九月一日の朝に鳴った電話
平成四年の九月の話だ。
当時、俺は富山市内の下宿にいる学生だった。
その朝、電話が一度だけ鳴った。
出ると、誰も応えなかった。
雑音もなく、ただ静かだった。
五秒ほどで、向こうから切れた。
間違い電話だと思った。
今になって思えば、あれが始まりだったのかもしれない。
※
その日、俺は八尾へ行くつもりなど、まったくなかった。
翌週に控えた課題の提出が残っていたからだ。
それでも昼過ぎには、俺は電車に乗っていた。
理由は、うまく説明できない。
行かなければ、という気持ちが、朝からずっと胸にあった。
八尾の坂の町では、その晩から風の盆が始まる。
諏訪町の石畳で会った男
八尾は、山あいの段丘の上にある古い町だ。
坂と石畳と、白い壁が続いている。
九月の三日間だけ、この町には人が溢れる。
夕方から、通りの端に人が並びはじめた。
俺は諏訪町の石畳のはずれで、ぼんやり立っていた。
そこで、肩を叩かれた。
振り返ると、高校で同じ部だったSが立っていた。
卒業してから、一度も会っていない相手だった。
※
「なんでお前がおるが」と、Sは言った。
それはこっちの台詞だった。
Sは金沢で働いていて、たまたま休みが取れたのだという。
「来んならんような気がしてな」
Sはそう言って、少し笑った。
俺は笑い返せなかった。
朝から自分の中にあったものと、同じ言葉だったからだ。
揃うはずのない五人
俺たちは、高校の郷土芸能部にいた六人だった。
三味線が二人、太鼓が一人、唄が二人、胡弓が一人。
真面目な部ではなかった。
放課後の音楽室で、菓子を食いながら手を動かしているだけの集まりだ。
それでも、九月が近づくと、全員が妙に静かになった。
この土地の子どもは、風の盆の前になると、なぜかそうなる。
※
Sと二人で通りを歩いていると、また声がかかった。
Mだった。
Mは高岡から車で来ていた。
予定していた用事が急に流れて、行き先がなくなったのだという。
「気づいたら、こっちのインター降りとった」
Mは、自分でも呆れたように頭を掻いた。
※
七時前に、Nが現れた。
Nは職場の慰安旅行の集合場所を間違えて、一人だけ八尾へ来ていた。
八時を回った頃、Tが来た。
Tは電車を一本乗り過ごし、代わりに来た臨時列車がこの町止まりだった。
五人が、示し合わせもせずに、同じ通りに立っていた。
その時点では、まだ、笑い話で済んでいた。
胡弓は輪の外で弾きます
俺たちは、Kが八尾に借りていた部屋へ移った。
Kは大学を出てから、この町で働いていた。
部屋の鍵は、玄関脇の植木鉢の下にある。
高校の頃からの、Kのやり方だった。
※
Kは、半年前から入院している。
二月の朝に倒れて、それきり目を覚まさない。
見舞いに行ったのはSと俺だけで、あとの三人は知らなかった。
Kの話になると、部屋の中の口が重くなった。
誰も、その先を言わなかった。
※
壁に、Kの胡弓が掛かっていた。
胡弓は、三味線を小さくしたような、弓で弾く楽器だ。
この町の踊りには、必ずこの音が入る。
Mが、それを見上げて言った。
「あいつ、輪に入ったことないがやったな」
そうだった。
胡弓は輪の外で弾くので、胡弓弾きは人数に入らないのだそうだ。
Kは高校の三年間、一度も輪の中に入らなかった。
いつも少し離れて、背を丸めて弓を動かしていた。
※
八尾の踊りには、決まりが多い。
手は、顔より上に上げない。
足は、擦るように出して、踵から落とさない。
唄い手は輪の後ろにつき、太鼓は先頭を歩く。
そして胡弓は、列からいちばん離れたところにいる。
高校の顧問は、それを何度も俺たちに言った。
「胡弓は、外から音を出すもんや」
当時の俺は、意味を考えたことがなかった。
※
Kは、口数の少ない男だった。
