ウォーリーを探せの怖い都市伝説

その絵本には、全部のページに赤鉛筆で丸がついていた。

一ページも欠かさず、ウォーリーのいる場所に、正確に。

最後の見開きを除いて。

大学生の頃、私は地方都市の古い商店街に下宿していた。

アーケードの端に、「文栄堂」という古本屋があった。

間口は狭いのに、奥に入るほど棚が高くなる、洞窟のような店だった。

古い紙の匂いと、店主が淹れる安い珈琲の匂いが、いつも混ざっていた。

棚と棚のあいだは、人がすれ違えないほど狭かった。

天井近くの本は、店主が長い火ばさみのような道具で器用に抜き取った。

アーケードの屋根を雨が叩く音が、店のいちばん奥まで届いた。

あの店の中だけ、時間が外より少しゆっくり流れていた気がする。

店主は六十がらみの痩せた人で、文庫の値付けが異様に正確なことで知られていた。

無口だが、本の話になると止まらない人だった。

客のいない午後は、レジの椅子で文庫を読みながら、ラジオの野球中継を小さく流していた。

雨宿りに飛び込んだのがきっかけで、私は週に二度はその店に通うようになった。

最初の会話は、よく覚えている。

レジ横の山から漱石の古い全集を一冊買ったら、「君、装丁で選んだろう」と図星を指された。

それからは、行くたびに珈琲が出るようになった。

砂糖もミルクもなしの、ただ苦いだけの珈琲だった。

下宿の窓からはアーケードの屋根が見えて、夕方になると、文栄堂の看板の電球が一拍遅れて点いた。

いちばん奥の児童書の棚は、ほとんど客が来ない場所だった。

児童書の棚だけ、棚板が低く作られていた。

「子どもの目の高さだ」と店主は言っていた。

その棚に子どもの客が来るのを、私は一度も見たことがなかったけれど。

その日、私はなんとなくその棚の前にいた。

背表紙の禿げた図鑑のあいだに、大判の絵本が一冊、挟まっていた。

『ウォーリーをさがせ』。

言わずと知れた、あの絵本である。

何百という群衆の中から、赤白ストライプのシャツを着た、ひょろりとした青年を探し出す。

世界中で売れた、遊びの絵本だ。

奥付は一九八七年。

定価のシールの上に、文栄堂の値札が貼られていた。

三百円だった。

日本で言えば昭和の末、最初のブームの頃の版だった。

懐かしさで、私は何気なくページを開いた。

そして、手が止まった。

丸がついていた。

雑踏のまん中の、ウォーリーの顔の上に、赤鉛筆でくるりと。

次のページにも。

その次にも。

浜辺の場面も、駅の場面も、遊園地の場面も。

全ページ、例外なく、ウォーリーは赤い丸の中にいた。

古本にはよくあることだ、と最初は思った。

前の持ち主の子どもが、見つけた印をつけながら遊んだのだろう、と。

ただ、めくるうちに、薄ら寒いものが背中を這い上がってきた。

丸が、綺麗すぎるのだ。

探した形跡が、ないのだ。

普通、子どもはまず指でなぞる。

紛らわしい人物に間違えて印をつけ、消した跡が残る。

この本には、それが一箇所もなかった。

迷いのない、一発の丸だけが、ページの中の一点に置かれていた。

まるで、答えを先に知っていたかのように。

赤鉛筆の丸を、私は一ページずつ、指でなぞって確かめた。

筆圧が、どのページもまったく同じだった。

最初のページの丸と、最後から二番目のページの丸が、同じ濃さなのだ。

百ページ近く遊んで、鉛筆は減らなかったのだろうか。

それに、本そのものもおかしかった。

よく日に焼けているのに、読み込まれた本特有のたわみがない。

遊ばれた本ではない。開かれた本だ。

その区別が、古本屋の棚の前では、妙にはっきりとわかった。

見返しには、名前を消した跡があった。

消しゴムで強く擦られて、紙が毛羽立っていた。

かろうじて読めたのは、最初の一文字だけ。

ひらがなの「た」に、見えた。

そして、最後の見開きだけ、丸がなかった。

代わりに、余白に小さな鉛筆の文字があった。

子どもの字だった。

「このページには いない」

鉛筆の線は、最後の一画だけ、紙を破りそうなほど強かった。

書いた子の指先の震えが、二十年越しに伝わってくるようだった。

私は反射的に、その見開きのウォーリーを探し始めた。

探さずには、いられなかったのだ。

十分探して、見つからなかった。

三十分かけても、見つからなかった。

群衆の顔を、端から一人ずつ潰していった。

赤白の縞は、何箇所もあった。

パラソル。灯台。ボーダーシャツの太った男。

どれも、ウォーリーではなかった。

本を持ってレジへ行くと、店主の顔色が変わった。

「ああ……それか」

「これ、いくらですか」

「売り物じゃないんだ。棚に戻っちゃってたか」

店主は本を受け取ると、レジの下にしまい込んだ。

