
今でも、あの川沿いの道は、対岸からしか歩かない。
有刺鉄線の向こう側の記憶は、小学生だった頃のものだ。
今は東京で暮らしている。
仕事で川の近くを通るたびに、足が自然と、橋のもう一方の歩道を選ぶ。
理由を聞かれても、うまく答えられない。
私の育った町には、川のカーブに沿って、小さな林があった。
川は、町の西側をゆっくり曲がって流れていた。
春には、土手に菜の花が咲いた。
夏には、その黄色い花の代わりに、背の高い草が土手を覆った。
川沿いの道を歩いていると、ときどき、対岸のコンクリートの壁の向こうに、濃い緑の塊が見えた。
それが、竹林の背だった。
私たちは、それを「背中」と呼んでいた。
誰かが背中を向けて、こちらをじっと待っているように見えたからだ。
今の私は、あの背中を、冗談でも「背中」と呼べない。
林の奥は、少し変わっていた。
途中まで進むと、ある線を境にして、木々が突然、竹に変わるのだ。
その竹林の前には、有刺鉄線の柵が張られていた。
有刺鉄線の向こう側は、大人も子どもも、誰も入らない場所だった。
誰かに禁じられた覚えはない。
ただ、なんとなくそう教えられてきたので、守っていただけだ。
禁止の札も、看板も、どこにもなかった。
それなのに、誰も破らなかったことが、今にして思えば、いちばん奇妙だった。
子どもの頃の禁じられた場所の話は、他にも読んだことがある。
けれど、自分の話を書くのは、これが初めてになる。
川のカーブと竹林
林はそれほど大きくなかった。
端から端まで、子どもの足で十分も歩けば抜けられる。
反対側は、川のカーブに沿っていた。
川と竹林のあいだは、コンクリートの壁で固められていた。
壁は高く、大人の背丈の倍はあった。
だから、川の対岸に立つと、竹林の「背」だけが見えた。
濃い緑の塊が、まっすぐに空へ伸びていて、風が吹くたびに、一度に同じ方向へ傾いた。
人が竹林へ入るには、林側から入り、有刺鉄線を越えるしかなかった。
他に道はなかった。
当時の私は、友達同士で秘密基地を作ったり、川沿いを探検したりして遊ぶ子どもだった。
林は、庭の延長のような場所だった。
どの木が登りやすいか、どこに枯れ枝が多いか、全部知っていた。
知らないのは、鉄線の向こうだけだった。
一度だけ、柵の前で立ち止まったことがある。
四年生の秋、秘密基地用の木材を探していたときだ。
鉄線は、肩の高さに三段、張られていた。
錆びた棘が、竹林のほうを向いて、等間隔に並んでいた。
どうして、自分たちのほうではなく、向こう側を向いているのか。
そのときは、ただ不思議に思っただけだった。
ある日の放課後、友達の誰かが言い出した。
「あの竹林の中って、何があるんだろう」
「一億円が埋まってるんじゃね?」
「それ、絶対ない」
「じゃあ、宝の地図とか」
所詮、小学生の男子が考えることだ。
せいぜい、その程度の想像しかできなかった。
それでも私たちは、ワクワクしながら想像を膨らませた。
鉄線の向こうに誰かが住んでいるという噂を、聞いたことのある子はいなかった。
ただ一人、近所のおじいさんが、散歩のたびに、柵の前で小さく手を合わせていた。
私たちは、それを見て見ぬふりをした。
今までにも、竹林の話題が出たことはあった。
そのたびに、誰かが言った。
「あそこは、危ないから、入っちゃだめなんだよ」
「危ないって、何が?」
「知らない。親がそう言ってた」
「うちの親も」
誰に聞いても、答えは同じだった。
理由を知っている大人は、誰一人いなかった。
誰が言い出したのかは、誰も知らなかった。
ただ、暗黙のルールとして、全員が従っていた。
夕方、柵の近くを犬の散歩で通る大人たちは、誰も、竹林のほうを見なかった。
見ないようにしていた、というほうが近かった。
けれど、五年生にもなると、好奇心のほうが強くなる。
私たちは、とうとう、竹林の中を確かめることに決めた。
次の日曜日、同じクラスの遊び仲間が集まった。
私と、T君、M君、A君、それにもう一人。
全部で五人だった。
ランドセルを置いて、懐中電灯と、水筒と、チョコレートを持った。
遠足のような持ち物だった。
母は、玄関で私の背中に声をかけた。
「どこへ行くの」
「林」
「あんまり奥まで行かないのよ」
奥、というのがどこまでを指すのか、母は言わなかった。
けれど、誰も笑っていなかった。
有刺鉄線の向こう側
林の入り口に立った私たちは、誰が先頭を歩くかで揉めた。
結局、ジャンケンに負けた私が先頭になった。
林の中は、何度も入ったことがあるので余裕だった。
枯葉や小枝の混じった土を、ざくざくと踏む。
皆の足音が、後ろから付いてきた。
「うわーっ!」
