変なタクシー

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昨日、ひどく恐ろしい体験をしました。

便宜上昨日と言いましたが、実際は日付が変わった午前一時過ぎのことです。

あれから半日が経った今も、あの変なタクシーのことが頭から離れません。

忘れてしまう前に、順を追って書き留めておこうと思います。

同じ体験をした人がいたら、ぜひ教えてほしいとも思います。

終電のあとの乗り場

その夜、私は残業で終電まで会社に残っていました。

三月の決算前で、同じ表を三度も作り直した日でした。

隣の席の後輩は、二十二時に先に帰りました。

フロアの照明が半分落とされ、私の頭上だけが白く残っていました。

コピー機の稼働音が止んだとき、ようやく時計を見たのです。

駅に着いたのは、午前零時四十分を過ぎた頃です。

家の近くまで走るバスは、とうに終わっていました。

仕方なく、駅前のタクシー乗り場に向かいました。

街灯の下に、順番を待つ人影はひとつもありません。

数分待つと、白い車がすっと滑り込んできました。

自動の扉が開いて、車内の空気が足元に流れ出しました。

冷たい、手洗い場の水のような匂いがしました。

線香のようでもあり、濡れた土のようでもある、曖昧な冷たさでした。

けれど、そのときは疲れで、鼻が鈍っているのだと思いました。

私は気にせずに乗り込み、家の近くのコンビニを告げました。

「かしこまりました」

運転手は、五十代くらいの落ち着いた声の男性でした。

白い手袋に、整えられた制帽。

どこにでもいる、ごく普通の運転手に見えました。

名札には、苗字だけが読みにくい字で書かれていました。

ダッシュボードの上に、色褪せた交通安全のお守りが吊られていました。

お守りの紐は、ほどけかけて、ゆらゆらと揺れていました。

残業の疲れと苛立ちで、私はひどく不機嫌でした。

だから話しかけられる前に、窓の外へ視線を投げました。

ここまでは、何ということのない、ありふれた話です。

運転手の真後ろ

ただ、ひとつだけ、いつもと違うことがありました。

普段からタクシーによく乗る私は、一人のときは必ず助手席の後ろに座ります。

運転手と目が合わない位置だからです。

それなのに、その夜に限って、私は運転手の真後ろまで移動していました。

自分でも理由が分かりません。

あのときの私は、その行動を少しも不思議に思いませんでした。

座席の位置を変えた瞬間、左側から、ふっと風が流れた気がします。

避けた、という感覚が、いちばん近いのかもしれません。

ただ、そこに座るのが当たり前のような気がしたのです。

扉が閉まり、車はゆっくり走り出しました。

暖房が効きすぎているのか、足元だけがやけに冷えていました。

窓ガラスには、誰もいない左側の座席が、薄く映っていました。

その像が、ほんの一瞬、座っている形に見えた気がしました。

瞬きをすると、ただの平らな座面に戻っていました。

数分ほど、無言のまま走りました。

信号待ちの間、運転手が何度かバックミラーを見たのを覚えています。

三度目の信号で、運転手はミラーの角度を、わずかに左へずらしました。

まるで、誰かの顔が見えるように。

最初は私の様子をうかがっているのだと思いました。

けれど、目線の位置は、私の顔より少しだけ左でした。

ちょうど、私の隣の座席のあたりです。

気のせいだと、自分に言い聞かせました。

やがて車は、コンビニへ向かう大通りから、急に脇道へ曲がりました。

私は慌てて声をかけました。

「ちょっと、どうしてそこで曲がるんですか。そっちじゃないでしょう」

すると運転手は、不思議そうに聞き返してきました。

「え? だって、お連れさんの家のほうが近いですし、先にそっちへ行かれるんでしょう?」

一瞬、運転手が何を言っているのか、理解できませんでした。

「お連れさんって、何のことですか」

変なタクシーの運転手

タクシーは、路肩にゆっくり停まりました。

運転手が、身体をねじって後ろを振り向きます。

「お客さん……」

そう言った運転手の顔が、強張りました。

薄暗い車内でも、動揺がはっきりと分かりました。

「あ、あれ。もう一人、女性の方と、ご一緒でしたよね?」

もちろん、車内には私と運転手の二人しかいません。

後部座席には、私以外、誰も座っていないのです。

それなのに、運転手の目は、確かに二人分の乗客を見ていました。

目線の高さが、私の肩ではなく、少し低い位置の、もう一つの肩に合っていたのです。

「何を言っているんですか。私は最初から一人でしたよ」

