人ならぬものの恋(ナナシシリーズ3)

公開日: ナナシシリーズ

学校の下駄箱(フリー写真)

あの夏を迎えてから、僕は少しずつナナシが変わって行くような気がしていた。

アパートでの豹変ぶりにはもちろん驚いたが、窓の向こうのものを見た時のナナシの表情や言葉が、明らかに今までのナナシとは違っていた。

しかし僕には何がどう違うのかがはっきりと言葉に出来なかった。

ナナシは普段は明るくてクラスの人気者だったが、どこか大人びていて冷静な面もあった。何か揉め事が起きてもヘラヘラと笑いながら、それでもいつの間にか事態を丸く収めていた。

そんな風にどこか不思議なやつだったから、あの時に取った言動や表情も、きっと僕が今まで知らなかっただけなのだろう。

僕はそう思い込むことにした。

そんな中、僕らのクラスでは席替えをすることになった。

僕は廊下側にある後ろから二番目の席になった。偶然にもナナシは僕の後ろだったので、

「また手紙を回せるな」

と二人でニヤニヤ笑っていた。

そして僕の隣にはアキヤマさんが座った。

僕は心臓が縮れるような感覚を覚えた。

委員長は残念ながら離れてしまったけど、またアキヤマさんも一緒に手紙を回したり話をしたり出来る。そう思うと何だか嬉しくて仕方が無かった。

「ああ、また一緒だね」

アキヤマさんが言った。僕は小さな声で

「そうだね」

と答えることしか出来なかった。

そんな僕に、早速ナナシが手紙を回して来た。

数学のノートの切れ端で出来たその手紙には、

「お前、アキヤマのこと好きなんだろ?」

とストレートに書かれていた。

僕は顔が茹蛸のように赤くなってしまった。

確かに隣の席になれたのは嬉しかった。でもその時、僕はそこまで考えていなかった。否、自分の気持ちに気付いていなかった。

「何言ってんだ、馬鹿」

そう書いて手紙を回した。

するとアキヤマさんが不服そうな顔をして、

「何? 今日はあたしは仲間外れなんだ?」

と僕に言った。

違う、そうじゃないと言いたかったが、手紙の中身は見せることは出来ない。

見られたら最後、僕は学校を飛び出して歩道橋から身を投げるしかない。

今思えばそれこそ馬鹿みたいな話だが、本気でそう思っていた。

「そうじゃ、ないんだけど…」

僕は言葉を濁した。ナナシがいつものようにヘラヘラと笑っているのが見えなくても分かり、凄く嫌だった。

「まあ、いいけどね」

アキヤマさんはそう言うと僕から目線を逸らし、ノートに向かってしまった。酷く情けない気持ちで一杯だった。そして沸々とナナシへの怒りが込み上げて来た。

休み時間になり、僕はナナシを陸上部の部室に呼び出した。今日の鍵当番は僕だったので、話をするには持って来いだった。

「何だよ」

ナナシは相変わらずヘラヘラ笑いながら言った。

「『何だよ』じゃないだろ。お前のせいで僕は今日死にたくなったよ!どれだけ恥ずかしかったか!」

「まあ、アキヤマは競争率高いからなー」

「ナナシ!」

話を聞かないナナシに、僕は本気でカチンと来た。しかしナナシは素知らぬ顔で――否、あのニンマリとした表情で、僕を見た。

「アキヤマが如何に難しいオンナか、お前に解らせてやるよ」

ナナシはそう言うと、僕の手を引いて歩き出した。

ナナシに連れて行かれるままに着いたのは、アキヤマさんの靴箱の前だった。

「何だよ!ラブレターでも書けって言うのか!」

僕はムッとして言った。しかしナナシの表情は変わらず、

「見てみろよ」

と言うと、靴箱の扉を開けた。

「ちょ、勝手に開けたら…っ」

僕は言葉を継げなかった。

アキヤマさんの靴箱から沢山の紙が落ちて来た。

しかしそれは、ラブレターなどという可愛いものではなかった。

「あしたあいにいきます」

「いま○○にいます」

というメリーさんのようなものから、アキヤマさん自身の無数の写真。それから少し言い難いような物まで靴箱に入っていた。

「これ…」

「恋ってのは怖いねえ。俺はゴメンだな。こんな愛情、欲しくない」

ナナシは笑いながら、でも心から嫌悪したように言った。

アキヤマさんはまだ僕と同じ中学生なのに、こんな気持ちの悪い目に遭っているなんて、考えられなかった。いや、考えたくなかった。

僕は何とかアキヤマさんを助けてあげたいと思った。もしかしたらこうしている間にも、アキヤマさんはこの気持ちの悪いストーカーに何かされているかもしれない…。

僕は掃除当番で教室にまだ残っているはずのアキヤマさんが気になり、走り出そうとした。

しかし、グイッと何かに手を取られた。

振り返ると、怖いほど無表情なナナシが居た。

「お前、まだ解んないの?」

ナナシは冷たい声で言った。

「後ろ見てみろ。人を好きになるのは、人間だけじゃねえぞ」

そう言われ、ナナシの向こう側に目をやった。

「ひっ…」

僕は小さく悲鳴を上げた。

ナナシのちょうど後ろ、アキヤマさんの靴箱の前に人が立っていた。

否、人だったもの、と言うべきだ。

体は僕らと同じ学生服の男の子だったが、その人は首が折れ曲がっていた。

「あ、ああああ」

折れ曲がった首がゆっくりとこちらに向く。

その目は、燃えるように僕たちを睨み付けていた。

「ななななし、あ、あ、あれ」

「だから言ったろ。アキヤマは難しいオンナだって。

お前もああなりたいか?」

とナナシは言った。

その言葉の意味は今もよく解らないまま、多分永久に解らないだろう。

否、解りたくもない。

振られて自殺でもしたのか、それとも…なんて考えるのも嫌だった。

「愛情ってのは、迷惑だよな。人間をああも醜く変えちまうんだから」

ナナシは小さく呟いた。

その言葉の本当の意味に気付くのは、もっと後の話になる。

「さ、帰ろう」

ナナシはそう言うと僕の手を引いて、また歩き出した。

あんなものを見た後でも、僕はアキヤマさんが心配だったが、ナナシは心配ないと笑った。

「あいつには強力なお兄様がいるからな」

ナナシがそう言ってすぐ、高校生らしき人が突然玄関から入って来た。

僕らを一瞥するとその人は

「カエデー!!帰っぞ!」

と大声を出しながら階段を上がって行った。

ほらね、とナナシが笑った。

「あれには百年の恋も勝てねぇよ」

そう言うとナナシは靴箱を指差した。

あの男の子はもう居なかった。

人を好きになるのは人間だけじゃない。

そんな愛情、俺はいらない。

ナナシはそう言った。

ナナシの言葉は、今思えばとても重い言葉だったと思う。

あの頃は恐怖が先立って何も思わなかったが、今思えばあの言葉は…。

しかし、それも後の祭りの話。

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