そのまま珈琲を二つ淹れて、一つを私に寄越した。

「君、ウォーリーの噂って、聞いたことあるかい」

「噂?」

「都市伝説だよ。眉に唾をつけて聞くといい」

店主の語った話は、こうだった。

一九八七年、あの絵本が世に出たのと同じ頃。

海の向こうのある国で、ひとつの事件の捜査が暗礁に乗り上げていた。

二十五人の子どもが連れ去られ、殺害された事件である。

逮捕された犯人は、ジムという男だった。

ジムは精神鑑定のために収容されていた病院から、監視の目を盗んで逃亡した。

以後、目撃情報は何度もあったのに、警察が踏み込むと、必ず姿を消していた。

カフェの給仕として働いていた、という証言があった。

移動遊園地の係員だった、という証言もあった。

どの証言も、裏が取れる頃には、本人だけが消えていた。

ジムは変装の達人だった。

群衆に紛れることにかけて、天才だったのだ。

髪型を変え、髭を蓄え、眼鏡をかけ、ときに女装さえした。

指名手配の似顔絵は、半年で七回、描き直されたという。

七枚の似顔絵を並べると、全部、別人だった。

共通して残ったのは、ひょろりとした体型と、背中のリュックだけ。

業を煮やした当局は、奇妙な策を打ったという。

それが、一冊の絵本の出版と、その世界的なブームだった。

リュックを背負った、ひょろりとした体型の男。

逃亡用の荷物を、常に持ち歩いている男。

そして、赤白のストライプ。

それは当時、精神異常と判定された囚人に着せられた、収容服の柄だという。

つまりウォーリーとは、逃亡犯ジムの似姿である。

何百万人もの子どもたちが、毎日、紙の上の雑踏から「あの男」を探し出す訓練をする。

国民全員の目を、捜索網に変える。

事件を風化させないまま、たった一人を探し続けるための、壮大な仕掛け。

絵本の中のあの男が、いつも群衆に「隠れて」いるのは、そういうわけだ。

見つかった瞬間、子どもたちは歓声を上げる。

「いた!」

その声を、世界中で何百万回も上げさせるための本。

「ウォーリーという名前はね」

店主は珈琲を一口飲んで、続けた。

「二十五人のうちの、ひとりの子の名前だそうだ」

「ばかばかしいと思うかい」

「半分くらいは」

「残りの半分は?」

私は答えに詰まった。

「考えてもみたまえ」と店主は言った。

「世界中の子どもが、来る日も来る日も、同じ顔を探す。何百万の目だ」

「人ひとりを探す仕組みとして、これ以上のものを、私はちょっと思いつかないね」

「もちろん、眉唾だよ」

店主は先にそう釘を刺した。

「作者は英国の人だし、本人はとっくに否定してる。ただの楽しい絵本だ、ってね」

「一九八七年に初版が出たこと自体は、本当だ。世界中で売れに売れたこともね」

「囚人服の柄の話は、調べてもどこにも出てこない。出てこないんだが――」

店主は肩をすくめた。

「出てこない、というのは、なかった、とは違うからね」

「でしょうね」

「でも、それなら」

店主はレジの下から、さっきの本を出した。

「これは、どう説明する」

その本は、三年前に持ち込まれたのだという。

持ち込んだのは、身なりのいい老人だった。

元は新聞社にいて、国際部で翻訳をしていたと言った。

買い取りではなく、「処分してほしい」という依頼だった。

老人は店の椅子に腰掛けたまま、長いことためらっていたという。

「処分というのは、つまり、捨てるのではなくてね」

「人の手の届かないところへ、やってほしいんです」

「孫の本でしてね」

老人は、そう言ったそうだ。

「孫は、探すのが早すぎたんです」

店主は最初、自慢話だと思って聞き流しかけたそうだ。

老人の手が、膝の上で震えているのに気づくまでは。

買って帰った日の夜、孫は一時間で全ページのウォーリーを見つけた。

五歳の子どもがである。

最初は、両親が答えを教えたのだと、老人は思ったそうだ。

けれど両親は共働きで、その日はまだ二人とも帰っていなかった。

孫はひとりで、居間のカーペットの上で、それをやってのけた。

両親は神童だと喜んだ。

老人だけが、嫌な感じを拭えなかった。

ある晩、老人は孫が絵本を読むところを、初めてじっくり見た。

そして、見てしまった。

「あの子は、ページを開く前から、ウォーリーがどこにいるか知っていた」

閉じた本の表紙の上に、小さな指を置く。

それからページを開き、指の真下あたりの一点を、迷わず指す。

そこに、ウォーリーがいる。

毎回だ。

「どうしてわかるの、と訊いたそうだ」

店主は声を落とした。

「孫はこう答えた。『だって、おじさんが、ここだよって言うもん』」

絵本の中から、声がするのだという。

早く見つけてくれ、と。

見つけてもらえないと、ページの中は窮屈なのだそうだ。

見つけて、丸をつけてくれ、と。

