
いまでも、家の前の角のところで足が止まります。
あの子が曲がらなかった角です。
十年ほど前の、年末の話になります。
私は当時四十六で、菓子工場の副工場長をしておりました。
仕事柄、朝の五時には工場に入ります。
ですから、起きるのは四時です。
起きてすぐ煙草を一本吸うのが習慣でした。
家の中は禁煙にしているので、庭に出て吸います。
十二月の四時台は、まだ真っ暗です。
街灯の光が、塀の上で止まっています。
その時間に、新聞配達の子とよく顔を合わせました。
最初は中学生かと思うくらい、背が低い子でした。
「中学生か」
「いいえ、高校生です」
そう言って、妙に元気な挨拶をします。
おハよーごザいマす、という具合に、音が上下するのです。
朝から聞くと、こちらまで目が覚めました。
その子は、うちに新聞を入れたあと、必ず右の角を曲がっていきました。
角の先は、下り坂になっています。
自転車を押して坂を下りていく音が、しばらく聞こえていました。
音は、四十秒ほどで聞こえなくなります。
私は煙草を一本吸い終わるまで、その音を聞いていました。
毎朝のことですから、耳が時間を覚えてしまうのです。
妻には、変な習慣だと言われました。
「新聞屋さんの音で、何が分かるの」
「今日は雨だな、とか」
雨の日は、タイヤの音が粘るように変わります。
そういうことばかり、覚えていました。
曲がらなかった角のことも、そのせいで気づいたのだと思います。
音が、いつもと違う方へ伸びていったからです。
四時の庭の煙草
実を言うと、私も高校生の頃に朝刊を配っておりました。
給料は二万五千円ほどだったと思います。
そのうち七千円を学費に、五千円を家に入れて、残りが小遣いでした。
自転車の後ろに積んだ新聞が、雨の日はずしりと重くなります。
だから、あの子には勝手な親しみを感じていたのです。
工場では、規格から外れた菓子が毎日出ます。
味は同じですが、形が崩れているので売れません。
それを少しだけ持ち帰る癖がありました。
その一部を、あの子に渡すようになりました。
「よかったら」
「アリガトーゴザイマス」
返事は、いつもオウム返しのようでした。
ただ、受け取るときだけは、必ず自転車を降ります。
片手で受け取ることをしない子でした。
「腹、減るだろう」
「減ります」
「何時から回ってるんだ」
「三時半です」
「学校は」
「八時半です」
それだけの会話を、三か月ほど繰り返しました。
名前は、聞きませんでした。
胸の名札に、平仮名で三文字だけ書いてあったのを覚えています。
あの子の自転車は、前の籠が針金で補強してありました。
自分で巻いたのだと言っていました。
「新聞が重いと、籠が壊れるので」
「工夫するな」
「はい」
そのとき、少し笑った顔だけが、いまも思い出せます。
十一月の終わりに、一度だけ長く話しました。
その日は雪が混じって、あの子の肩が白くなっていました。
「手袋、してないのか」
「指が動かないので」
「凍えるだろう」
「途中で走ると温かくなります」
新聞の束を担いで走る、という意味でした。
私は、自分の高校生の頃を思い出しました。
同じことを、私もやっていたのです。
「卒業したら、どうするんだ」
「工場に行きます」
「どこの」
「まだ決めてません。でも、ものを作るところがいいです」
その返事が、少し嬉しかったのを覚えています。
うちの工場の話を、してやればよかったと思います。
その頃、私は昇進したばかりで気が立っていました。
人の相談に乗る余裕が、まるでなかったのです。
工場では、年末の受注が例年の倍になっていました。
残業が続いて、家では黙って飯を食うだけです。
妻とも、ろくに話していませんでした。
四時の庭が、唯一ほっとする時間でした。
だからあの子との三十秒を、私は楽しみにしていたのだと思います。
こちらが救われていたのに、菓子をやる側のつもりでいました。
いま思い返すと、順番が逆だったのです。
その日は、寒くて早々に家へ入ってしまいました。
クリスマスの朝刊
十二月二十五日の朝でした。
いつものように庭で煙草を吸っていると、あの子が来ました。
けれど、様子が違います。
むすっとした顔で、挨拶もしません。
自転車から降りずに、私の前に新聞を乱暴に差し出しました。
私が受け取るか受け取らないかのうちに、行ってしまいます。
最初は、腹が立ちました。
菓子までやっているのに、と思ったのです。
すぐに、そんな日もあるだろうと考え直しました。
クリスマスに機嫌の悪い高校生など、珍しくもありません。
家に入って、台所で新聞を広げました。
一面の見出しが、やけに大きく組んであります。
高校生 行方不明、と書いてありました。
そのときは、深く読みませんでした。
テレビ欄と、スポーツ欄と、おくやみ欄だけを見て畳みました。
支度をして、玄関を出ます。
門をくぐると、知らない男性が立っていました。
中年の、体格のいい人です。
「おはようございます」
そう言って、新聞を差し出してきます。
「うちは、ほかの新聞は取っていませんよ」
