
物事には終わりというものが必ずあり、それは突然訪れるものだと知ったのは、15歳の冬の終盤だった。
あの冬のいちばん不気味な匂いは、ナナシの晩メシだったと、今では思う。
卒業を目前に控え、慌ただしく日々が過ぎる中、僕の親友は学校を休みがちになった。
以前は、たかが一日休んだだけで、僕のほうが心配して見舞いに行ったくらいなのに。
ここ最近は、教室にいる姿を見るほうが珍しかった。
時々学校に来ても、何を聞いてもヘラヘラ笑うだけで、何も言わなかった。
会う度に目の下の隈は濃くなり、見るからに痩せ細り、声は掠れていった。
心配しても、何でもないと言い切り、他愛もない話をして、また笑って帰っていく。
そして次の日は来ない。
その繰り返しだった。
ナナシがたまに登校した日、僕は彼の机の横を通りかかった。
開きっぱなしのノートの隅に、鉛筆で小さな「正」の字がいくつも並んでいた。
一画ずつ、几帳面に、五画で一文字。
数えてみると、「正」は十一個あって、十二個目は四画で止まっていた。
「それ、何の数?」
「ん? ああ、落書き。」
ナナシはノートをぱたんと閉じて、いつものようにヘラヘラ笑った。
その指先が、小刻みに震えていたのを、僕は見逃さなかった。
昼休み、屋上へ続く階段で、アキヤマさんにその話をした。
「あの家ね、最近、夜通し台所の電気がついてるの。」
アキヤマさんは、パックの紅茶にストローを刺しながら、静かに言った。
彼女は、僕たちの中でいちばん冷静で、いちばん勘の鋭い人だった。
「塾の帰りに、毎晩あの前を通るんだけど。」
「朝まで、ずっと?」
「うん。しかも、窓に人影が二つ映ってる夜がある。」
僕は、紙パックを握りしめた。
ナナシの家は、母親が夜勤で、ほとんど一人暮らしのようなものだった。
二つの影の、もう一つは、誰なのだろう。
「前に住んでた人の話、聞いたことある?」
「ううん。」
「あの台所でね、毎晩、三人分の晩ごはんを作ってた女の人がいたんだって。」
「三人分?」
「旦那さんと、子どもと、自分の分。旦那さんは、別の女の人と出ていって、それきり。」
「それでも、毎晩、三人分。」
アキヤマさんは、ストローを咥えたまま、窓の外を見た。
「その人、待ってるの。まだ、ご飯が冷めてないつもりで。」
僕は、何も言えなかった。
ナナシの母親が、あの家を安く借りられた理由が、少しだけ分かった気がした。
ナナシの晩メシは、誰のために作られているのだろう。
三日前の夜、僕も塾の帰りに、あの家の前を通った。
台所の窓が、四角く黄色く光っていた。
立ち止まるつもりはなかったのに、足が止まった。
窓の向こうで、ナナシがコンロの前に立っていた。
とん、とん、とん、と包丁がまな板を叩く音が、ガラス越しに聞こえた。
焼き魚の匂いと、味噌の匂いが、夜気に混じって流れてきた。
ごく普通の、晩メシの匂いだった。
それなのに、なぜか背筋が冷えた。
ナナシの背中の後ろに、もう一人、立っている気がしたのだ。
影は、一つしか映っていなかった。
僕は、見なかったことにして、足早にそこを離れた。
あの家の台所には、前から、近づくなと言われていた。
中学二年の夏、麦茶をもらいに入ろうとして、ナナシに腕を掴まれたことがある。
「そこから先は、だめだ。」
「なんで。」
「流しの下が、いつも濡れてるから。」
ナナシは冗談めかして言ったが、掴んだ手は、氷のように冷たかった。
その夏、僕はナナシの家の麦茶を、一度も飲んでいない。
公園に落ちる夕日
その日もナナシは休んでいた。
特別何も思うところはなかったが、帰り際、担任に呼び止められた。
「藤野、七島にこれ渡しといてくれ。」
進路関係の書類を、ナナシに届けてほしいという。
怖い思い出しかないナナシの家に行くのは気が引けた。
僕は電話で、近所の公園に呼び出すことにした。
冬の夕方の公園は、ブランコの鎖が風できしむ音しかしなかった。
夕暮れに、ナナシは現れた。
随分とふらついた足取りで、ヒラヒラ手を振りながら。
隈は、前の日よりも酷くなっていた。
さすがに僕は黙っていられなかった。
「お前、ちゃんと食べてるのか。」
「食べてる食べてる。毎晩、三人前。」
「三人前?」
「母さん、夜勤だからさ。三人前、作る癖がついたんだ。」
ナナシは、冗談のように笑った。
母親が、一人分も食べずに出勤する人でないことを、僕は知っていた。
「その三人前、誰が食うんだよ。」
ナナシは、一瞬だけ黙った。
「…残したことは、ないよ。」
笑顔は崩れなかったのに、目だけが、僕を見ていなかった。
「お前、どうしたんだよ。」
「別に、何もないよ?」
「んな訳ないだろ。何だよその隈。頼むから、答えてくれよ。」