いちばん後ろにいた、意気地なしのT君が叫んだ。
「何!?」
「ど、どうした!?」
皆がビクッとして立ち止まる。
どうやら、虫が首に纏わりついただけらしかった。
「ビビらせんなよー!」
T君は、ブーイングの嵐を浴びた。
そうこうするうちに、有刺鉄線が近づいてきた。
竹林のほうは、やけに暗い。
真昼だというのに、高く伸び切った竹が、完全に陽射しを遮っていた。
風に揺られて、笹の擦れる音が耳に飛び込んできた。
「ザワザワザワ」
「ザワザワ……」
「何か、怖ぇーな……」
私の後ろにいたM君が、ぽつりと言った。
「おいおい、よせよー」
「ビビってんのかー?」
T君だけが、笑わなかった。
彼は、自分の袖をぎゅっと握りしめて、竹林のほうをじっと見ていた。
「どうした」
「……いま、誰かに呼ばれた気がした」
「風だろ」
「うん。……風、だよな」
そう言ったT君の声は、少し震えていた。
皆、強がっているだけだった。
けれど、ここまで来たのだから、引き返す理由もなかった。
柵の壊れかけた部分を見つけて、有刺鉄線を足で広げた。
鉄線は、ぎい、と音を立てて、地面近くまで下がった。
まず私がくぐった。
冷たい金属が、背中の上をかすめた。
皆も、恐る恐る後に続いた。
有刺鉄線の向こう側へ入ったのは、あれが最初で、最後だった。
『こっち側』に来ると、さらに暗く感じた。
気のせいかもしれないが、空気が少し冷たかった。
耳が、詰まったようになった。
さっきまで聞こえていた林の鳥の声が、鉄線を境に、ぷつりと途切れていた。
湿った土と、青臭い竹の匂いが、鼻の奥に入ってきた。
「何かあったらダッシュで逃げる。それでいいな」
「おう」
「約束な」
私たちは、そのルールを決めて、奥へ進んだ。
足音を揃えるように歩いた。
誰かが乱すと、ほかの全員が一拍遅れて、足を踏み直した。
そのわずかな間が、やけに長く感じられた。
まさか、こんなに不気味だとは思わなかった。
目の前に広がるのは、竹林の青緑色だけだった。
太い竹。細い竹。とても背の高いもの。途中で折れているもの。
足もとの土からは、ときどき筍が顔を覗かせていた。
どの筍も、先端が同じ方向に、わずかに曲がっていた。
鉄線の外へ、向かうように。
どれも、同じ高さに揃っているように見えた。
同じ年に、一斉に伸びたかのようだった。
「何か、時間が止まってるみたいだね……」
T君が言った。
変な表現かもしれないが、確かにそうだった。
ザワザワと絶え間なく続く笹の音は、静かすぎた。
風はあるのに、足もとの落ち葉は、一枚も動かなかった。
しばらく進むと、竹の隙間から、明るい光が漏れている場所が見えた。
「あそこ! 何かありそうだぜ!」
A君が指さした。
皆で、その光のほうへ向かった。
青緑色の竹のあいだから、黄色い光が漏れていた。
とても不思議な光景だった。
すり鉢の穴と廃車
黄色い光の正体は、すぐに分かった。
竹の隙間を抜けると、半径五メートルほどの空間があった。
その部分だけ、竹が全部枯れて、黄色くなっている。
枯れた竹に、陽が反射して、黄色く光っていたのだ。
私たちは、その『広場』の端に立った。
足の裏が、急に柔らかくなった気がした。
土が、腐った葉でふかふかしている。
その下の地面が、呼吸するように、わずかに沈んだ。
広場の中央には、巨大なアリ地獄のような、すり鉢状の穴が二つ並んでいた。
その横に、ずいぶん古い廃車が一台、置かれていた。
タイヤはなく、ボディは赤茶けた錆に覆われていた。
窓ガラスは、一枚も残っていなかった。
運転席には、座席のばねだけが、骨のように突き出ていた。
ハンドルがあるべき場所には、黒い穴が空いていた。
「何だこれ?」
誰かが言った。
皆、その光景を少しのあいだ、じっと見つめていた。
穴の縁に生えた草は、どれも根元から先まで、同じ向きに倒れていた。
まるで、何かが長いあいだ、同じ場所を這い回ってきたかのようだった。
M君が、突然、穴に向かって走り出した。
「おい、この穴、面白くね?」
「あ、待て」
私が止めるより早く、M君はすり鉢の縁を駆け下りていった。
後を追って、皆で穴の中を覗き込んだ。
そこには何もなかった。
ちょうど、私たち小学生の背丈と同じくらいの深さの、空っぽの窪みがあるだけだった。
「なんだ、何もねーじゃん!」
M君の笑い声が、穴の底から、くぐもって聞こえた。
底に立つ彼の足もとの土が、湿って黒く光っていた。
M君は、穴の斜面をぐるぐる回りながら、底まで走っていった。
皆もそれぞれ、騒ぎ出した。
廃車を蹴飛ばす者。穴の中でふざけ合う者。
A君は、枯れた竹の枝を拾って、穴の斜面を叩いた。
かさっ、かさっ、と乾いた音がした。
音は、返ってこなかった。