残業の苛立ちが残っていた私は、きつい口調で言い返しました。

「ふざけないでください」

けれど運転手は、冗談を言っている顔ではありませんでした。

額に汗が浮かんでいます。

ハンドルを握る白い手袋が、小さく震えていました。

ただの変なタクシーではないと、ようやく気づいたのはそのときです。

「だって……」

運転手は、私の左側の座席を、見つめたままでした。

「髪の短い女の人が、お客さんと並んで乗ってこられて」

「お客さんは先に〇〇まで、女の人は橋の手前までと、確かに言われました」

私は思わず、自分の左側の座席を見ました。

暗い座面に、何も見えません。

けれど、革のシートの一部だけが、じっとりと濡れたように光っていました。

指先で触れる勇気はありませんでした。

ただ、そこから冷たい空気が立ち上っているのが、頬で分かりました。

その夜は、雨など降っていなかったのに。

運転手が、突然言いました。

「お客さん、料金は要りませんから、ここで降りてください」

靴音が止まる夜

あまりに突然のことで、私は呆気に取られました。

次の瞬間、強い怒りがこみ上げてきました。

「何を言い出すんですか。訳の分からないことを言って、途中で降りろだなんて」

「いいから。お願いですから、降りてください。お金は要りません」

運転手の声は、ほとんど懇願でした。

車内灯が、ふっと一度だけ暗くなりました。

消えたのではなく、誰かが前を横切ったように、翳ったのです。

その切実な目を見て、私は言い返すのをやめました。

こんな運転手の車に、これ以上乗っていたくないと思ったのです。

私は扉をこじ開けるようにして、車を降りました。

タクシーは、私が降り切るのを待たずに、エンジンを唸らせて走り去りました。

赤いテールランプが、坂の下で小さくなっていきます。

遠ざかるエンジン音が、途中でふっと途切れました。

まるで、夜の中へ溶けてしまったかのように。

坂の下には、曲がる道などなかったはずなのに。

そこから家まで、歩いて帰るしかありませんでした。

あの変なタクシーに乗らなければ、こんな夜道を歩くこともなかったのに。

深夜の住宅街は、驚くほど静かでした。

どの家の窓にも、明かりはありませんでした。

犬の鳴き声も、遠くの国道の音も、聞こえません。

音がすべて、誰かに回収されてしまったようでした。

自分の靴音だけが、アスファルトに響いていました。

コンビニの明かりが、遠くで青白く瞬いていました。

あの明かりまで行けば安全だと思い、足を速めました。

けれど、コンビニの前を通り過ぎたとき、自動ドアが私にだけ反応して開きました。

誰も入ろうとしていないのに、閉まるまで、長い時間がかかったのです。

歩きながら、ふと気づきました。

あの運転手は、橋の手前まで、と言っていた。

手前、という言い方が、どこか引っかかりました。

運転手が口にした橋の名前に、聞き覚えがあったのです。

家の近くの、街灯が一本切れた、古い石橋でした。

橋の欄干は低く、昼間でも、水の音が妙にこもって聞こえる場所です。

私は通勤のたび、無意識に反対側の歩道を選んでいました。

去年まで、あの橋のたもとには、毎晩のように白い花が置かれていました。

誰が置いているのかは、近所の誰も知りません。

今年の春先に、花はぴたりと見られなくなりました。

そこまで考えたとき、私は足を止めました。

背後で、もうひとつの靴音が、一拍遅れて止まったのです。

振り向いても、誰もいません。

街灯の光が、道路に私の影だけを落としています。

けれど、確かに聞こえました。

かつ、かつ、と、私より少し軽い、女物の靴の音が。

私は、走りました。

息が切れても、足を止めませんでした。

マンションの階段を駆け上がり、廊下の突き当たりの部屋の前で、震える手で鍵を取り出しました。

ポケットの鍵が、氷のように冷えていました。

握りしめた掌に、赤い跡がつくほどでした。

鍵穴に差し込む、その短い間。

靴音が、廊下の手前で、ぴたりと止まりました。

鍵を回し終えるまで、足音は、ちゃんと待っていました。

後日、似た話を探して呻き声や空き家の体験談を読みましたが、答えは見つかりませんでした。

今日も残業で遅くなると分かっていたので、仮病を使って会社を休みました。

もうタクシーには、乗りたくないからです。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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