
ナナシの部屋のコルクボードの写真を、僕は今でも、はっきりと思い出せる。
思い出せるのに、あの日、何を見たのかは、今も決められない。
これは、ナナシシリーズの四話目になる。
学生時代、まだ桜も咲かない三月の、ある日の話だ。
僕はクラスメートのアキヤマさんという女の子と一緒に、友人の家へ向かっていた。
友人の名は、仮にナナシとする。
ナナシには不思議な力があるのか無いのか、とにかく一緒に居ると奇怪な目に遭うことがあった。
その日、ナナシは学校を休んだ。
普段はお調子者でクラスの中心に居るナナシが休むのは、珍しいことだった。
心配になった僕は、放課後、見舞いに行くことにした。
そこに何故か、
「私も行く」
と、アキヤマさんが便乗した。
アキヤマさんは、クラスで誰とも群れない人だった。
ナナシと親しい様子も、見たことがなかった。
「なんで、来るの」
「気になるから」
それだけ言って、アキヤマさんは、僕の半歩前を歩いた。
道中、アキヤマさんは一度だけ、僕に質問をした。
「ナナシの家、行ったことある」
「ない。外から見たことはあるけど」
「家族は」
「知らない。聞いたことない」
アキヤマさんは、「そう」とだけ言った。
それから、歩く速さが、少しだけ落ちた。
一年も一緒にいて、ナナシの家族のことを、僕は何も知らなかった。
ナナシが話さなかったからだ。
話さないことに、理由があるとは、思わなかった。
三月の風は、まだ冷たかった。
校門を出て、商店街を抜け、古い家並みの残る通りへ入った。
ナナシの家は、学校から程遠くない場所にあった。
僕はナナシと親しくなって一年ほど経つが、自宅に招かれたことは無かった。
たまたま通り掛かって、
「ここが俺ん家」
と紹介されたことがあるだけだ。
だから、少しワクワクしていた。
ナナシの家は、今どき珍しい日本家屋だった。
黒い瓦の屋根に、長い板塀。
玄関の門柱には、苗字が深く彫り込まれていた。
彫られた文字の溝に、苔が、緑に溜まっていた。
門の内側には、手入れされていない松が、塀の上まで枝を伸ばしていた。
玄関までの飛び石の、いくつかが、泥に沈んでいた。
人が住んでいる家の庭には、見えなかった。
それでも、玄関の引き戸の桟だけは、拭かれたように黒く光っていた。
「やばい家」
アキヤマさんが、呟いた。
僕はこの時、
『確かにヤバイくらいでかい家だな』
などと思っていた。
今にして思えば、アキヤマさんが言っていたことは、全く違う意味だったのだと思う。
あの時、僕がこの言葉の意味に気付いていれば。
僕らとナナシには、別の未来があったかもしれない。
それは本当に今更なので、割愛する。
廊下に残る濡れた足袋
呼び鈴を鳴らした。
家の中で、鈴が鳴る音は、しなかった。
壊れているのだろうと思って、
「すみませーん」
と声を掛けた。
暫く、無音が続いた。
一分か、二分か。
アキヤマさんは、門柱の苗字を、ずっと見ていた。
「帰ろうか」
僕がそう言いかけた時、引き戸の向こうで、板を踏む音がした。
一歩ずつ、ゆっくりと、近づいてくる音だった。
廊下は長いはずなのに、音は、三歩で戸の前に着いた。
アキヤマさんが、僕の袖を、一度だけ引いた。
引いただけで、何も言わなかった。
やがて、引き戸が内側から開いて、背の高い女の人が出て来た。
髪を後ろで一つに結び、灰色の着物を着ていた。
僕とアキヤマさんは、自分たちがナナシのクラスメートであること、見舞いに来たことを伝えた。
女の人は、
「ありがとう」
と笑った。
その笑い方が、ナナシのヘラッとした笑い方と、少し似ていた。
女の人は、僕らを廊下の奥へ案内した。
廊下は長く、磨かれた板が、三月の光を鈍く返していた。
前を歩く女の人の足袋が、濡れていた。
踵のところが、灰色に湿って、板の上に薄い跡を残していく。
雨は、降っていなかった。
庭の水やりでもしていたのだろう、と僕は思った。
アキヤマさんは、その跡を、一つずつ踏まないように歩いていた。
廊下の途中に、仏間があった。
襖が開いていて、仏壇の扉は、閉まっていた。
線香の匂いは、しなかった。
代わりに、雨の日の土のような匂いが、仏間から廊下へ流れていた。
「こちらです」
女の人は、襖の前で立ち止まって、そう言った。
自分では、襖を開けなかった。
僕が開けると、女の人は、もう廊下の角を曲がるところだった。
部屋に入ると、布団にくるまって漫画を読んでいるナナシが居た。
僕らに気付いたナナシが、ヘラヘラ笑いながら手を振る。
案外元気そうな姿に、僕は安堵した。
「何だよお前、元気なんじゃないか」
僕はそう笑いながら、ナナシに話し掛けた。
