
気ままな学生生活も終わりに近付き、いつしか学校を卒業した。
卒業してから何年経っても、最初に思い出すのは、霊園を走ったあの夜のナナシの背中だ。
その背中を、僕は今でも、はっきりと覚えている。
仲の良かったクラスメイトたちと連絡を取り合ったのは、最初だけ。
僕も進学先の場所に合わせて一人暮らしを始め、忙しさに紛れて、次第にみんなと疎遠になっていった。
『あいつ』とは、ある一件以来、何の接触も持たなくなった。
当然と言えば、当然のことだ。
あの日のことは、屋上にはナナシが居たに、書けるだけ書いた。
仲良くしていた日々を思えば、懐かしくもあり、愛しくも感じる。
最初にあいつのことを書いたのは、親友の話だった。
あのとき僕は、書くことで、あいつを遠ざけようとしていたのだと思う。
けれど文字にするたびに、輪郭だけが、くっきりと残った。
でも、『あいつ』のしたことが正しかったと言い切る自信はなかった。
許せないと感じる僕も、確かにいた。
同じ年の秋、僕は二十歳の誕生日を、一人きりのアパートで迎えた。
ケーキの代わりに、コンビニの肉まんを買って帰った。
湯気の向こうに、誰かの背中が見えた気がして、僕は窓を開けた。
何も、いなかった。
その夜、押し入れの奥から、古い写真を一枚、取り出した。
修学旅行の集合写真の隅に、ナナシと並んで写っているものだった。
ナナシは、カメラではなく、少しだけ右上を見て笑っていた。
あの頃は気づかなかった。
その視線の先には、僕の肩の後ろがあった。
ずっと、守られていたのだと、そのとき初めて思った。
写真を元の封筒に戻して、僕はしばらく、電気を消せなかった。
ナナシの背中を思い出すたび、胸の奥の古い傷が、静かに疼いた。
就職活動の帰り道、駅前の書店で、ふと足が止まったことがある。
オカルト雑誌の棚の前だった。
『学校の怪談』の特集号が、まだ平積みされていた。
手に取って、ページをめくる。
どの話も、ナナシと歩いた夜より、ずっと軽かった。
僕は雑誌を棚に戻して、何も買わずに店を出た。
怖い話を読んでも、もう、隣で笑ってくれる人はいない。
それを確かめに行っただけのような気がして、少し、情けなかった。
最終列車の窓
そんなことを時折考えながら過ごしていた、ある日のことだ。
今からまだ二年程前のことになる。
僕は、卒業に向けて提出物の準備をしていた。
進学するつもりはなく、就職することを決めていたため、書類は山のようにあった。
何枚もの履歴書、就職希望先に関する資料、保証人の欄が空いたままの用紙。
それに一から目を通し、書くものは書き、提出するものは分けて。
そんな作業をしていたら、ふと、地元に帰りたくなった。
現実逃避がしたかったのだと思う。
その日のうちに荷物をまとめて、ギリギリ最終列車に飛び乗った。
車内には、僕のほかに、居眠りをしている会社員が一人いるだけだった。
列車に揺られながら、窓から見えてくる地元の風景に、胸が躍った。
見慣れた景色なのに、やたらと懐かしい。
踏切の赤い点滅、閉まった商店のシャッター、橋の下を流れる黒い川。
ポケットで、携帯が震えた。
画面には『ナナシ』と出ていた。
五年前から、一度も鳴らなくなった番号だった。
消せないまま、アドレス帳の奥に残していた名前だった。
指が、通話ボタンの上で、止まった。
出られなかった。
着信は、ちょうど十回鳴って、静かに切れた。
出ていたら、僕はこの夜、霊園へ行かなかったかもしれない。
そのとき、ふと、巨大な墓地が見えた。
地元にある霊園だ。
真っ暗なのに、はっきりと見えたのは、提灯を持った行列のようなものが、あったからだった。
初めは、人魂かと思った。
けれど列車が近づくにつれて、人間が、提灯を持って並んで歩いているのが分かった。
橙色の灯りが、墓石の間を、ゆっくりと縫っていく。
向かいの席の会社員が、いつの間にか目を開けていた。
彼は窓の外を一瞥して、すぐに目を閉じた。
「兄ちゃん、あれは見ちゃだめだよ。」
眠たげな声だった。
「今夜は、数が多いから。」
何の数かは、聞けなかった。
次の駅で、会社員は、何も持たずに降りていった。
ホームに立つ彼の影が、街灯の下で、二重に見えた。
車内放送が、ひどく遠くで鳴っていた。
次の駅の名前を告げる声が、途中で、雑音に変わった。
窓ガラスに、僕の顔だけが、うっすらと映っていた。
その後ろを、橙色の灯りが、ひとつずつ、流れていく。
灯りの数は、列車が進むたびに、確かに増えていた。
「こんな時間に、墓参りか…?」
僕は気になって、駅に着くなり、荷物を持ったまま霊園へ向かった。
