ウォーリーを探せの怖い都市伝説

ウォーリーを探せの怖い都市伝説

その絵本には、全部のページに赤鉛筆で丸がついていた。

一ページも欠かさず、ウォーリーのいる場所に、正確に。

最後の見開きを除いて。

※

大学生の頃、私は地方都市の古い商店街に下宿していた。

アーケードの端に、「文栄堂」という古本屋があった。

間口は狭いのに、奥に入るほど棚が高くなる、洞窟のような店だった。

古い紙の匂いと、店主が淹れる安い珈琲の匂いが、いつも混ざっていた。

棚と棚のあいだは、人がすれ違えないほど狭かった。

天井近くの本は、店主が長い火ばさみのような道具で器用に抜き取った。

アーケードの屋根を雨が叩く音が、店のいちばん奥まで届いた。

あの店の中だけ、時間が外より少しゆっくり流れていた気がする。

店主は六十がらみの痩せた人で、文庫の値付けが異様に正確なことで知られていた。

無口だが、本の話になると止まらない人だった。

客のいない午後は、レジの椅子で文庫を読みながら、ラジオの野球中継を小さく流していた。

雨宿りに飛び込んだのがきっかけで、私は週に二度はその店に通うようになった。

最初の会話は、よく覚えている。

レジ横の山から漱石の古い全集を一冊買ったら、「君、装丁で選んだろう」と図星を指された。

それからは、行くたびに珈琲が出るようになった。

砂糖もミルクもなしの、ただ苦いだけの珈琲だった。

下宿の窓からはアーケードの屋根が見えて、夕方になると、文栄堂の看板の電球が一拍遅れて点いた。

いちばん奥の児童書の棚は、ほとんど客が来ない場所だった。

児童書の棚だけ、棚板が低く作られていた。

「子どもの目の高さだ」と店主は言っていた。

その棚に子どもの客が来るのを、私は一度も見たことがなかったけれど。

その日、私はなんとなくその棚の前にいた。

背表紙の禿げた図鑑のあいだに、大判の絵本が一冊、挟まっていた。

『ウォーリーをさがせ』。

言わずと知れた、あの絵本である。

何百という群衆の中から、赤白ストライプのシャツを着た、ひょろりとした青年を探し出す。

世界中で売れた、遊びの絵本だ。

奥付は一九八七年。

定価のシールの上に、文栄堂の値札が貼られていた。

三百円だった。

日本で言えば昭和の末、最初のブームの頃の版だった。

懐かしさで、私は何気なくページを開いた。

そして、手が止まった。

※

丸がついていた。

雑踏のまん中の、ウォーリーの顔の上に、赤鉛筆でくるりと。

次のページにも。

その次にも。

浜辺の場面も、駅の場面も、遊園地の場面も。

全ページ、例外なく、ウォーリーは赤い丸の中にいた。

古本にはよくあることだ、と最初は思った。

前の持ち主の子どもが、見つけた印をつけながら遊んだのだろう、と。

ただ、めくるうちに、薄ら寒いものが背中を這い上がってきた。

丸が、綺麗すぎるのだ。

探した形跡が、ないのだ。

普通、子どもはまず指でなぞる。

紛らわしい人物に間違えて印をつけ、消した跡が残る。

この本には、それが一箇所もなかった。

迷いのない、一発の丸だけが、ページの中の一点に置かれていた。

まるで、答えを先に知っていたかのように。

赤鉛筆の丸を、私は一ページずつ、指でなぞって確かめた。

筆圧が、どのページもまったく同じだった。

最初のページの丸と、最後から二番目のページの丸が、同じ濃さなのだ。

百ページ近く遊んで、鉛筆は減らなかったのだろうか。

それに、本そのものもおかしかった。

よく日に焼けているのに、読み込まれた本特有のたわみがない。

遊ばれた本ではない。開かれた本だ。

その区別が、古本屋の棚の前では、妙にはっきりとわかった。

見返しには、名前を消した跡があった。

消しゴムで強く擦られて、紙が毛羽立っていた。

かろうじて読めたのは、最初の一文字だけ。

ひらがなの「た」に、見えた。

そして、最後の見開きだけ、丸がなかった。

代わりに、余白に小さな鉛筆の文字があった。

子どもの字だった。

「このページには いない」

鉛筆の線は、最後の一画だけ、紙を破りそうなほど強かった。

書いた子の指先の震えが、二十年越しに伝わってくるようだった。

私は反射的に、その見開きのウォーリーを探し始めた。

探さずには、いられなかったのだ。

十分探して、見つからなかった。

三十分かけても、見つからなかった。

群衆の顔を、端から一人ずつ潰していった。

赤白の縞は、何箇所もあった。

パラソル。灯台。ボーダーシャツの太った男。

どれも、ウォーリーではなかった。

※

本を持ってレジへ行くと、店主の顔色が変わった。

「ああ……それか」

「これ、いくらですか」

「売り物じゃないんだ。棚に戻っちゃってたか」

店主は本を受け取ると、レジの下にしまい込んだ。

そのまま珈琲を二つ淹れて、一つを私に寄越した。

