落下する瞬間(ナナシシリーズ2)
公開日: ナナシシリーズ
あの悪夢のようなアパートでの事件から数ヶ月が経ち、僕とナナシはまたお互いに話をするようになっていた。
初めの方こそ多少ギクシャクはした。でもナナシに不思議な力があろうが無かろうが、あの女の人がどうであろうが、ナナシはナナシであり、僕の友達だということに変わりはない。
僕はあの日のことは記憶の底に沈め、ナナシと普通に話すようになった。ナナシも今までと同じようにヘラヘラ笑いながら話し掛けてきて、僕らはすっかり以前のような関係に戻っていた。
※
そんな矢先のこと。そろそろマフラーやらを押し入れから出さないとな…という寒い時期の授業中、それは起きた。
教室の席の配置は、窓際の最前列に目の悪かった僕と委員長の女の子、その後ろにナナシと、アキヤマさんという女の子が座っていた。
その頃、その窓際席の僕ら四人は授業中に手紙を回すのを密かな楽しみにしていた。
つまらない授業の愚痴や先生の悪口を小さなメモに書き、先生が見ていない隙にサッと回す。
もしバレても委員長が誤魔化して僕らが口裏を合わせることになっていたし、教室の端とは言え前列で手紙を回すのはちょっとしたスリルだった。
※
そしてそれは、確か三時限目の国語の授業中。どこの学校にも一人は居るであろうバーコード禿げの教師が担当で、今にして思えば大変失礼だが、僕らは彼の髪型をネタに手紙を回していた。
くだらないことをしていると時間が過ぎるのは早く、既に何枚か紙が回され、授業も半ばを過ぎた。
その時だった。
教科書に隠しながら手紙を書いていた僕は、ドンと何かに背中を突かれた。どう考えてもそれは後ろの席のナナシで、
「まだ書いてるのに、催促かよ」
と、僕は少しムッとしながら振り返った。
するとそこには、眉間に皺を寄せた凄まじい形相で、僕に何かを向けているナナシが居た。
手には開いたノートがあり、真ん中にデカデカとマジックで
「窓」
と書いてあった。
思わず窓を見ると、
「ひっ…」
人と、目が合った。
蛙のような体勢で落下して来たその人は、顔だけをこちらに向けていた。
恐怖か苦痛か屈辱か分からない、寧ろ全て入り交じったような悶絶の表情を一瞬見せた後、その人は消えた。
「うわぁああっ!!!」
僕ではない誰かが叫んだ。叫んだのとほぼ同時に、ドシンと音が響く。暫くフリーズしていた教師やクラスメイト達も2、3秒して騒ぎ立て、窓に駆け寄り出す。
※
僕はその様子を茫然と見ながら、フラッシュバックを感じていた。
まただ。またナナシが、人の死を言い当てた。
僕は震えながら、ゆっくりとナナシを見た。
ナナシは震えもせず騒ぎもせず、窓の前に立っていた。遠い目で窓を見ている。
僕はナナシに駆け寄った。
「ナナシ、あれ…」
縋るように駆け寄った僕に、ナナシは振り返ることもせず言った。
「お前、何か見た?」
何か。
そんなの解り切っているというのに、白々しく尋ねてくるナナシに僕は無性に腹が立った。
「当たり前だろ!!お前が窓を見ろって言ったんじゃないか!!おかげで僕は目が合ったんだ!!見たんだぞ!!あの人が落ちる一瞬を!!!」
僕は、あの死に行く人と目を合わせてしまったのだ。悲痛と苦痛に染まった、間も無く死ぬであろう見知らぬ人と、目が合った。一生トラウマになりそうな表情を見たのだ。
「なら、いよいよオカルトだな」
ナナシは言った。
僕にはその言葉の意味が解らなかった。解りたくもなかった。だが、
「見てみなさいよ、下」
さっきまで黙っていたアキヤマさんが、そう僕に言った。
僕は人を掻き分けて恐る恐る下を見た。
そこには、こちらを向いて目を見開き、苦悶の表情を浮かべながら体を不思議な方向に曲げた死人が居た。
ドス黒い血が彼女の白いブラウスを赤茶に染めていて、僕は思わず目を逸らした。
そして、気付いた。
僕は、彼女と目が合ったんだ。それは確かだ。あの表情は、夢じゃない。蛙のような、這うような姿勢で彼女は落ちて来た。そして僕を見ていた。
…なら、何故、彼女は「こちらを向いて」死んでいるのか。俯せに落ちたはずの人間が、何故仰向けに死んでいるのか。
空から叩き付けられた人間が、まさか寝返りなど出来るはずもない。ましてあの数秒間で、誰かが動かしたはずもない。
否、それよりも。どんな飛び降り方をすれば、蛙のような体勢に落下することが出来るのか。
否、どんな飛び降り方をすれば、蛙のような体勢で、こちらを向いて落下出来るのか。
その疑問が浮かんだ時、震えは一層強まり、首筋に冷たい何かを感じた。
※
不意に、ナナシが口を開く。
「死んだ先に何がある。救いなんて、あるはずないのに。闇から逃れても、闇しかないんだ」
その言葉には恐ろしいほど感情が篭っていなかった。
アパートの時よりも数倍、僕はナナシを怖いと感じた。
赤い海に浮かびながら僕らを見上げる曲体の死人より、ナナシの言葉が怖かった。
それから席替えがあり、僕が窓際の席になることは二度と無かった。