丸をつけると、おじさんは「つぎ」と言って、次のページへ移る。

だから孫は、言われるままに、全部のページに丸をつけた。

最後の見開きを、開くまでは。

「最後のページでね、孫は泣き出したそうだ」

「どうしたと訊いたら、こう言った」

「『いない。おじさん、もう、ここにいない』」

「『でていったって』」

その晩から、家の中で小さな異変が続いたという。

玄関の靴が、朝になると向きを変えている。

誰もいない廊下で、リュックの金具が鳴るような音がする。

異変は、本が家を出た日を境に、ぴたりと止んだ。

老人は翌朝、孫の部屋のゴミ箱から、折られた赤鉛筆を見つけた。

孫が自分で折って、捨てたのだ。

それきり孫は、絵本というものを一切開かなくなった。

代わりに、別のことを始めた。

人混みに出ると、立ち止まって、誰かを目で追うようになったのだ。

「だれをみてるの」と訊くと、孫は決まってこう答えた。

「いまの人、まえに、ほんのなかにいた人」

老人はそこまで話して、深々と頭を下げたという。

「孫の目が普通の子の目に戻るまで、ずいぶんかかりました」

「本が家にあるあいだは、だめだったんです」

「その方の連絡先は」と私は訊いた。

「聞いていない。名乗りもしなかったよ」

「本を置いて、それきりだ」

「処分を頼まれたのに、できなくてね」

店主は本をしまいながら言った。

「燃やそうとしたんだが、どうもね。気が進まなかった」

「気が進まないって……」

「燃やしたら、出ていった『おじさん』の帰る場所が、なくなるだろう」

店主は笑った。

冗談の口調で、目だけが笑っていなかった。

私はそれ以上、何も訊けなかった。

珈琲は、いつの間にか冷めきっていた。

その夜から、私はしばらく、雑踏が苦手になった。

駅前の交差点で信号を待ちながら、縞のシャツを、つい目で数えてしまうのだ。

帰り際、店主は思い出したように付け足した。

「ああ、それとね。さっき君、最後のページを随分探してたろう」

「はい。見つかりませんでした」

「うん」

店主は頷いた。

「あの版の最後の見開きにはね、ちゃんといるんだよ、本当は」

「公式のね、答えのページにも載ってる」

「いるはずの場所に、いないんだ。あの一冊だけ」

文栄堂は、私が就職で街を離れて数年後に、店を畳んだ。

卒業の年、最後に店へ寄ったとき、一度だけ訊いた。

「あの本、まだあるんですか」

「あるよ」

店主は棚の整理の手を止めずに答えた。

「ただね、最近、丸が増えてる気がするんだ」

「……数えたんですか」

「数える勇気が、なくてね」

それが、店主と交わした最後の会話になった。

店を畳んだ理由を、商店街の喫茶店のママは「腰を悪くしたって」と言った。

八百屋の主人は「身内に不幸があったらしい」と言った。

話が、人によって違った。

あの本がどこへ行ったのかだけ、誰も知らなかった。

店主がどこへ行ったのか、あの本がどうなったのかは、知らない。

都市伝説としてのウォーリーの噂は、調べればすぐに出てくる。

作者本人が一笑に付していることも、すぐにわかる。

二十五人の事件も、ジムという犯人も、公式の記録のどこにもない。

ないことに、なっている。

ただ、古い絵本の版を集めるコレクターの世界には、今も妙な噂があるそうだ。

「全ページに赤丸のついた八七年版」が、何年かに一度、別々の古書市に現れるという。

そして現れるたびに、丸の数が違っているという。

私は今、小さな娘の父親である。

先日、娘が図書館からあの絵本を借りてきた。

新しい版だ。

表紙の青年は、相変わらず人混みの中で、こちらを見ていない。

娘は鼻歌まじりにページをめくり、なかなか見つけられずに頬を膨らませていた。

その横顔を見て、私は心の底から安堵した。

あの「た」で始まる名前の子は、今ごろ三十代のはずだ。

人混みで、もう誰も目で追っていないことを祈っている。

探すのに、時間がかかること。

間違えること。

それが、どれほど健全で、ありがたいことか。

絵本を閉じた娘が、ふと表紙を撫でて言った。

「このひと、いつもにげてるね」

どきりとした。

「みつかったら、こまるのかな」

五歳の子どもの、何気ない一言だった。

けれど私はあの店の冷めた珈琲の味を、急に思い出していた。

私は答えられなかった。

図書館に本を返す日、娘は少しぐずった。

「もっとさがしたかった」と。

見つからないままで、いいんだよ。

娘の頭を撫でながら、半分は自分に言い聞かせていた。

なにしろ、あくまで都市伝説ではあるけれど。

ジムは今も、見つかっていない。

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