「君、ウォーリーの噂って、聞いたことあるかい」

「噂?」

「都市伝説だよ。眉に唾をつけて聞くといい」

店主の語った話は、こうだった。

※

一九八七年、あの絵本が世に出たのと同じ頃。

海の向こうのある国で、ひとつの事件の捜査が暗礁に乗り上げていた。

二十五人の子どもが連れ去られ、殺害された事件である。

逮捕された犯人は、ジムという男だった。

ジムは精神鑑定のために収容されていた病院から、監視の目を盗んで逃亡した。

以後、目撃情報は何度もあったのに、警察が踏み込むと、必ず姿を消していた。

カフェの給仕として働いていた、という証言があった。

移動遊園地の係員だった、という証言もあった。

どの証言も、裏が取れる頃には、本人だけが消えていた。

ジムは変装の達人だった。

群衆に紛れることにかけて、天才だったのだ。

髪型を変え、髭を蓄え、眼鏡をかけ、ときに女装さえした。

指名手配の似顔絵は、半年で七回、描き直されたという。

七枚の似顔絵を並べると、全部、別人だった。

共通して残ったのは、ひょろりとした体型と、背中のリュックだけ。

業を煮やした当局は、奇妙な策を打ったという。

それが、一冊の絵本の出版と、その世界的なブームだった。

リュックを背負った、ひょろりとした体型の男。

逃亡用の荷物を、常に持ち歩いている男。

そして、赤白のストライプ。

それは当時、精神異常と判定された囚人に着せられた、収容服の柄だという。

つまりウォーリーとは、逃亡犯ジムの似姿である。

何百万人もの子どもたちが、毎日、紙の上の雑踏から「あの男」を探し出す訓練をする。

国民全員の目を、捜索網に変える。

事件を風化させないまま、たった一人を探し続けるための、壮大な仕掛け。

絵本の中のあの男が、いつも群衆に「隠れて」いるのは、そういうわけだ。

見つかった瞬間、子どもたちは歓声を上げる。

「いた!」

その声を、世界中で何百万回も上げさせるための本。

「ウォーリーという名前はね」

店主は珈琲を一口飲んで、続けた。

「二十五人のうちの、ひとりの子の名前だそうだ」

「ばかばかしいと思うかい」

「半分くらいは」

「残りの半分は?」

私は答えに詰まった。

「考えてもみたまえ」と店主は言った。

「世界中の子どもが、来る日も来る日も、同じ顔を探す。何百万の目だ」

「人ひとりを探す仕組みとして、これ以上のものを、私はちょっと思いつかないね」

※

「もちろん、眉唾だよ」

店主は先にそう釘を刺した。

「作者は英国の人だし、本人はとっくに否定してる。ただの楽しい絵本だ、ってね」

「一九八七年に初版が出たこと自体は、本当だ。世界中で売れに売れたこともね」

「囚人服の柄の話は、調べてもどこにも出てこない。出てこないんだが――」

店主は肩をすくめた。

「出てこない、というのは、なかった、とは違うからね」

「でしょうね」

「でも、それなら」

店主はレジの下から、さっきの本を出した。

「これは、どう説明する」

その本は、三年前に持ち込まれたのだという。

持ち込んだのは、身なりのいい老人だった。

元は新聞社にいて、国際部で翻訳をしていたと言った。

買い取りではなく、「処分してほしい」という依頼だった。

老人は店の椅子に腰掛けたまま、長いことためらっていたという。

「処分というのは、つまり、捨てるのではなくてね」

「人の手の届かないところへ、やってほしいんです」

「孫の本でしてね」

老人は、そう言ったそうだ。

「孫は、探すのが早すぎたんです」

店主は最初、自慢話だと思って聞き流しかけたそうだ。

老人の手が、膝の上で震えているのに気づくまでは。

買って帰った日の夜、孫は一時間で全ページのウォーリーを見つけた。

五歳の子どもがである。

最初は、両親が答えを教えたのだと、老人は思ったそうだ。

けれど両親は共働きで、その日はまだ二人とも帰っていなかった。

孫はひとりで、居間のカーペットの上で、それをやってのけた。

両親は神童だと喜んだ。

老人だけが、嫌な感じを拭えなかった。

ある晩、老人は孫が絵本を読むところを、初めてじっくり見た。

そして、見てしまった。

「あの子は、ページを開く前から、ウォーリーがどこにいるか知っていた」

閉じた本の表紙の上に、小さな指を置く。

それからページを開き、指の真下あたりの一点を、迷わず指す。

そこに、ウォーリーがいる。

毎回だ。

「どうしてわかるの、と訊いたそうだ」

店主は声を落とした。

「孫はこう答えた。『だって、おじさんが、ここだよって言うもん』」

絵本の中から、声がするのだという。

早く見つけてくれ、と。

見つけてもらえないと、ページの中は窮屈なのだそうだ。

見つけて、丸をつけてくれ、と。

丸をつけると、おじさんは「つぎ」と言って、次のページへ移る。

