
学生時代、二学期も半ばに差し掛かった頃のことだ。
僕らのクラスでは、何故か『学校の怪談』というアニメが大流行して、今更ながらオカルトブームが訪れていた。
女子はこぞっておまじないに嵌まり、消しゴムに名前を書いたり、手鏡を枕の下に入れたりしていた。
男子はしょっちゅう、夜の廃工場や神社へ肝試しに出掛けた。
昼休みの教室は、毎日、誰かの『実体験』で満席だった。
その中に、後に僕が出会うことになる、目の合わない人形の話は、ひとつも出てこなかった。
放課後の教室では、女子が十円玉を囲んで、こっくりさんをやっていた。
十円玉が、ゆっくりと『いいえ』の方へ滑っていく。
ナナシは窓際で頬杖をついたまま、それを眺めていた。
動いた十円玉の先を、一瞬だけ目で追って、すぐに視線を外した。
あとで訊くと、ナナシは笑った。
「あれは、誰かの指が押してたよ。」
「誰かって。」
「さあ。五人しか触ってなかったのにな。」
僕は、数えるのをやめた。
ブームの渦中で、ナナシだけが、窓の外の電線ばかり見ていた。
電線の上には、烏が一羽、いつまでも動かずに止まっていた。
僕としては、今まで友人のナナシと体験してきたことのほうが、余程怖かった。
たとえば降霊術の一件は、思い出すだけで、今でも指先が冷える。
当のナナシも、これまでの体験談を話すことはなかった。
いつものようにヘラヘラしながら、みんなの話に相槌を打っていた。
どこかで聞いたような都市伝説に、キャーキャー言うクラスメイトたちを眺めながら、僕は思った。
『知らぬが仏というのは本当に名言だなあ。』
知らないでいられるうちが、きっと、いちばん幸せなのだ。
それは、いつもナナシの隣にいる僕の、数少ない処世術だった。
金持ちの家の誘い
そんな時、唐突に声を掛けられた。
「今日、俺ん家に来ないか?」
ヤナギというクラスメイトだった。
ヤナギの親父さんは貿易会社の社長で、所謂お金持ちの家の子だ。
けれど金持ちにありがちな嫌味がなく、寧ろサバサバしていて、みんなから好かれていた。
僕もナナシも、普段から仲良くしていた。
「何で突然?」
僕がそう尋ねると、ヤナギは頭を掻いた。
「ウチの親父が、珍品コレクターっての? 不気味なモンばっか集めててさ。」
「へえ。」
「中には曰く付きの物もあるから、見に来ないかなぁと思って。」
曰く付き、と聞いた瞬間、嫌な予感がした。
するといつの間にか、ナナシが僕の隣に立っていた。
「行く行く。是非ともお邪魔します。」
「おい。」
「俺もこいつも、そうゆうの好きでさぁ。」
ナナシは僕の肩を掴んで引き寄せ、僕の意思も意見も完璧に無視して、誘いを受けやがった。
その時のナナシの横顔が、一瞬だけ、楽しそうに歪んだのを、僕は見逃さなかった。
こうして僕らは、ヤナギの家にお邪魔することになった。
放課後、ヤナギの家は、住宅街の坂の上にあった。
門から玄関まで、石畳が長く続いていた。
庭の松は、一本一本、切り揃えられていた。
玄関を開けると、広い土間に、舶来物の傘立てが並んでいた。
家の中は、白檀のような、甘く乾いた匂いがした。
「親父、今日は出張でさ。母さんも習い事だから、ゆっくり見てけよ。」
ヤナギは靴を揃えながら、気軽に言った。
廊下の奥で、飼い猫が丸くなっていた。
ヤナギが呼ぶと、猫は顔を上げた。
けれど地下への階段の前まで来て、ぴたりと足を止めた。
毛を逆立てて、低く喉を鳴らし、一歩も下りようとしなかった。
「こいつ、いつもこうなんだよ。地下室だけは嫌いでさ。」
ヤナギは笑って、猫を抱き上げた。
猫の爪が、ヤナギの袖に、深く食い込んでいた。
地下室の珍品
「ここなんだよ。」
僕らは、玄関ホールの奥の、階段下の扉から地下へ案内された。
地下室と言っても、じめじめした嫌な雰囲気はなかった。
空気は、むしろ乾いていて、樟脳と古い紙の匂いがした。
正直、ナナシといると変なことばかり起こるので、来るまでは不安だった。
けれど、特に怖いことが起こる予感はしなかった。
「鍵、かけとくな。親父がうるさいから。」
ヤナギは、内側から扉に鍵をかけた。
がちゃり、という重い音が、地下室に響いた。
その音を聞いた時だけ、僕の背中に、ひやりとしたものが走った。
部屋の隅には、布を掛けた大きな姿見が立っていた。
「それは見ないほうがいい。親父が、絶対に外すなって。」
ヤナギは、あっさりと言った。
ナナシは、その布の前に立って、しばらく黙っていた。
布の裾が、風もないのに、ほんの少しだけ揺れた。
「…まだ、いるのか。」
ナナシが、誰にともなく呟いた。
僕は、聞こえなかったことにした。