「いえ、○○新聞ですが」
「もう配ってもらいましたよ」
「今日の担当の子は休みでして。そんなはずはないんですが」
話が噛み合いません。
仕方なく、その人の新聞を受け取りました。
折られた状態でも、一面の見出しは見えます。
政治の記事でした。
さっきの新聞と違います。
考えてみれば、高校生 行方不明という見出しが、一面に大きく載ることは滅多にありません。
不安になって、台所へ戻りました。
テーブルに置いたはずの新聞が、ありません。
起きてきた妻に聞きました。
「さっきの新聞、どこにやった」
「新聞なんて、なかったわよ」
「テーブルに置いたんだ」
「置いてないわ。私が拭いたもの」
時間がなくなって、そのまま家を出ました。
工場に着く頃には、その話を忘れていました。
忘れたというより、考えないようにしていたのだと思います。
その日の工場は、年末の詰めで慌ただしくしていました。
焼き型の温度が上がらず、午前中は誰も口をききませんでした。
昼の休憩で、事務の子が新聞を持ってきました。
私は、その一面を確かめました。
政治の記事でした。
高校生の話は、どこにも載っていません。
社会面も、地方面も見ました。
何も出ていませんでした。
「何か探してるんですか」
「いや」
私は、新聞を畳んで返しました。
夕方に家へ帰ると、台所は片づいていました。
妻は、朝の話をもう覚えていませんでした。
曲がらなかった角の先
次の日の朝も、あの子が来ました。
やはり挨拶はありません。
むすっとした顔で、新聞を差し出してきます。
「おい。その態度はなんだ。もう菓子はやらんぞ」
冗談のつもりで言いました。
返事はなく、自転車はそのまま進んでいきます。
そこで、私は妙なことに気づきました。
角を曲がらないのです。
右へ曲がらず、真っ直ぐ坂のほうへ進んでいきました。
新聞を広げると、また同じ見出しでした。
高校生 行方不明。
昨日は飛ばしましたが、その日は読みました。
記事には、こう書いてありました。
新聞配達の途中だった高校生が、いまも戻っていない。
自宅を出た時刻は午前三時二十分。
自転車と新聞の束は、配達区域の途中で見つかっている。
発見場所は、××町の林道の入口付近。
捜索は続いているが、手がかりはない。
××町というのは、うちの町内です。
林道も、歩いて三十分ほどのところにあります。
私は、記事を二度読みました。
読むというより、確かめる作業でした。
同じ行を何度も目で追って、字が動かないことを確かめるのです。
紙の質感も、いつもの新聞と同じでした。
インクのにおいもします。
端に折り目もついています。
違うのは、一面の中身だけでした。
それから、あの子が進んでいった方向を思い出しました。
坂を下りて真っ直ぐ行くと、たしかに林道に出ます。
出勤の時間になって、玄関を出ました。
昨日の男性が、うちのポストに新聞を入れようとしています。
「今日も、担当の子は休みですか」
「ええ」
男性は、ぼやくように続けました。
「無断欠勤です。家にも帰っていないそうですよ」
心臓が、一度大きく打ちました。
「いつからですか」
「二十四日の朝からです」
私は、何も言えませんでした。
二十五日も、二十六日も、あの子は来ているのです。
その日は、仕事が手につきませんでした。
工程表を三回書き直して、三回とも数字を間違えました。
帰りに、販売店の前を通ってみました。
シャッターが半分開いていて、中で誰かが束を数えています。
声をかけようとして、やめました。
何と言えばいいのか、分からなかったからです。
うちには毎朝来ていますよ、とは言えません。
家に帰って、私は古い新聞を全部出しました。
二十五日と二十六日のものを探したのです。
どちらも、ありませんでした。
ほかの日の分は、きちんと束ねてあります。
その二日分だけが、抜けていました。
妻に聞くと、二十五日は古紙回収の日だったと言います。
「じゃあ、出したのか」
「二十五日の分は、出せないでしょう。当日の朝なんだから」
たしかにそうです。
回収は七時で、私が読んだのは四時過ぎでした。
「じゃあ、どこにいったんだ」
妻は、面倒くさそうに肩をすくめました。
「あなた、最近ちょっとおかしいわよ」
そう言われて、私は黙りました。
自分でも、そう思っていたからです。
二人目の配達員
三日目の朝も、同じでした。
むすっとした顔で、挨拶はありません。
私は、思い切って声をかけました。
「君、家に帰っていないそうじゃないか」
返事はありません。
自転車は、角を曲がらずに真っ直ぐ進んでいきます。
あの三日間だけ、彼は角を曲がらずに、真っ直ぐ進んでいきました。
新聞の見出しも、昨日と同じでした。
記事の中身も、一字も変わっていません。
その日、私は工場へ電話を入れて休みを取りました。
年末の忙しい時期に、ずいぶん勝手をしたと思います。
昼過ぎに、林道へ行きました。
冬の林道は、落ち葉が積もって足音が消えます。
私は、脇の茂みを一つずつ見て回りました。