アキヤマさんは黙って鞄を置くと、部屋を見回した。
古い部屋だった。
天井の板に、木目が、人の顔のように並んでいた。
「何でアキヤマがいんの」
ナナシが小声で僕に尋ねた。
僕も何とも答えられず、
「まあまあ」
と訳の解らない返答をした。
ナナシの声は、小声だからというのもあるだろうが、かなり掠れていた。
痛々しい程だった。
「喉、やられたのか」
「風邪だと思う。熱はないんだけど」
ナナシは、自分の喉を、指で軽く押さえた。
元気そうな見た目とは裏腹に、かなり酷いのかと心配になった。
その時。
「ナナシ。あれ、何」
アキヤマさんが、口を開いた。
コルクボードの写真
アキヤマさんが指差した場所には、コルクボードがあった。
眼鏡を掛けて改めて見ると、何枚もの写真と、何枚かの手紙やプリントが貼られている。
中には僕らが授業中に回していた手紙もあった。
「何だよ、わざわざ飾ってんのかよ」
ナナシが手紙を大事に取っておいてくれたことが無性に嬉しかった僕は、ナナシを肘でつついた。
しかしアキヤマさんはニコリともせず、
「そうじゃなくて。その真ん中」
と、続けた。
僕は目線を真ん中に向けた。
そこには、異様な写真があった。
「え」
それは、どう見ても心霊写真です、といった感じの写真だった。
コルクボードの写真の中で、その一枚だけが、画鋲を四つ使って留めてあった。
他の写真は、一つか二つだった。
剥がれないように、ではなく、動かないように、という留め方に見えた。
写っていたのはナナシと、先程の背の高い女の人で、見事な夕日を背景にしている。
そこまでは何らおかしくなかった。
おかしいのはナナシの一部。
否、ナナシを囲むもの、と言うべきか。
女の人にもたれ掛かるようにしているナナシの顔の両端に、白いものが写っている。
それは手のような形をした、白い靄だった。
指の一本一本が、はっきりと分かれていた。
親指だけが、ナナシの顎の下に、回り込んでいた。
「ナナシ、これ」
「ああ、それか」
少しガタついている僕に、ナナシは読んでいた漫画を置いて向き直った。
その表情は哀しそうで、そしてどこか嬉しそうでもあった。
「それは、母さんと撮った最後の写真なんだ」
ナナシはそう言って語り始めた。
「俺の隣が母さん。二年前に、いなくなった」
ナナシは少し俯いて言った。
「その写真を撮った次の日に、その写真を撮った屋上から、帰ってこなかった」
淡々とした言い方だった。
それはナナシが背負ってきた悲痛が、全て凝縮したような切ない響きを持っていた。
見事な夕焼けを背にして笑う親子。
それが翌日には哀しい別れ方を迎えるなんて、哀し過ぎる。
「その写真、母さんの誕生日に棚整理してたら見つけてさ。半年くらい前」
「二年前に現像して見た時は、確かに何も写っていなかったんだけど」
「そんとき改めて見たら、その靄が写ってて」
僕は黙って聞いていた。
アキヤマさんも、じっと写真を見つめて黙っていた。
「半年前から、声は」
アキヤマさんが、写真から目を離さずに聞いた。
「え」
「掠れてるの、いつから」
ナナシは、少し考えた。
「言われてみれば、秋くらいからかな。冬の乾燥だと思ってた」
「飾ったのも、秋」
「そう。母さんの誕生日が十月だから」
アキヤマさんは、頷きもしなかった。
ただ、コルクボードの写真から、半歩、後ろに下がった。
三月だった。
乾燥の季節は、もう終わりかけていた。
僕は今更、ならばさっき会った女の人は何だとか、解り切った追求をする気は無かった。
ナナシと居たら怖い体験をするというのは、それこそ今更だった。
きっとナナシのお母さんは、ナナシが心配で、この家に居るのだろう。
遺して来たナナシが、心配なのだろう。
そう思った。
「その靄、手の形してるだろ。俺も最初は怖かったけど」
「見ている内に、きっと母さんが俺を守ってくれてんだ、って思ってさ」
ナナシはそう言って笑った。
「だから、飾っちゃってるわけ。マザコンぽくて、アレだけどな」
ナナシは掠れ声でそう言うと、いつもより少し照れたようにヘラッと笑った。
僕はうっかり泣きそうになるのをグッと理性で押さえ、
「このロマンチストが」
なんて馬鹿馬鹿しいツッコミを肘で入れた。
廊下の角の向こう
ナナシとは怖い体験も何度かした。
でも、この話を聞いて、やはり僕はナナシを好きだと思った。
そして僕らを見て
「ありがとう」
と笑ったナナシのお母さんの顔を思い出す。
僕はナナシとずっと友達でいよう。
あのお母さんの分もナナシの傍にいよう、と心底思った。
その時、
「元気そうで何よりだわ。明日は学校で会いたいわね」
と、アキヤマさんが唐突に言った。
