風の盆の輪に一人多い

九月一日の朝に鳴った電話

平成四年の九月の話だ。

当時、俺は富山市内の下宿にいる学生だった。

その朝、電話が一度だけ鳴った。

出ると、誰も応えなかった。

雑音もなく、ただ静かだった。

五秒ほどで、向こうから切れた。

間違い電話だと思った。

今になって思えば、あれが始まりだったのかもしれない。

その日、俺は八尾へ行くつもりなど、まったくなかった。

翌週に控えた課題の提出が残っていたからだ。

それでも昼過ぎには、俺は電車に乗っていた。

理由は、うまく説明できない。

行かなければ、という気持ちが、朝からずっと胸にあった。

八尾の坂の町では、その晩から風の盆が始まる。

諏訪町の石畳で会った男

八尾は、山あいの段丘の上にある古い町だ。

坂と石畳と、白い壁が続いている。

九月の三日間だけ、この町には人が溢れる。

夕方から、通りの端に人が並びはじめた。

俺は諏訪町の石畳のはずれで、ぼんやり立っていた。

そこで、肩を叩かれた。

振り返ると、高校で同じ部だったSが立っていた。

卒業してから、一度も会っていない相手だった。

「なんでお前がおるが」と、Sは言った。

それはこっちの台詞だった。

Sは金沢で働いていて、たまたま休みが取れたのだという。

「来んならんような気がしてな」

Sはそう言って、少し笑った。

俺は笑い返せなかった。

朝から自分の中にあったものと、同じ言葉だったからだ。

揃うはずのない五人

俺たちは、高校の郷土芸能部にいた六人だった。

三味線が二人、太鼓が一人、唄が二人、胡弓が一人。

真面目な部ではなかった。

放課後の音楽室で、菓子を食いながら手を動かしているだけの集まりだ。

それでも、九月が近づくと、全員が妙に静かになった。

この土地の子どもは、風の盆の前になると、なぜかそうなる。

Sと二人で通りを歩いていると、また声がかかった。

Mだった。

Mは高岡から車で来ていた。

予定していた用事が急に流れて、行き先がなくなったのだという。

「気づいたら、こっちのインター降りとった」

Mは、自分でも呆れたように頭を掻いた。

七時前に、Nが現れた。

Nは職場の慰安旅行の集合場所を間違えて、一人だけ八尾へ来ていた。

八時を回った頃、Tが来た。

Tは電車を一本乗り過ごし、代わりに来た臨時列車がこの町止まりだった。

五人が、示し合わせもせずに、同じ通りに立っていた。

その時点では、まだ、笑い話で済んでいた。

胡弓は輪の外で弾きます

俺たちは、Kが八尾に借りていた部屋へ移った。

Kは大学を出てから、この町で働いていた。

部屋の鍵は、玄関脇の植木鉢の下にある。

高校の頃からの、Kのやり方だった。

Kは、半年前から入院している。

二月の朝に倒れて、それきり目を覚まさない。

見舞いに行ったのはSと俺だけで、あとの三人は知らなかった。

Kの話になると、部屋の中の口が重くなった。

誰も、その先を言わなかった。

壁に、Kの胡弓が掛かっていた。

胡弓は、三味線を小さくしたような、弓で弾く楽器だ。

この町の踊りには、必ずこの音が入る。

Mが、それを見上げて言った。

「あいつ、輪に入ったことないがやったな」

そうだった。

胡弓は輪の外で弾くので、胡弓弾きは人数に入らないのだそうだ。

Kは高校の三年間、一度も輪の中に入らなかった。

いつも少し離れて、背を丸めて弓を動かしていた。

八尾の踊りには、決まりが多い。

手は、顔より上に上げない。

足は、擦るように出して、踵から落とさない。

唄い手は輪の後ろにつき、太鼓は先頭を歩く。

そして胡弓は、列からいちばん離れたところにいる。

高校の顧問は、それを何度も俺たちに言った。

「胡弓は、外から音を出すもんや」

当時の俺は、意味を考えたことがなかった。

Kは、口数の少ない男だった。