霊園を進む提灯
霊園に着くと、提灯の集団は見えなくなっていた。
どうやら、大分先に進んでいったらしい。
放っておけばいいものを、何故かやたらと気になって、僕は奥へ進んだ。
『あいつ』とも、よくこうして、好奇心で墓場に来たな。
そんなことを思いながら。
夜の霊園は、昼間とは別の場所のように静かだった。
砂利を踏む自分の足音だけが、やけに大きく響いた。
線香の匂いが、遠くのほうから、風に乗ってきた。
霊園の真ん中まで進んだところで、集団を見つけた。
老若男女を問わず、提灯を持って並び、何か楽しげに話している。
僕は、大きな墓に隠れて、話を盗み聞いた。
「ここは俺の墓。」
「これは私。」
「僕のはここにはないみたい。」
「なら先に進もう。」
「そうしようそうしよう。」
そんな会話が聞こえてきた。
逃げなきゃいけない、と思った。
霊にせよ、生きている人間にせよ、あんな会話をしている時点で、まともじゃないのは確かだ。
集団が会話に夢中になっている今なら、逃げられる。
僕は、走り出す姿勢を取った。
その時。
「お兄ちゃん、何してるの?」
酷くノイズの掛かったような声だった。
見上げると、幼い女の子の顔が、墓石の上から覗いていた。
そこで、もう確信した。
あの集団は、この世のものではない。
だって、この女の子は、顔形から見てせいぜい三、四歳。
そんな女の子が、どうして、大人の僕が隠れていられるほど大きな墓石の上から、顔を出せるのか。
しかも、顔だけ。
女の子の提灯が、僕の足元を、ぼんやり照らしていた。
提灯の灯りには、影がなかった。
集団が、ぴたりと話をやめた。
全員の提灯の炎が、同時に、青く細くなった。
砂利の上を滑る風が、冷たい水のように、足首にまとわりついた。
「お兄ちゃんのお家は、どこ?」
女の子が、墓石の上から首を傾げた。
「ここには、お兄ちゃんのお墓、ないね。」
「探してあげようか。」
その声に、集団のあちこちから、くすくすと笑いが漏れた。
僕は、自分の名前を、決して口にしてはいけない気がした。
その時、集団の端に、見覚えのある老人の姿を見つけた。
藍色の作務衣を着て、小さな提灯を提げている。
小学生の頃に亡くなった、母方の祖父だった。
祖父は、僕と目が合うと、ゆっくりと首を横に振った。
それから、右手で、駅のほうを指さした。
こっちへ来るな。
早く、帰れ。
声はなかったのに、その言葉は、はっきりと分かった。
けれど、足が動かなかった。
動いた瞬間に、女の子の指が、僕の袖を掴んだ。
数年ぶりに感じた恐怖に、僕は一目散に走って逃げた。
背後で、集団が追いかけてくるのが分かった。
砂利を踏む音が、一つ、また一つ、増えていく。
ノイズの掛かった声が、風に混じって聞こえる。
ただひたすら怖かった。
あの頃は、危ない時は、隣に『あいつ』がいた。
でも今は、いない。
だから、あの集団に捕まったあとのことを考えると、洒落にならない恐怖だった。
ナナシの背中
霊園は広く、道が、長かった。
逃げても逃げても、道が続いている。
曲がっても曲がっても、同じ形の墓石が、並んでいる。
それでも、泣き喚きながら逃げた。
だが、
「あっ。」
何かに躓いた。
転んで、そのまま座り込んだ。
ああ、もうだめだ、と思った。
躓いたのは、墓石だった。
後ろから追いかけてくる提灯の光が、すぐそこまで迫っていた。
「くそっ。」
躓いた墓石を、座り込んだまま、蹴飛ばした。
その時。
「罰当たりな奴だな。」
聞き覚えのある声がした。
視線を上げると、嘘だろう、と思った。
『あいつ』が、いた。
「ナナ…シ…?」
あの頃より少し大人びた、ナナシが立っていた。
苦笑しながら、僕に手を差し出す。
「惚けてる場合か。走れ。」
追いかけてきたぞ、と呟いて、ナナシは僕の手を引いて走った。
ああ、この背中だ。
いつも厄介なことをやらかしては、ヘラヘラ笑いながら、僕の手を引いて逃げた背中。
どんなに怖くても、この背中を追いかけていれば、安心だった。
ナナシの背中は、あの頃より、少しだけ広く見えた。
着ているのは、見覚えのある紺の上着だった。
肘のところが擦り切れて、白い糸がほつれている。
あの最後の冬、貸したまま返されなかったのと、同じ上着だった。
ナナシの背中を見失わないように、僕は懸命に、腕を伸ばしていた。
現に、一人で走っていた時の耐え難い恐怖は、安心感に変わっていた。
「右じゃない、左だ。」
ナナシは、前を向いたまま言った。
「振り返るな。何が聞こえても、振り返るな。」
耳元で、囁き声がいくつも重なった。