広い空洞なのに、響くはずの音が、吸い込まれたように消えた。
私は、廃車のトランクに近づいた。
錆びた蓋の端が、少しだけ浮いていた。
鼻を近づけると、線香とも古い畳とも違う、乾いた草の匂いがした。
甘くて、胸が悪くなるような匂いだった。
隙間から、中を覗き込んだ。
暗い箱の内側に、何かが貼られているのが見えた。
紙だった。
一面に、びっしりと、御札が貼り付けられていた。
赤い判が、隙間なく並んでいた。
御札の文字は、読めなかった。
読めないのではない。
文字が、紙の上で、ゆっくり動いている気がして、焦点が合わなかった。
息が止まった。
そのとき、それは突然、起こった。
「何やってんだ! コラァッ!」
大人の怒鳴り声が、広場の向こうから響いた。
私たちは、一目散に駆け出した。
逃げ出す直前、私は、はっきりと見てしまった。
『広場』の反対側に、一人の男が立っていた。
腕を組んで、物凄い形相で、こちらを睨みつけていた。
まるで、頑固な親父が、近所の悪ガキを追い払うような態度だった。
なぜか、顔だけは、ぼやけて見えた。
けれど、古びた茶色い着物を着ていることは、はっきり目に焼き付いた。
閉じられた隙間
夢中で走った。
足の下で、枯れた竹の葉が、ぱきぱきと折れた。
背後の音は、次第に、足音のようにも聞こえた。
竹が、顔や腕を叩いた。
途中で、T君が泣き出した。
つられて、私の目からも、涙が出てきた。
とにかく、あの場所を離れたかった。
有刺鉄線のところまで戻ってきたとき、私は愕然とした。
来るときに足で広げた、あの壊れかけた隙間が、なかったのだ。
指で触れた鉄線は、さっきよりも冷たかった。
その一方で、ねじられた針金の端に、ほんのりと人の手の温かさが残っていた。
鉄線は、ぴんと張られ、隙間なく固く閉じていた。
針金の端が、新しく、ねじって留められていた。
「なんで!?」
「さっきは、ここだったよな!?」
「早く! 早く!」
後ろから、笹のザワザワという音が近づいてきた。
風のない竹林で、その音だけが、波のように押し寄せてきた。
私たちは、泥だらけの手で、鉄線を無理やり広げた。
T君の腕から血が流れ、M君のシャツが破れた。
痛みなど感じる暇もなく、一人ずつ、その隙間に体を押し込んだ。
最後の一人が出てきたとき、私は、振り返らなかった。
どうにか林の入り口までたどり着いた。
皆、汗だくで、息が切れて、呼吸ができなくなるのではないかと思った。
誰も、一言も話さなかった。
T君の手の傷から、血が一筋、袖口に染みていった。
誰も、それを拭こうとしなかった。
そんな中、私は震えが止まらなかった。
あの一瞬のうちに、いくつもの恐ろしいことを、記憶してしまっていたからだ。
男に怒鳴られる直前、廃車のトランクの隙間から見えた、びっしりの御札。
男を見たとき、その背後に、薄っすらと見えた廃屋の影。
完全に倒壊していて、人が住める状態ではなかった。
そして、ぼやけて見えなかったはずの男の顔を、なぜか、はっきりと覚えていること。
男の目は、一つしかなかった。
顔の中央に、一つ。
その夜、私は熱を出した。
夢のなかで、あの黄色い広場に立っていた。
男は、背中を向けていた。
振り向かないでくれ、と祈ったところで、目が覚めた。
枕もとの時計が、午前三時を指していた。
窓の外で、笹の擦れる音がした。
この町に、竹林などないはずなのに。
母が額に手を当てて、心配そうに尋ねた。
「どこで遊んできたの」
「……林」
「林のどこ」
私は、首を横に振った。
言えば、あの目が、また見えてしまう気がした。
翌週、友達の誰も、あの林の話をしなかった。
休み時間にも、放課後にも、誰一人。
暗黙のルールが、もう一度、全員を縛っていた。
やがて、私たちは進級し、別々の中学に進んだ。
大人になって、町を離れた。
林が、いつ宅地になったのかは、知らない。
けれど、川のコンクリートの壁だけは、今も残っている。
帰省のたびに、私は対岸の堤防の上に立つ。
そこから、かつて竹林だった場所を眺める。
竹の背は、もう見えない。
代わりに、新しい家が三軒、建っている。
そのどれにも、灯りがついたところを、私は見たことがない。
あの日、鉄線を足で広げたのは、私たちだった。
あの柵の棘が、竹林のほうを向いていたことを、私はずっと思い出さないようにしてきた。
人を入れないための柵なら、棘は外を向くはずだった。
けれど、閉じたのは、誰だったのか。
それを確かめるために、あの柵をもう一度くぐる勇気は、私にはない。
有刺鉄線の向こう側で見たものは、今も、誰にも話していない。
その時の事を、なぜ先生や親に言わなかったのか、今でも後悔している。