棚には、古い本や、少し大きな犬の剥製、振り子時計などが並べられていた。
思っていたより、普通の骨董品の店のようだった。
「別に珍品じゃないんじゃね?」
動物の標本だとか、呪いの面だとかを想像していた僕は、半ばがっかりして言った。
しかし、隣に目をやると、ナナシが笑っていた。
いつものヘラヘラした笑顔ではなかった。
口の端だけが歪んだ、あの不気味な笑顔だった。
「まあ、そうでもないんだよ。」
ヤナギは、ナナシの様子に気づくこともなく、僕の発言に答える。
「例えばこの振り子時計。持ち主が三代、夜中の同じ時刻に、必ず目を覚ましたんだってさ。」
「何時に?」
「三時十七分。針を止めても、時計の中から音がするらしい。」
ヤナギは、文字盤の下の小さな扉を指で叩いた。
こつん、と乾いた音がした。
「こっちの剥製は、主人の帰りを待ち続けて、玄関から動かなくなった犬。」
「動かなくなった?」
「そう。毎晩、同じ時間に、玄関のほうを向いてたって。」
犬の剥製のガラスの目が、扉の方へ、まっすぐに向いていた。
「この本は、毎年、最後のページに一行だけ、知らない字が増えるらしい。」
ヤナギは、スラスラと不気味な話を続けた。
棚の端には、螺鈿の小さなオルゴールが置かれていた。
「これは、蓋を閉めると鳴り出すんだ。」
ヤナギが蓋を閉じると、古い『故郷』のメロディが流れた。
どこか、一音だけ、調子が外れている。
「止めるときは?」
「蓋を開ければいい。でも、開けたことがないんだ。」
「なんで。」
「開けようとすると、中から、鳴ってないはずの別の曲が聞こえるから。」
オルゴールは、閉じたまま、ゆっくりとネジが切れるのを待った。
最後の一音は、鳴り終わらないまま、途切れた。
ヤナギは、本棚から革装の古い洋書を抜き出した。
「これが、毎年一行増えるやつ。」
最後のページを開くと、褪せたインクの行が、細かく並んでいた。
どれも、僕には読めない文字だった。
ただ、いちばん下の一行だけは、インクがまだ濡れたように黒かった。
ナナシは、のぞき込んで、一瞬だけ笑った。
「読めるのか。」
「いや。ただ、今年の分は、まだ書いてる途中みたいだなって。」
ヤナギは、慌てて本を閉じた。
なるほど、ヤナギの親父さんは、そういう曰く付きの物ばかり集めているのだ。
「まあ、本当かどうかは分かんないけどさ。」
ヤナギは笑った。
その時、時計の秒針が、一瞬だけ、逆に動いた気がした。
気のせいだ、と僕は自分に言い聞かせた。
犬の剥製を、もう一度見た。
ガラスの目は、さっきまで扉のほうを向いていたはずだった。
今は、棚の奥を、じっと見つめている。
その視線の先に、あの人形が座っていた。
目の合わない人形
「なあ、これ、何?」
ナナシが、棚の奥で何かを見つけた。
それは、少し煤けてはいたが、立派な女の子の人形だった。
フランス人形だろうか。
青い瞳を伏せ気味にして、レースのドレスを着ている。
「ああ、それか。」
ヤナギが、人形を持ち上げた。
「これは特に不気味なもんじゃないんだけど、変わった仕掛けがあってさ。」
ヤナギは、人形の瞳を指先でつついた。
「角度や色が細かく計算してあって、絶対に目が合わないようになってんだよ。」
なるほど、目が合う人形なら、山ほどある。
それどころか、人形とは目が合うものだ。
目の合わない人形とは、確かに珍しい。
僕も、ヤナギから人形を受け取って、目を見てみた。
確かに、微妙に目の焦点がズレて見える。
「へぇ。こいつは面白いな。」
僕は人形を色々な位置に動かして、目を合わせようと試みた。
右へ寄せる。
左へ寄せる。
低く構える。
目の高さに掲げる。
やはり、目が合わない。
人形は、いつも、僕の肩の少し向こうを見ていた。
その時、気づいた。
どんなに移動させようと、角度を変えようと、目の合わない人形。
その人形が僕から目を逸らし、見ている一点。
それは、ナナシだった。
「え? え?」
僕は場所を変え、角度を変え、立ち位置を変えて、人形を動かした。
けれど、どんなに変えても、人形はナナシの方を見ていた。
どの位置に立っても、ナナシがいる方向に、視線が向く。
じっと、睨みつけるように。
地下室の温度が、ひと息ごとに下がっていく。
時計の針の音が、いつの間にか、聞こえなくなっていた。
おかしい。
オカシイオカシイオカシイ。
僕はパニックになって、人形を揺さぶっていた。
腕の中で、陶器の頬が、ひどく冷たかった。
人形の指は、小さな白い手袋に包まれていた。
ドレスの襟からは、古い薔薇水のような匂いがした。
抱え直したとき、胸の奥で、小さく、かち、と何かが鳴った。
心臓の音に似た、乾いた音だった。