誰の話にも黙って頷いて、一歩引いて笑っているような奴だ。

俺たちが騒いでいる間、Kはいつも壁のほうを向いて弓を動かしていた。

音楽室の窓から、坂の下の町が見える。

Kはその窓のほうを向いて、松脂を弓に当てていた。

三年間、俺はその背中ばかり見ていた気がする。

一度だけ、Kが輪に入ったことがある。

三年の文化祭で、人数が足りなくなった時だ。

Kは胡弓を置いて、いちばん後ろについた。

足の運びは、俺たちの誰より綺麗だった。

ずっと外から見ていたからだ、とMが言った。

その日以降、Kはまた輪の外へ戻った。

誰も、理由を訊かなかった。

灯りを消していた家

夜が更けると、町の灯りが少しずつ落ちていった。

ただ、どの家も、玄関の灯りだけは点いたままだった。

Nが、それを不思議がった。

Sの祖母がこの町の出で、Sだけが理由を知っていた。

「盆の三日は、一つだけ、朝まで消さんがや」

なぜかと訊くと、Sは窓の外を見たまま答えた。

「帰る道の分からんようになる者がおるから、やと」

その説明を聞いてから、俺は窓の外を見た。

坂の下まで、点々と黄色い灯りが続いている。

一軒だけ、真っ暗な家があった。

Kの実家だった。

Sが小さく息を吐いた。

誰も、何も言わなかった。

部屋の中は、半年前のままだった。

流しに、洗って伏せた茶碗が二つある。

Kは一人暮らしだった。

柱時計が止まっていた。

針は、二時十分を指している。

日めくりだけが、九月一日になっていた。

Nが、それを指で弾いた。

「誰かめくっとるがか」

Kの母が三日前に入ったと聞いていたから、その時だろうと俺は言った。

言ってから、三日前なら八月二十九日だと気づいた。

口には出さなかった。

Sが、押し入れから座布団を出した。

五枚あった。

Sは、それを数えてから、少し黙った。

「六枚あるがやと思うとった」

高校の頃、この部屋に六人で泊まったことがある。

そのときの座布団だ。

一枚どこへいったのかは、誰も知らない。

数が合わない晩

十一時を回った頃、Mが外へ出ようと言い出した。

町流しはとうに終わって、通りには誰もいない。

石畳が、街灯の下で濡れたように光っていた。

俺たちは、なんとなく輪になった。

五人だから、輪というより五角形だった。

Sが手拍子を取り、Mが唄い出した。

誰も楽器を持っていない。

足音が、石畳に響いた。

踊りの足は、ひとつずつ間を置いて落ちる。

だから数えられる。

Tが、途中で足を止めた。

「なあ」とTが言った。

「足の音、多ないか」

全員が止まった。

止まったのに、まだ一つ、足音が続いた。

半拍だけ遅れて、それも止まった。

誰も、振り返らなかった。

笠は五つでした。足音は、六つありました。

そう言えば正確なのだが、あの晩、俺たちは笠すらかぶっていない。

数えたのは、影と、音だけだ。

そのとき、風もないのに、匂いがした。

松脂の匂いだった。

弓の毛に塗る、あの乾いた甘い匂い。

輪の外の、坂のほうから来ていた。

胡弓の音は、しなかった。

ただ、匂いだけがあった。

俺たちは、部屋へ戻った。

誰も、外へ一人で出ようとは言わなかった。

その晩、俺たちは朝まで部屋を動かなかった。

誰も、坂を一人で下りる気にならなかったからだ。

Sが茶を淹れ、Mが煙草を吸い、Nが天井を見ていた。

Tは、ずっと窓の外の一軒だけ暗い家を見ていた。

会話は、途切れがちだった。

それでも、誰も眠らなかった。

四時を過ぎた頃、遠くで胡弓の音がした。

本当に鳴っていたのか、いま思うと自信がない。

盆の朝は、名残の町流しが出ることもある。

ただ、音は坂の下からではなく、上から降りてきた。

坂の上には、墓地と、山しかない。

Sが立ち上がって、窓を閉めた。

「閉めんでええ」とTが言った。