真剣に言った。
するとナナシは、ゆっくりと、静かに言った。
「成功したと、思ったんだ。上手く行ったって。」
絶望的な笑顔だった。
泣き笑いとでも言うのか、無理矢理に口の端を持ち上げているような顔。
「何が。」
そう訊くと、ナナシは声を震わせた。
「…大丈夫。今日、全部終わらせるから。」
そう言って、いつものようにヘラヘラ笑った。
終わらせるって、何を。
聞くことは出来なかった。
その時、ナナシが、別の世界の人のように見えたからだ。
彼の影だけが、夕日の中で、やけに長く、濃かった。
ブランコの鎖が、風もないのに、一度だけ大きく鳴った。
ナナシは、その音のほうを見なかった。
見ないようにしている人の、顔だった。
「藤野さ。」
「ん?」
「もし、俺がいなくなってもさ。台所には、入るなよ。」
冗談の形をしていたのに、声だけが、ひどく真面目だった。
「入るわけないだろ。」
「それならいい。」
ナナシは、書類を鞄に押し込んで、また手を振った。
別れてからも、頭の中はナナシのことで一杯だった。
自棄を起こさなければ良いが、ナナシなら何をしでかすか分からない。
墓でも荒らすのか、黒魔術でもやるのか、見当がつかなかった。
成功したという言葉の意味も、解らなかった。
以前、親友の話で書いたとおり、ナナシが危ういことに近づく時は、決まって、笑っていた。
そして今日の笑顔は、あの頃のどれよりも、薄かった。
あの屋上のときも、落下する瞬間に書いたとおり、ナナシは最後まで笑っていた。
深夜三時の着信
そんなことばかり考えていた、深夜三時。
突然、携帯が鳴った。
表示は、アキヤマさんからの着信だった。
「もしもし。」
「ヤバイことになったみたい。嫌な予感がする。早く来て。急いで!!」
それだけ言うと、電話は切れた。
どこへ行けばいいのかも、言わないままで。
でも、何故だろう。解っていた。
ナナシの、あの家だ。
パジャマの上にダウンを引っかけて、僕は家を飛び出した。
自転車のサドルは、凍りつくように冷たかった。
家を出る時、母の寝息が、廊下の奥から規則正しく聞こえていた。
靴の紐を結ぶ指が、うまく動かなかった。
玄関の時計は、三時七分を指していた。
その数字を、僕はなぜか、忘れられなかった。
道の途中、街灯の下に、アキヤマさんが立っていた。
僕と同じような出で立ちで、ガタガタ震えている。
顔は、紙のように白かった。
「どうしたの! ナナシは!?」
「解らない。解らないけど、ヤバイ。どうしよう。」
いつも冷静なアキヤマさんが動揺している。
僕は彼女を荷台に乗せて、再びペダルを踏んだ。
すると、背後から、声が聞こえてきた。
「あああああああの女があああああああ。」
濁った、どす黒い声だった。
「悪いんだああああああああああ。」
アキヤマさんかと思って振り返った。
アキヤマさんは、鬼のような形相で叫んでいた。
「早く走って!! 追い付かれる!!」
その後ろ。
僕の自転車の後輪のすぐ後ろに、四つん這いで走ってくる女がいた。
目は、窪んでいるのか、穴が空いているのか、真っ黒だった。
口は、縦に大きく開かれていた。
手のひらがアスファルトを打つ音が、ぺたぺたと、雨のように近づいてくる。
鼻の奥に、炊きたての米の匂いがした。
蒸気を吸い込んだみたいに、喉が熱くなる。
冬の夜道に、そんな匂いがするはずがない。
それなのに匂いは、女が近づくたびに、濃くなった。
怖かった。
怖くて怖くて、仕方がなかった。
声は、近くなったり遠くなったりを繰り返した。
そのたびに、街灯が一本ずつ、背後で消えていった。
商店街のアーケードに入ると、シャッターに映った影が、僕たちより一つ多かった。
自転車の影が二つ。
その少し後ろに、手足を地面につけた、細長い影。
ハンドルを握る両手が、じっとりと汗ばんでいた。
冬なのに、背中だけが、燃えるように熱かった。
「消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ。」
呪いの言葉を、一語ずつ、はっきりと吐きながら。
耳が痛かった。
肩にしがみつくアキヤマさんの手も、震えていた。
それでも、僕は懸命に漕ぎ続けた。
ふと、荷台が軽くなった。
振り返ると、アキヤマさんは確かにそこにいた。
けれど彼女は、目を閉じて、小さく何かを唱えていた。
唱え終わると、荷台は、元の重さに戻った。
「今、何した。」
「…お願いしたの。今夜だけは、ナナシの邪魔をしないでって。」
誰にとは、言わなかった。
立ち止まったら、何かが決まってしまう。
そんな気がしたのだ。
ナナシの晩メシの匂い
声はいつの間にか消えていて、その頃には、ナナシの家の前に着いていた。