枯れた笹の中に、空き缶と古いタイヤがありました。
それだけです。
二時間ほど歩いて、何も見つかりませんでした。
途中で、鳥の声が一度もしないことに気づきました。
冬でも、林道では鵯の声くらいはするものです。
その日は、自分の足音だけでした。
落ち葉を踏む音が、やけに大きく響きます。
一度、後ろで同じ音がした気がして振り返りました。
誰もいません。
立ち止まると、その音も止まりました。
歩き出すと、また鳴ります。
自分の音の反響だろうと思うことにしました。
そう思わないと、先へ進めませんでした。
帰り道、坂の途中で足を止めました。
坂を下りきったところが林道の入口です。
けれど、その手前に細い道が一本、右へ入っています。
その道の先に、家が三軒ほど並んでいました。
私は、その道には入りませんでした。
入っていれば、と何度も考えました。
細い道の入口には、古い看板が立っていました。
農薬の広告で、字がほとんど消えています。
その下に、犬が繋がれていました。
私が立ち止まると、その犬が吠えました。
吠えながら、坂の上のほうを見ています。
私のほうではありませんでした。
気味が悪くなって、私はそのまま坂を上りました。
上りきったところで、一度だけ振り返りました。
犬は、まだ同じ方向を見ていました。
バックミラーの男という話を読んだとき、同じ後悔の形を見た気がします。
気づく材料は、全部そろっていたのです。
順番に並べなかっただけでした。
裏の物置の油揚げ
四日目の朝、私は寝坊をしました。
顔も洗わずに家を出ると、門のところにあの男性が立っていました。
「見つかりましたよ」
そう言われて、足が止まりました。
「どこで」
「自宅の裏の、物置の中です」
男性は、言葉を選ぶように話しました。
「凍えていたそうです。検視では、二十四日の晩だろうと」
「物置の」
「ええ。うちの裏です。ずっと、家のすぐそばに」
私は、しばらく門の前に立っていました。
「しかし、どうして探しに行かれたんですか」
男性が、不思議そうに聞きました。
「いや」
「ご主人、何かご存じだったんですか」
私は、答えませんでした。
答えようがなかったのです。
男性は、それ以上は聞きませんでした。
ポストに新聞を入れて、自転車に戻りました。
「あの子、いい子でしたよ」
背中を向けたまま、そう言いました。
「配り終わったあと、必ず店の前を掃いて帰るんです」
「そうですか」
「言われてもいないのに」
それだけ言って、行ってしまいました。
掃いて帰る、という話が耳に残りました。
うちの前の角も、たしかにいつも綺麗でした。
落ち葉の季節でも、あの角だけ溜まらないのです。
私は、それを風の向きのせいだと思っていました。
販売店がたたまれると聞いたとき、私は一度だけ前を通りました。
シャッターに、貼り紙が一枚ありました。
長らくのご愛顧ありがとうございました、とだけ書いてあります。
その下の歩道が、綺麗に掃いてありました。
箒の跡が、同じ向きに揃っています。
誰が掃いたのかは、聞きませんでした。
聞かないほうがいいことが、世の中にはあります。
私はその前でしばらく立って、それから帰りました。
帰り道で、また四時の音のことを考えていました。
自転車を押して坂を下りる音は、四十秒で消えます。
あの三日間だけ、その音は一分以上続いていたのです。
坂を下りきってから、まだ進んでいたということになります。
そのことに気づいたのは、ずいぶんあとでした。
曲がらなかった角を、あの子は毎朝掃いていたのかもしれません。
確かめる方法は、もうありません。
その朝から、あの子は来なくなりました。
新聞は、ポストに入るようになりました。
見出しは、普通の見出しです。
彼が真っ直ぐ進んだ先にあったのは、林道ではなく、彼の家の裏だった。
坂を下りて、細い道を右へ入った先です。
私が入らなかった、あの道の先でした。
あの子の家が近所だと知ったのは、そのあとです。
勝手なことだとは思いましたが、私は工場から持ち帰った菓子を袋に入れました。
それから、油揚げを一枚買いました。
あの子が、狐のような目をしていたからです。
理由になっていない理由です。
それでも、ほかに思いつきませんでした。
夜になってから、家の裏手の塀の外に、そっと置いてきました。
嫌がらせではありません。
供養のつもりでした。
翌朝、そこを通ると、袋はなくなっていました。
猫が持っていったのだろうと思います。
仏壇の異変という話の結びに、供えたものが減るのは良いことだ、とありました。
私も、そう思うことにしています。
あれから十年が経ちました。
工場は建て替わり、私は定年を待つ年になりました。
販売店は、去年たたんだそうです。
あの体格のいい男性とは、一度も会っていません。
名前も聞きませんでした。
聞いておけばよかったと思うことが、ときどきあります。
いまでも、四時に目が覚めます。
庭に出て、煙草を一本吸います。
角のほうを見ると、街灯の光が塀の上で止まっています。
その先の坂を下りていく音は、もう聞こえません。