僕の名前を呼ぶ声が混じっている気がした。
それを聞くたび、ナナシの背中が、僕を庇うように、少しだけ広くなった気がした。
ナナシの上着からは、古い雨と、線香の匂いがした。
けれど、その匂いは、不思議と怖くなかった。
何度も嗅いだ、懐かしい匂いだったからだ。
握られた手は、氷のように冷たかった。
走る足音は、僕のものしか、聞こえなかった。
けれど僕は、それを、気に留めなかった。
走って走って、霊園を抜けた。
霊園を抜けると、提灯は、もう追いかけては来なかった。
僕一人だったなら、確実に捕まっていただろう。
ナナシに、物凄く感謝した。
ありがとう、と何度も呟いて、泣いた。
「もう怖くないよ。怖いものは、もう居ない。怯えなくていい。」
ナナシは言った。
僕は、余計に泣いた。
僕は知っている。
本当にそう言って欲しいのは、いや、本当にそう言って欲しかったのは、あの頃のナナシだったこと。
ヘラヘラ笑いながら怯えていた、幼かったナナシだったこと。
なのにあの時、僕はそれに気付かず、ナナシを頼ってばかりいた。
あの時、気付けていれば、ナナシは、あんなことをしなくて済んだのに。
僕が許せなかったのは、あの時のナナシではなく、あの時の僕だったのだ。
僕は、目の前のナナシに、何度も謝った。
ナナシは、大人になっても、やはりヘラヘラ笑っていた。
「卒業式、来なかったな。」
僕が、鼻をすすりながら言うと、ナナシは頭を掻いた。
「悪い。ちょっと、行けなくて。」
「あれから、ずっと、会いたかった。」
「うん。知ってる。」
「メシ、食ったか。」
「…腹は、減らないんだ。」
冗談だと思って、僕は笑った。
ナナシも、笑った。
笑ったあとの顔が、あの頃のどれよりも、穏やかだった。
「じゃあ、気を付けて。」
ナナシは僕を駅まで見送ると、ヘラヘラ笑いながら帰っていった。
その後ろ姿を、僕は、見えなくなるまで見ていた。
僕も手を振り、駅からタクシーで実家に帰った。
またナナシと、あの頃のように友達に戻れるかもしれない。
そんな期待を、少しだけ、抱きながら。
昼間の霊園で見た名前
次の日、僕は母の言いつけで、祖父母の墓参りに行かされた。
場所は、あの霊園だった。
正直、行きたくはなかった。
けれど、母の頼みは断れなかった。
昼間の霊園は、綺麗に手入れされていて、少しも不気味ではなかった。
墓守の老人が、竹ぼうきで落ち葉を掃いていた。
「その墓の子は、命日になるとね。」
老人は、僕が立ち止まった墓石を、顎で示した。
「いつも、石が濡れてるのよ。誰も水をかけに来ていないのにね。」
「…そうですか。」
「昨日の夜も、何だか賑やかだったよ。誰かが、走り回ってるみたいでさ。」
老人は、それ以上は何も言わず、箒を動かし続けた。
白い菊を持った老夫婦が、ゆっくりと砂利道を歩いていた。
受付の花屋で、祖父母の墓へ供える花を買った。
線香とライターを渡してくれた店の女性は、少し眠そうな顔で笑った。
「昨日の夜は、風が強かったから、花が散ってるかもしれないわね。」
風など、なかったはずだった。
僕は、何も言わずに、頭を下げた。
中程まで進むと、僕は、何かに躓いた。
昨日の、墓石だった。
「昨日も今日も、蹴飛ばしてゴメンな。」
そう謝って、墓石を見た。
そして、僕は泣いた。
そこには、紛れもなく、ナナシの名前が刻まれていた。
日付は、僕らが十五の冬、あの最後の夜の、次の日だった。
五年前の冬に、亡くなっていたのだ。
昨夜、僕の手を引いて走ってくれたのは、五年も前に、いなくなったはずの友人だった。
氷のように冷たかった手の温度を、思い出した。
足音が、僕のものしか聞こえなかったことを、思い出した。
僕は、泣いた。
泣いて泣いて、泣き喚いた。
墓石に額を押しつけて、何度も、何度も、ありがとうと謝った。
ポケットで、携帯が小さく震えた。
履歴を開くと、昨夜の二時四十七分に、不在着信が一件だけ残っていた。
その上に、十回分の呼び出し時間が、同じ数字で並んでいた。
表示は、『ナナシ』のままだった。
僕は、その名前を、指でそっとなぞった。
祖父母の墓に、線香をあげた。
灰の上に、小さな提灯の燃えさしが、ひとつ、落ちていた。
藍色の紙の端が、まだ、ほのかに温かかった。
祖父は、ちゃんと、見ていてくれたのだと思った。
そして、友人もまた、見ていてくれたのだと。
画面は、少しだけ、温かかった。
僕の親友は、もうどこにもいない。
あの背中は、もうどこにもない。
結局、僕は一度もナナシを救ってやれないまま、最後までナナシに救われていた。
僕と、僕の親友の話は、これでおしまい。