Sは、閉めた。

五時を回って、外が白んできた。

暗かった一軒に、灯りが点いた。

Kの母が、朝になってから点けたのだ。

あとで訊くと、その朝、なぜか無性に点けたくなったのだという。

「帰ってきとるような気がしてね」

母親は、そう言って笑った。

俺たちは、笑い返せなかった。

八尾を出る電車の中で、Nが小声で言った。

「昨日、輪の真ん中、見たか」

誰も見ていなかった。

五人で輪になっていたのだから、真ん中は空いている。

Nは、そこに石畳の濡れた跡が丸く残っていたと言った。

雨は降っていない。

俺は、写真を撮らなかったことを、少しだけ悔やんでいる。

この話を、俺は長いこと誰にもしなかった。

話せば、輪の数をまた数えることになるからだ。

数えなければ、合わないことに気づかない。

老人の言葉は、たぶんそういう意味だった。

それでも、九月が近づくと、俺は指を折ってしまう。

五人。

そのあとに、必ず、もう一つ折りそうになる。

弓の毛だけが新しい

明け方、Nが壁の胡弓を下ろした。

半年間、誰も触っていないはずの楽器だ。

胴の皮には、埃が薄く積もっていた。

弓だけが、白かった。

胡弓の弓の毛は、使えば黒ずみ、切れて減っていく。

その弓の毛は、張り替えたばかりのように揃っていた。

Nが、松脂の箱を開けた。

中の松脂は、真ん中がえぐれていた。

使い込んだ形だった。

Kが倒れたのは二月だ。

俺は、それ以上考えるのをやめた。

三日ほど前に、部屋にはKの母が入ったと聞いた。

母親が弓を張り替えるとは、思えなかった。

翌日の昼、俺たちは町の資料館へ行った。

誰が言い出したわけでもない。

受付にいたのは、囃子方をやっていたという老人だった。

俺が輪の数の話をすると、老人は湯呑みを置いた。

「今年は、一人多い年やちゃ」

多い年と少ない年があるのか、と俺は訊いた。

老人は、少し困った顔をした。

「輪は、数が合わんと解けんがや」

解けない輪は、朝まで回り続けるのだという。

だから町の者は、盆の三日は数を数えない。

数えれば、合っていないことに気づいてしまうからだ。

「気づかんうちは、なんも起きん」

老人は、そう言って話を切り上げた。

俺たちは、前の晩に数えてしまっていた。

帰りぎわ、老人が思い出したように言った。

「胡弓弾きが輪に入りたがるがは、悪いことやない」

そう聞こえた。

俺は聞き返したが、老人はもう別の客の相手をしていた。

五枚の葉書

朝になって、俺たちは互いの来た理由を確かめ合った。

Sの休み、Mの流れた用事、Nの間違い、Tの乗り過ごし。

どれも、ほんの少しずれていれば起きなかった。

そのとき、Tが鞄から葉書を出した。

「これ、来とったんやけど」

Kの字だった。

今年の風の盆に来い、とだけ書いてある。

残りの四人も、同じものを持っていた。

五人が五人とも、鞄に入れて持ってきていた。

誰も、そのことを言い出さないままだった。

消印は、二月十三日だった。

Kが倒れた前日だ。

届いたのは、五人とも八月三十一日だという。

半年、どこかで止まっていたことになる。

そんな仕組みは、郵便にはない。

宛名を見て、Mの顔色が変わった。

Mは去年、高岡の中で引っ越している。

葉書には、引っ越したあとの住所が書かれていた。

Nも同じだった。

俺の分も、その春に移った下宿の番地だった。

二月のKが、知りようのない住所だ。

消印を、五枚並べて見た。

日付は、五枚とも二月十三日で揃っている。

局名だけが、ばらばらだった。

Tの分は、金沢の局。

Mの分は、高岡の局。

Nの分は、福井の局。

俺の分は、富山の中央局だった。

差し出す側の局が、受け取る側の町になっている。

そんな出し方は、一日ではできない。

Kは二月十三日、八尾の職場に出ている。