自転車を降りて、インターホンを鳴らした。
その時。
「ギャアアアアアアアアアア!!!」
凄まじい叫びが、家の中から響いてきた。
腹の底から絞り出したような、人間のものとは思えない声だった。
僕とアキヤマさんは、返事を待たずにドアへ手をかけた。
すると、ちょうどドアが内側から開いた。
「…どうしたの。」
ナナシだった。
虚ろな目で、僕とアキヤマさんを見ている。
片手には、包丁が握られていた。
「晩メシ作ってたんだよ。」
ナナシは包丁をヒラヒラさせて、そう言った。
廊下の奥、台所のほうから、味噌汁の湯気と、焦げた魚の匂いが流れてきた。
ナナシの晩メシだ、と思った。
夜中の三時に、晩メシを作る人間がいるはずがない。
扉の隙間から、台所の机が見えた。
茶碗が三つ、湯気を立てて並んでいた。
ご飯の盛り方が、どれも寸分違わず同じだった。
箸は、三膳。
一膳だけが、子ども用の短いものだった。
味噌汁の面に、湯気が細い糸のようにたゆたっていた。
一つの椅子だけが、引かれたままになっていた。
その椅子の下から、台所のタイルに、濡れた手形が点々と続いていた。
ナナシの足元の影を見る。
影は、一つしかなかった。
けれど、台所の窓ガラスには、ナナシの背中の後ろに立つ、髪の長い人の形が、薄く映っていた。
僕は、目を逸らした。
その瞬間、台所の奥で、椅子の脚がゆっくりと床を擦る音がした。
誰かが、座り直したような音だった。
ナナシは、振り向かなかった。
振り向かないことが、この家では礼儀のように思えた。
「用事ないなら帰れよ。」
突き放すような言葉だった。
いつものナナシじゃない。
直感的に、そう思った。
さっきの悲鳴は何だ。
追いかけてきたものは。
聞きたいことは山ほどあるのに、舌が動かなかった。
不安になって、アキヤマさんを見た。
彼女は俯いて震えていた。
そして、静かに呟いた。
「帰ろう。」
手遅れという言葉
僕はわけも分からないまま、アキヤマさんに手を引かれた。
自転車を引きながら、二人で黙って帰った。
家々の窓は、どれも暗かった。
その中で、ナナシの家のある方角だけが、まだ、ぼんやりと黄色かった。
振り返ると、台所の窓の明かりが、ひとつ、またたいて消えた。
さっきまで追いかけてきた声は、どこからも聞こえなかった。
曲がり角で、アキヤマさんが、ポツリと言った。
「あの人ね、追いかけてたんじゃないの。」
「え。」
「呼ばれたの。三人目の席が、空いたから。」
「もう、だめだ。どうしようもない。もう、手遅れだ。」
泣きそうな声だった。
「どういうこと。」
聞き返す間もなく、アキヤマさんは走って行ってしまった。
一人になった道で、僕はやっと気づいた。
あの女は、僕たちを追ってきたのではなかった。
僕たちのすぐ後ろを、同じ速さで走っていただけだ。
行き先は、最初から、同じだったのだ。
その言葉の意味を理解したのは、次の日の朝だった。
朝食のテーブルで、母が味噌汁を差し出した。
湯気の匂いが、昨夜のものと同じで、僕は箸を持てなかった。
ナナシの晩メシの匂いと、母の味噌汁の匂いが、喉の奥で混ざった。
「どうしたの、食べなさい。」
「…うん。」
一時間目の途中、教室の戸が開いて、担任が入ってきた。
いつもより顔色が悪かった。
「七島が、今朝、家で見つかった。」
教室が、ざわついた。
台所の椅子に座ったまま、ナナシは、もう目を覚まさなかったという。
彼の前には、空になった茶碗が三つ、並んでいたそうだ。
アキヤマさんの席は、昼まで空いたままだった。
窓際の席から、校庭の端の枯れた桜が見えた。
ナナシはいつも、その桜の枝の数を、授業中に数えていた。
今朝は、誰も数えていない。
枝は、昨日と同じ数のまま、風に揺れていた。
午後になって、彼女は静かに教室に入ってきた。
そして何も言わずに、ナナシの机に、パックの紅茶を一つ置いた。
ストローは、刺さったままだった。
僕は、ナナシの机のノートを、そっと開いた。
隅に並んだ「正」の字の最後の一つは、昨日まで四画だったはずだった。
いつの間にか、五画目が、静かに引かれていた。
放課後、僕はひとりで、ナナシの家の前まで行った。
門は閉まり、台所の窓にはカーテンが引かれていた。
カーテンの隙間から、机の上の三つの茶碗が見えた気がした。
湯気は、もう立っていなかった。
隣家のおばさんが、ほうきを持ったまま、小声で教えてくれた。
「あのうち、夜になると、夕飯の匂いがするのよ。昔からね。」
「昔から、ですか。」
「ええ。前の奥さんの頃から、ずっと。」
おばさんは、それ以上は何も言わず、門のほうを見ないようにして、ほうきを動かした。
それが、ナナシと過ごした、最後の夜になった。