だから孫は、言われるままに、全部のページに丸をつけた。

最後の見開きを、開くまでは。

「最後のページでね、孫は泣き出したそうだ」

「どうしたと訊いたら、こう言った」

「『いない。おじさん、もう、ここにいない』」

「『でていったって』」

その晩から、家の中で小さな異変が続いたという。

玄関の靴が、朝になると向きを変えている。

誰もいない廊下で、リュックの金具が鳴るような音がする。

異変は、本が家を出た日を境に、ぴたりと止んだ。

老人は翌朝、孫の部屋のゴミ箱から、折られた赤鉛筆を見つけた。

孫が自分で折って、捨てたのだ。

それきり孫は、絵本というものを一切開かなくなった。

代わりに、別のことを始めた。

人混みに出ると、立ち止まって、誰かを目で追うようになったのだ。

「だれをみてるの」と訊くと、孫は決まってこう答えた。

「いまの人、まえに、ほんのなかにいた人」

老人はそこまで話して、深々と頭を下げたという。

「孫の目が普通の子の目に戻るまで、ずいぶんかかりました」

「本が家にあるあいだは、だめだったんです」

「その方の連絡先は」と私は訊いた。

「聞いていない。名乗りもしなかったよ」

「本を置いて、それきりだ」

※

「処分を頼まれたのに、できなくてね」

店主は本をしまいながら言った。

「燃やそうとしたんだが、どうもね。気が進まなかった」

「気が進まないって……」

「燃やしたら、出ていった『おじさん』の帰る場所が、なくなるだろう」

店主は笑った。

冗談の口調で、目だけが笑っていなかった。

私はそれ以上、何も訊けなかった。

珈琲は、いつの間にか冷めきっていた。

その夜から、私はしばらく、雑踏が苦手になった。

駅前の交差点で信号を待ちながら、縞のシャツを、つい目で数えてしまうのだ。

帰り際、店主は思い出したように付け足した。

「ああ、それとね。さっき君、最後のページを随分探してたろう」

「はい。見つかりませんでした」

「うん」

店主は頷いた。

「あの版の最後の見開きにはね、ちゃんといるんだよ、本当は」

「公式のね、答えのページにも載ってる」

「いるはずの場所に、いないんだ。あの一冊だけ」

※

文栄堂は、私が就職で街を離れて数年後に、店を畳んだ。

卒業の年、最後に店へ寄ったとき、一度だけ訊いた。

「あの本、まだあるんですか」

「あるよ」

店主は棚の整理の手を止めずに答えた。

「ただね、最近、丸が増えてる気がするんだ」

「……数えたんですか」

「数える勇気が、なくてね」

それが、店主と交わした最後の会話になった。

店を畳んだ理由を、商店街の喫茶店のママは「腰を悪くしたって」と言った。

八百屋の主人は「身内に不幸があったらしい」と言った。

話が、人によって違った。

あの本がどこへ行ったのかだけ、誰も知らなかった。

店主がどこへ行ったのか、あの本がどうなったのかは、知らない。

都市伝説としてのウォーリーの噂は、調べればすぐに出てくる。

作者本人が一笑に付していることも、すぐにわかる。

二十五人の事件も、ジムという犯人も、公式の記録のどこにもない。

ないことに、なっている。

ただ、古い絵本の版を集めるコレクターの世界には、今も妙な噂があるそうだ。

「全ページに赤丸のついた八七年版」が、何年かに一度、別々の古書市に現れるという。

そして現れるたびに、丸の数が違っているという。

私は今、小さな娘の父親である。

先日、娘が図書館からあの絵本を借りてきた。

新しい版だ。

表紙の青年は、相変わらず人混みの中で、こちらを見ていない。

娘は鼻歌まじりにページをめくり、なかなか見つけられずに頬を膨らませていた。

その横顔を見て、私は心の底から安堵した。

あの「た」で始まる名前の子は、今ごろ三十代のはずだ。

人混みで、もう誰も目で追っていないことを祈っている。

探すのに、時間がかかること。

間違えること。

それが、どれほど健全で、ありがたいことか。

絵本を閉じた娘が、ふと表紙を撫でて言った。

「このひと、いつもにげてるね」

どきりとした。

「みつかったら、こまるのかな」

五歳の子どもの、何気ない一言だった。

けれど私はあの店の冷めた珈琲の味を、急に思い出していた。

私は答えられなかった。

図書館に本を返す日、娘は少しぐずった。

「もっとさがしたかった」と。

見つからないままで、いいんだよ。

娘の頭を撫でながら、半分は自分に言い聞かせていた。

なにしろ、あくまで都市伝説ではあるけれど。

ジムは今も、見つかっていない。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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