一瞬にして、先刻までの感動ムードが吹っ飛ぶ。
アキヤマさんはそんな空気の変化を無視して鞄を抱え、
「お大事に」
と一言掛けると、部屋を出た。
出る間際、アキヤマさんは、コルクボードの写真を、もう一度だけ見た。
見たというより、睨んだ。
僕は一瞬呆気に取られたが、我に帰り、慌ててアキヤマさんを追い掛けた。
「また明日な」
ナナシにそう声を掛けると、ナナシはいつものヘラヘラした笑顔で手を振った。
その手を振る動きが、写真の靄の指の動きと、重なって見えた。
気のせいだと、思うことにした。
襖を閉めるとき、部屋の中の空気が、一瞬、廊下へ流れ出た。
仏間と同じ、雨の日の土の匂いだった。
それを見届けてから、僕はアキヤマさんを追い掛けて広い廊下を走った。
廊下に、あの濡れた足跡は、もう無かった。
板は、乾いていた。
角を曲がると、女の人の姿も、無かった。
台所からも、庭からも、人の音はしなかった。
玄関の引き戸は、僕らが入ったときのまま、少し開いていた。
僕がナナシの家を出た時、アキヤマさんは既に数十メートル先を歩いていた。
僕は追い掛け、並んだところでその肩を掴んだ。
「アキヤマさん」
「何」
アキヤマさんは振り返る。
その顔に笑みは無く、異様なくらいの冷たさを感じた。
「何で、あんな言い方したんだよ。ナナシが可哀相じゃん、お母さんが」
そこまで言って、僕は何も言えなくなった。
アキヤマさんが嫌悪と怯えを入り交じらせたような形相で、僕を睨んでいたからだ。
「アンタ、本当にあれが『守り手』だなんて思ってんの」
アキヤマさんが強い口調で言った。
その真っ直ぐに向けられる視線は、信じられないとでも言うように僕を突き刺していた。
「だって、それしか」
「本当にそう思ってんならシアワセね」
アキヤマさんは、心底馬鹿にしたように言い放った。
「玄関、開けたの、誰だと思う」
「ナナシの、お母さんだろ。だって写真と同じ顔で」
「同じ顔。そうね。同じ顔だった」
アキヤマさんは、少しだけ声を落とした。
「足袋、見た」
「濡れてた。庭の水やりか何かで」
「三月に、素足で、庭に出る人がいる」
僕は、答えられなかった。
「それに、濡れてたのは踵だけ。つま先は乾いてた」
「どういう意味」
「歩いて濡れたんじゃない。濡れたまま、立ってた跡」
「どこに」
アキヤマさんは、答えなかった。
代わりに、空を見た。
三月の空は、乾いて、高かった。
「あの写真を撮ったのは、雨の日じゃない。夕焼けだった」
「次の日は、雨だったのよ。私、覚えてる。二年前のあの日」
アキヤマさんは、それ以上、説明しなかった。
「アタシには、あの手がナナシの首を絞めようとしているようにしか見えなかったわ」
そう言うとアキヤマさんは足を早め、帰って行った。
翌朝の掠れ声
曲がり角を曲がって見えなくなるアキヤマさんを呆然と見送りながら、僕はあの写真を思い出していた。
夕焼けを背にした親子。
その翌日に、屋上から帰ってこなかった母。
息子の首元にかかる、手型の靄。
顎の下に回り込んだ、親指。
そして、良好そうな体調の割に酷く掠れた、ナナシの声。
声が掠れ始めた秋と、写真に靄が現れた半年前は、同じ頃だった。
もし仮にアキヤマさんの台詞が真実なら、僕らが見たあの人はナナシをどうするつもりだろう。
僕は走った。
嫌な予感が現実にならないのを祈りながら、ナナシの家が見えなくなるまで走った。
走りながら、呼び鈴の音がしなかったことを、思い出していた。
鈴は、家の中の人に、来客を知らせるためのものだ。
鳴らなかったのに、あの人は出てきた。
僕らが来ることを、鳴る前から、知っていたかのように。
家に帰って、僕は自分の部屋の写真立てを、全部伏せた。
理由は、自分でも分からなかった。
その夜、ナナシに電話をかけようとして、やめた。
掠れた声を、電話越しに聞くのが怖かったのだと思う。
翌日、ナナシはいつも通り学校に来ていた。
「おう。昨日はサンキューな」
声は、更に掠れていた。
首の横に、薄い赤みがあった。
「寝違えた」と、ナナシは笑った。
隣の席から聞き取れないほどだった。
アキヤマさんは、教室の端で、一度もナナシのほうを見なかった。
この時、既にカウントダウンは始まっていたのかもしれない。
やはりそれは、今更の話だ。
この後、僕らは降霊術に手を出すことになる。
そして最後には、屋上にナナシが居た日を迎える。
あの日、襖の前で、自分では襖を開けなかった人のことを、僕は今も時々思い出す。
開けなかったのではなく、開けられなかったのだとしたら。
あの家で、僕らを部屋まで案内したのは、誰だったのだろう。