誰の話にも黙って頷いて、一歩引いて笑っているような奴だ。
俺たちが騒いでいる間、Kはいつも壁のほうを向いて弓を動かしていた。
音楽室の窓から、坂の下の町が見える。
Kはその窓のほうを向いて、松脂を弓に当てていた。
三年間、俺はその背中ばかり見ていた気がする。
※
一度だけ、Kが輪に入ったことがある。
三年の文化祭で、人数が足りなくなった時だ。
Kは胡弓を置いて、いちばん後ろについた。
足の運びは、俺たちの誰より綺麗だった。
ずっと外から見ていたからだ、とMが言った。
その日以降、Kはまた輪の外へ戻った。
誰も、理由を訊かなかった。
灯りを消していた家
夜が更けると、町の灯りが少しずつ落ちていった。
ただ、どの家も、玄関の灯りだけは点いたままだった。
Nが、それを不思議がった。
Sの祖母がこの町の出で、Sだけが理由を知っていた。
「盆の三日は、一つだけ、朝まで消さんがや」
なぜかと訊くと、Sは窓の外を見たまま答えた。
「帰る道の分からんようになる者がおるから、やと」
※
その説明を聞いてから、俺は窓の外を見た。
坂の下まで、点々と黄色い灯りが続いている。
一軒だけ、真っ暗な家があった。
Kの実家だった。
Sが小さく息を吐いた。
誰も、何も言わなかった。
※
部屋の中は、半年前のままだった。
流しに、洗って伏せた茶碗が二つある。
Kは一人暮らしだった。
柱時計が止まっていた。
針は、二時十分を指している。
日めくりだけが、九月一日になっていた。
Nが、それを指で弾いた。
「誰かめくっとるがか」
Kの母が三日前に入ったと聞いていたから、その時だろうと俺は言った。
言ってから、三日前なら八月二十九日だと気づいた。
口には出さなかった。
※
Sが、押し入れから座布団を出した。
五枚あった。
Sは、それを数えてから、少し黙った。
「六枚あるがやと思うとった」
高校の頃、この部屋に六人で泊まったことがある。
そのときの座布団だ。
一枚どこへいったのかは、誰も知らない。
数が合わない晩
十一時を回った頃、Mが外へ出ようと言い出した。
町流しはとうに終わって、通りには誰もいない。
石畳が、街灯の下で濡れたように光っていた。
俺たちは、なんとなく輪になった。
五人だから、輪というより五角形だった。
Sが手拍子を取り、Mが唄い出した。
誰も楽器を持っていない。
※
足音が、石畳に響いた。
踊りの足は、ひとつずつ間を置いて落ちる。
だから数えられる。
Tが、途中で足を止めた。
「なあ」とTが言った。
「足の音、多ないか」
※
全員が止まった。
止まったのに、まだ一つ、足音が続いた。
半拍だけ遅れて、それも止まった。
誰も、振り返らなかった。
笠は五つでした。足音は、六つありました。
そう言えば正確なのだが、あの晩、俺たちは笠すらかぶっていない。
数えたのは、影と、音だけだ。
※
そのとき、風もないのに、匂いがした。
松脂の匂いだった。
弓の毛に塗る、あの乾いた甘い匂い。
輪の外の、坂のほうから来ていた。
胡弓の音は、しなかった。
ただ、匂いだけがあった。
俺たちは、部屋へ戻った。
誰も、外へ一人で出ようとは言わなかった。
※
その晩、俺たちは朝まで部屋を動かなかった。
誰も、坂を一人で下りる気にならなかったからだ。
Sが茶を淹れ、Mが煙草を吸い、Nが天井を見ていた。
Tは、ずっと窓の外の一軒だけ暗い家を見ていた。
会話は、途切れがちだった。
それでも、誰も眠らなかった。
※
四時を過ぎた頃、遠くで胡弓の音がした。
本当に鳴っていたのか、いま思うと自信がない。
盆の朝は、名残の町流しが出ることもある。
ただ、音は坂の下からではなく、上から降りてきた。
坂の上には、墓地と、山しかない。
Sが立ち上がって、窓を閉めた。