人形に、心臓があるはずがない。
人形にまつわる話は、世の中に、驚くほど似通って残っている。
たとえば座らなくなった三つ折れ人形のように、持ち主のほうが、人形に選ばれてしまう話もある。
けれどこの人形は、誰かに選ばれるのではなく、特定の誰かだけを探しているように見えた。
怖くて怖くて仕方がなかった。
どうしてナナシの方を見るのか。
どうして。
「ホラ、いい加減にしろ。」
ナナシが、僕の手から人形を奪った。
そして、元の場所に、そっと置いた。
僕は汗だくだった。
「悪いなヤナギ、こいつ夢中になると我を忘れるから。」
「いや、いいけど。」
「でも面白いな、親父さんのコレクション。」
ナナシはヤナギに詫びを入れて、すぐに別の話題を振った。
ヤナギも、何か疑う様子もなく、楽しそうに話している。
それでも僕は、まだ人形を見ていた。
人形は、やはり、ナナシを睨んでいた。
帰り際、地下室の扉の前で、ナナシだけが振り返った。
棚の奥の人形に向かって、小さく手を上げた。
「悪いな。まだ、お前の相手はできない。」
声は、ほとんど聞こえないほど低かった。
けれど、僕の耳には、はっきり届いてしまった。
人形の唇の端が、ほんの少し、持ち上がった気がした。
それは、見間違いだと思いたかった。
知らぬが仏の帰り道
暫くお喋りをして、僕とナナシは、ヤナギの家をあとにした。
玄関で靴を履いている間、背中に視線を感じた。
振り返ると、階段下の扉は、確かに閉まっていた。
それなのに、扉の下の隙間から、細く冷たい風が、足首を撫でていった。
鍵が開く音が、来た時よりも、ずっと軽く聞こえた。
帰り道、夕焼けが、坂の下の街を赤く染めていた。
僕は思い切って、ナナシに言った。
「ナナシ、あの人形…」
「ずっと俺の方を見てただろ?」
やはり、ナナシは気づいていた。
ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべて、僕を見る。
「お前もなかなか勘が良くなったじゃねぇか。」
俺の教育の賜物だ、などとふざけたことを言うナナシに腹を立てつつ、半ば呆れて、僕は言った。
「お前、よく怖くないよな。」
するとナナシは、ハッ、と鼻で笑った。
「俺はお前の後ろに突っ立ってた、手足がやたら折れ曲がった女のほうが、怖かったぜ?」
「え。」
「ベキベキベキッって音が、聞こえてきそうでさ。」
僕は、急速に体が冷えていくのを感じた。
いつから、後ろにいたのか。
どこで、ついてきたのか。
「ん? 知らなかった?」
ナナシは、ケラケラ笑った。
夕焼けの坂道に、僕の影が長く伸びていた。
影の肩のあたりが、おかしな角度に折れ曲がって見えた。
腕が、肘のところで、二度、逆に曲がっている。
僕は、自分の腕を動かしてみた。
影の腕は、遅れて動いた。
遅れて、ベキ、と、音がした。
「『知らぬが仏』というのは、本当に名言だよな。」
どこかで聞いた台詞だと、頭の隅で感じながら、僕は走ってその場を去った。
その夜、布団の中で、天井から小さな音がした。
ぱき。
間を置いて、また、ぱき。
枝を折るような、乾いた音だった。
けれど、僕の部屋の天井には、枝などない。
音は、少しずつ、僕の枕元へ降りてくるようだった。
僕は、頭から布団をかぶって、朝まで耳を塞いでいた。
知らなかったほうが、よかったのだ。
朝、洗面所の鏡を見ると、左の肩甲骨のあたりに、小さな青い痣が三つ、並んでいた。
指の跡のように見えた。
僕は、母に見つからないように、シャツの襟を引き上げた。
翌日、学校で会ったヤナギは、いつもの調子で、笑いながら言った。
「そういえばさ、あの人形。」
「うん。」
「お前らが帰ったあと、見に行ったら、向きが変わってたんだよ。」
「向き?」
「お前が立ってた辺りを、ずっと、見てた。」
ヤナギは、気味悪そうに肩をすくめて、笑った。
「親父に聞いたら、あの人形、三回も返品されたんだって。」
「返品?」
「前の持ち主が、夜中に人形と目が合う夢を見るって、みんな返しに来るらしい。」
「でも、目は合わないんだろ。」
「そう。合わないから、見られてる気がするんだって。」
ヤナギはそこで、言葉を切った。
地下室の空気が、そこだけ、少し重くなった気がした。
「実はさ、あの人形、親父が一度だけ、地下室の外に出したことがあるんだ。」
「どうなった。」
「家中の鏡が、その晩、全部曇ったって。」
ヤナギは軽い口調で言って、すぐ別の話に移った。
けれど、その手がほんの少し震えていたのを、僕は見ていた。
僕は、笑えなかった。
それから僕が、ヤナギの家に行くことは、二度となかった。