それは、あとで会社に確かめた。

昼休みに郵便局へ行った記録も残っていた。

買ったのは、葉書五枚だけだ。

切手は買っていない。

俺たちの手元にある五枚には、切手が貼ってある。

鞄の中に、五枚のまま

その日の午後、俺たちはKの実家へ寄った。

玄関の灯りが、点いていた。

Kの母は、俺たちの顔を見て、ああ、と小さく声を出した。

そして、昨夜まで灯りを消していたことを詫びた。

「もう帰ってこられんと思うとったから」

そう言って、母親は目を伏せた。

茶を出しながら、母親は思い出したように言った。

「あの子、倒れる前の日にな、葉書を五枚買うて出とるがや」

郵便局の窓口で、五枚買ったのだという。

ポストに入れた形跡はない。

母親は、奥から鞄を持ってきた。

Kが倒れた日に持っていた鞄だった。

内側の仕切りから、葉書が出てきた。

五枚あった。

白いままで、一字も書かれていなかった。

誰も、鞄から手を出さなかった。

俺たちの持っている五枚のことは、言えなかった。

帰りぎわ、母親が病院の話をした。

前の晩の十一時過ぎに、看護婦から連絡があったのだという。

Kの右手の指が、一度だけ動いた、と。

右手は、弓を持つ手だ。

俺は、玄関の灯りをもう一度見上げた。

その年の暮れ、俺は一人で病院へ行った。

Kは、思っていたより静かに眠っていた。

頬がこけて、腕が細くなっている。

右手の指だけが、少し曲がっていた。

弓を持つ形だった。

看護婦は、拘縮というのだと説明してくれた。

「よくあることですよ」

俺は頷いた。

帰り際、俺はKの耳元で、九月の話をした。

足音が六つあったこと。

松脂の匂いがしたこと。

返事はなかった。

ただ、部屋を出るとき、指がもう一度、同じ形に動いた気がした。

気がしただけかもしれない。

俺は、確かめなかった。

あの晩の五人の来かたを、俺は今でもときどき並べてみる。

電車が一本遅れていたら。

あの角を曲がっていなかったら。

そのどれか一つでも欠けていれば、俺たちは揃っていない。

見えない誰かが、一人ずつ丁寧に、糸を手繰り寄せたようだった。

Mの言った、来んならんような気がした、という言葉が今も重い。

毎年、九月の三日だけ

あれから三十年以上が過ぎた。

Kは、今も目を覚まさない。

看護の記録には、九月の三日間だけ、指の動きが残るのだそうだ。

ほかの月には、一度もない。

理由を訊いても、病院の人は困った顔をするだけだ。

俺たち五人は、毎年、九月に八尾へ集まる。

誰も声をかけないのに、なぜか揃う。

石畳のはずれで、少しだけ輪になる。

数に入らない者が、あの晩、数を合わせに来ていたのです。

そう考えると、辻褄は合う。

合ってしまうことが、俺には怖い。

Sの祖母は、こんなことを言っていたそうだ。

輪は、数を欠いたまま解いてはいけない。

欠けたときは、外から一人、入る。

「入ってくるがは、たいてい、輪に入れんかった者や」

胡弓弾きは、輪に入れない。

入りたかったのかどうかは、Kに訊くほかない。

沈んだ村や消えた集落の話を、俺は後から集めるようになった。

この土地には、そういう話が多い。夜神楽の三十四枚目の面のような、数の合わない話だ。

毎年決まった手が動くという話も読んだ。蚕の町で毎年同じ手が縫う札は、俺の知っている感触にいちばん近かった。

どれも、答えは書いていない。

去年の九月、輪の外に、松脂の匂いがした。

五人とも気づいていたが、誰も口にしなかった。

俺たちはもう、足音を数えない。

数えなければ、合わないこともない。

今も、あれが何だったのかは分からない。

ただ、Kの家の玄関の灯りは、九月の三日だけ、朝まで点いている。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。