「閉めんでええ」とTが言った。
Sは、閉めた。
※
五時を回って、外が白んできた。
暗かった一軒に、灯りが点いた。
Kの母が、朝になってから点けたのだ。
あとで訊くと、その朝、なぜか無性に点けたくなったのだという。
「帰ってきとるような気がしてね」
母親は、そう言って笑った。
俺たちは、笑い返せなかった。
※
八尾を出る電車の中で、Nが小声で言った。
「昨日、輪の真ん中、見たか」
誰も見ていなかった。
五人で輪になっていたのだから、真ん中は空いている。
Nは、そこに石畳の濡れた跡が丸く残っていたと言った。
雨は降っていない。
俺は、写真を撮らなかったことを、少しだけ悔やんでいる。
※
この話を、俺は長いこと誰にもしなかった。
話せば、輪の数をまた数えることになるからだ。
数えなければ、合わないことに気づかない。
老人の言葉は、たぶんそういう意味だった。
それでも、九月が近づくと、俺は指を折ってしまう。
五人。
そのあとに、必ず、もう一つ折りそうになる。
弓の毛だけが新しい
明け方、Nが壁の胡弓を下ろした。
半年間、誰も触っていないはずの楽器だ。
胴の皮には、埃が薄く積もっていた。
弓だけが、白かった。
※
胡弓の弓の毛は、使えば黒ずみ、切れて減っていく。
その弓の毛は、張り替えたばかりのように揃っていた。
Nが、松脂の箱を開けた。
中の松脂は、真ん中がえぐれていた。
使い込んだ形だった。
Kが倒れたのは二月だ。
俺は、それ以上考えるのをやめた。
三日ほど前に、部屋にはKの母が入ったと聞いた。
母親が弓を張り替えるとは、思えなかった。
※
翌日の昼、俺たちは町の資料館へ行った。
誰が言い出したわけでもない。
受付にいたのは、囃子方をやっていたという老人だった。
俺が輪の数の話をすると、老人は湯呑みを置いた。
「今年は、一人多い年やちゃ」
多い年と少ない年があるのか、と俺は訊いた。
老人は、少し困った顔をした。
※
「輪は、数が合わんと解けんがや」
解けない輪は、朝まで回り続けるのだという。
だから町の者は、盆の三日は数を数えない。
数えれば、合っていないことに気づいてしまうからだ。
「気づかんうちは、なんも起きん」
老人は、そう言って話を切り上げた。
俺たちは、前の晩に数えてしまっていた。
※
帰りぎわ、老人が思い出したように言った。
「胡弓弾きが輪に入りたがるがは、悪いことやない」
そう聞こえた。
俺は聞き返したが、老人はもう別の客の相手をしていた。
五枚の葉書
朝になって、俺たちは互いの来た理由を確かめ合った。
Sの休み、Mの流れた用事、Nの間違い、Tの乗り過ごし。
どれも、ほんの少しずれていれば起きなかった。
※
そのとき、Tが鞄から葉書を出した。
「これ、来とったんやけど」
Kの字だった。
今年の風の盆に来い、とだけ書いてある。
残りの四人も、同じものを持っていた。
五人が五人とも、鞄に入れて持ってきていた。
誰も、そのことを言い出さないままだった。
※
消印は、二月十三日だった。
Kが倒れた前日だ。
届いたのは、五人とも八月三十一日だという。
半年、どこかで止まっていたことになる。
そんな仕組みは、郵便にはない。
※
宛名を見て、Mの顔色が変わった。
Mは去年、高岡の中で引っ越している。
葉書には、引っ越したあとの住所が書かれていた。
Nも同じだった。
俺の分も、その春に移った下宿の番地だった。
二月のKが、知りようのない住所だ。
※
消印を、五枚並べて見た。
日付は、五枚とも二月十三日で揃っている。
局名だけが、ばらばらだった。
Tの分は、金沢の局。
Mの分は、高岡の局。
Nの分は、福井の局。
俺の分は、富山の中央局だった。
※
差し出す側の局が、受け取る側の町になっている。
