかは考えないようにしている。
翌朝、俺は明るいうちに鳥居のところまで行ってみた。
自転車は停めたままにしていたので、それを取りに行くという口実もあった。
森の縁は、腰まで草が茂っていた。
中に入る気にはならなかった。
鳥居の足元に、切られた草が一束だけ置かれていた。
縄で縛ってあった。
縄の結び目は新しかった。
草は、まだ緑のままだった。
その束を、俺は写真に撮らなかった。
撮ったら残ってしまう気がしたからだ。
家に帰ると、祖母が縁側で豆を選っていた。
「どこ行っとった」
「自転車取りに」
祖母は、手を止めずに言った。
「田んぼのほうは通らんかったな」
飲み屋の女将さんと、同じ言い方だった。
俺は、豆の皮を一枚つまんで裏返した。
「婆ちゃん、水神様の祭りって、いつまでやってたの」
祖母の手が、そこで初めて止まった。
「祭りなんぞ、なかったよ」
「親父は、昔はあったって言ってた」
「あれは、祭りとは言わん」
それ以上は、何も言わなかった。
選り分けた豆を、祖母はざるごと台所へ持っていった。
公民館の当番表
親に言おうか迷ったが、言うなと言われたので黙っていた。
ケンとも、その話はしなかった。
それから三年が過ぎた。
今年の三月、あの地震があった。
実家が心配になって、無理をしてバイクで帰った。
家族も近所の人も無事だった。
ただ、電気と水道が止まっていた。
近くの川へ水を汲みに行くと、ケンも来ていた。
久しぶりに立ち話をして、自然とあの晩の話になった。
「あの用水路、綺麗だったよな」
そう言いかけたところで、近くにいた爺さんに怒鳴られた。
「おまえら、水神様に行ったのか」
近所の、農協を退いた人だった。
「随分前に、少しだけです」
「子どもはあそこに行っちゃいかんぞ。神隠しにあうぞ」
爺さんは、手桶を置いて話し始めた。
「昔っから、あの水神様では子どもがいなくなっちまう」
「河童が悪さしとるって言われとった」
「もう五人は消え失せてな。今じゃ誰も近寄らん」
俺は、背中が冷たくなった。
あのとき、自分たちが子どもだったらと考えた。
「五年に一度、水神様の除草作業すんだろ」
「あれもワシら年寄り連中がやってんだ」
「だけぇ、行っちゃいかんのよ」
俺は、聞き返した。
「五年に一度って、決まってるんですか」
「決まっとる。ずっと前からな」
「当番はどうやって決めるんです」
爺さんは、少し面倒くさそうな顔をした。
「公民館に綴りがある。順番に書いてあるだけだ」
「書くのは誰ですか」
「区長だ。……そのはずだ」
最後のところで、声が小さくなった。
「区長さんに聞いたら分かりますか」
「やめとけ」
爺さんは、そう言って手桶を持ち上げた。
「あれはな、書くだけだ」
「書くだけって」
「順番は、こっちで決めとらん」
それだけ言って、爺さんは川下のほうへ歩いていった。
その話を聞いて、俺はひとつ確かめたくなった。
公民館に、行事の記録をまとめた綴りがある。
物置の棚に、昭和の頃からのものが並んでいる。
俺は、除草の当番表を探した。
五年ごとに、担当する家の屋号が並んで書いてある。
俺たちが入ったあの年は、当番の年ではなかった。
それなのに、あの晩の祠の前は、刈ったばかりの草の匂いがしていた。
綴りをめくりながら、もう一つ思い出したことがある。
あの晩、爺さんが立っていたのは、その三枚目の上だった。
石畳の三枚目。
子どもの頃、踏まないように飛び越えていた場所だ。
帰ってから、親父に湧き水のことを聞いてみた。
「あれは祠の裏から出とるんじゃない」
親父は、湯呑みを置いて言った。
「石畳の下から出とるんだ。だから三枚目だけ濡れる」
俺は、当番表の綴りを閉じる前に見たものを、まだ誰にも話していない。
当番表の次の年の欄には、もう、うちの屋号が書いてあった。
鉛筆の下書きで、うっすらと。
書いた人間は、まだ決まっていないはずだった。