そんな出し方は、一日ではできない。
Kは二月十三日、八尾の職場に出ている。
それは、あとで会社に確かめた。
昼休みに郵便局へ行った記録も残っていた。
買ったのは、葉書五枚だけだ。
切手は買っていない。
俺たちの手元にある五枚には、切手が貼ってある。
鞄の中に、五枚のまま
その日の午後、俺たちはKの実家へ寄った。
玄関の灯りが、点いていた。
Kの母は、俺たちの顔を見て、ああ、と小さく声を出した。
そして、昨夜まで灯りを消していたことを詫びた。
「もう帰ってこられんと思うとったから」
そう言って、母親は目を伏せた。
※
茶を出しながら、母親は思い出したように言った。
「あの子、倒れる前の日にな、葉書を五枚買うて出とるがや」
郵便局の窓口で、五枚買ったのだという。
ポストに入れた形跡はない。
※
母親は、奥から鞄を持ってきた。
Kが倒れた日に持っていた鞄だった。
内側の仕切りから、葉書が出てきた。
五枚あった。
白いままで、一字も書かれていなかった。
誰も、鞄から手を出さなかった。
俺たちの持っている五枚のことは、言えなかった。
※
帰りぎわ、母親が病院の話をした。
前の晩の十一時過ぎに、看護婦から連絡があったのだという。
Kの右手の指が、一度だけ動いた、と。
右手は、弓を持つ手だ。
俺は、玄関の灯りをもう一度見上げた。
※
その年の暮れ、俺は一人で病院へ行った。
Kは、思っていたより静かに眠っていた。
頬がこけて、腕が細くなっている。
右手の指だけが、少し曲がっていた。
弓を持つ形だった。
看護婦は、拘縮というのだと説明してくれた。
「よくあることですよ」
俺は頷いた。
※
帰り際、俺はKの耳元で、九月の話をした。
足音が六つあったこと。
松脂の匂いがしたこと。
返事はなかった。
ただ、部屋を出るとき、指がもう一度、同じ形に動いた気がした。
気がしただけかもしれない。
俺は、確かめなかった。
※
あの晩の五人の来かたを、俺は今でもときどき並べてみる。
電車が一本遅れていたら。
あの角を曲がっていなかったら。
そのどれか一つでも欠けていれば、俺たちは揃っていない。
見えない誰かが、一人ずつ丁寧に、糸を手繰り寄せたようだった。
Mの言った、来んならんような気がした、という言葉が今も重い。
毎年、九月の三日だけ
あれから三十年以上が過ぎた。
Kは、今も目を覚まさない。
看護の記録には、九月の三日間だけ、指の動きが残るのだそうだ。
ほかの月には、一度もない。
理由を訊いても、病院の人は困った顔をするだけだ。
※
俺たち五人は、毎年、九月に八尾へ集まる。
誰も声をかけないのに、なぜか揃う。
石畳のはずれで、少しだけ輪になる。
数に入らない者が、あの晩、数を合わせに来ていたのです。
そう考えると、辻褄は合う。
合ってしまうことが、俺には怖い。
※
Sの祖母は、こんなことを言っていたそうだ。
輪は、数を欠いたまま解いてはいけない。
欠けたときは、外から一人、入る。
「入ってくるがは、たいてい、輪に入れんかった者や」
胡弓弾きは、輪に入れない。
入りたかったのかどうかは、Kに訊くほかない。
※
沈んだ村や消えた集落の話を、俺は後から集めるようになった。
この土地には、そういう話が多い。夜神楽の三十四枚目の面のような、数の合わない話だ。
毎年決まった手が動くという話も読んだ。蚕の町で毎年同じ手が縫う札は、俺の知っている感触にいちばん近かった。
どれも、答えは書いていない。
※
去年の九月、輪の外に、松脂の匂いがした。
五人とも気づいていたが、誰も口にしなかった。
俺たちはもう、足音を数えない。
数えなければ、合わないこともない。
今も、あれが何だったのかは分からない。
ただ、Kの家の玄関の灯りは、九月の三日だけ、朝まで点いている。