今でも、あの分校の前の道だけは通らない。
遠回りになっても、県道へ出る。
もう二十年になる。
※
高校二年の夏の話だ。
俺たちは四人でつるんでいた。
郡司、真木、笹倉、それと俺。
郡司は、そういうものを一切信じない男だった。
信じないというより、馬鹿にしていた。
「見えるやつは、目が悪いんだよ」
そう言って、いつも笑っていた。
真木は逆で、心霊番組を全部録画しているような男だった。
笹倉は、どちらでもよかったらしい。
俺も、どちらでもよかった。
その夏、真木が持ってきた話が、旧道の奥にある分校だった。
昭和五十年代に閉校になった、小さな分校。
木造の平屋で、教室が二つと、宿直室がひとつ。
最後の年の児童は、四人だったという。
「四人だぞ。俺らと同じ」
真木は、そこを妙に気にしていた。
郡司が鼻で笑った。
「じゃあ俺が泊まる。ひとりで」
言い出したら聞かない男だった。
※
真木は、その分校のことを、町の図書館で調べていた。
郷土資料の棚に、閉校の記念誌があったらしい。
薄い、ホチキス留めの冊子だ。
真木は、そのコピーを持ってきた。
分校ができたのは、大正の終わり。
林業で人が集まっていた頃で、いちばん多い年は、児童が三十人以上いた。
それが、山の仕事が減るにつれて、減っていく。
昭和四十年代には、十人を切った。
最後の年が、四人。
記念誌には、その四人の作文が載っていた。
「これ見ろよ」
真木が、コピーの一枚を指した。
四人とも、同じ題で書いていた。
「わたしのすきなばしょ」
三人が、教室のこと、校庭のこと、帰り道のことを書いていた。
残りのひとりだけが、違うことを書いていた。
題は同じなのに、中身が、こうだった。
「ぼくのすきなばしょは、まだきまっていません。みんながさきにきめてしまったので、ぼくはさいごです」
「なんだよ、これ」
笹倉が言った。
「順番、決めてんのかな」
真木は、そう言って笑った。
俺も笑った。
郡司は、そのコピーを、じっと見ていた。
そして、こう聞いた。
「この作文、名前は」
コピーには、名前の部分だけが、印刷が薄くて読めなかった。
「かすれてる」
「四人ぶん、全部か」
「……全部だな」
郡司は、コピーを真木に返した。
「行くわ、俺」
決めたのは、たぶん、その瞬間だった。
※
下見に行ったのは、その週の土曜だ。
旧道は舗装が割れて、真ん中から草が生えていた。
車は入れない。
自転車を押して、二十分ほど登った。
分校は、思っていたより、きれいだった。
窓は割れていたが、床は抜けていない。
床板の隙間から、細い草が伸びていた。
中は、埃と、湿った木の匂いがした。
教室には、机が四つ、きちんと前を向いて並んでいた。
四つだけ。
真木が「な、四人だろ」と言った。
郡司は何も言わずに、机の天板を指で拭った。
埃が、線になって残った。
「掃除されてるわけじゃないな」
「当たり前だろ」
宿直室は、教室の奥にあった。
三畳ほどの板の間で、押し入れがひとつ。
畳は上げられていて、床がむき出しだった。
郡司は、そこに寝袋を置くと言った。
「汚ねえな。寝袋、いるわ」
それが、下見の日の、いちばんまともな判断だった。
※
宿直室には、押し入れがあった。
郡司が、面白がって開けた。
中は、空だった。
空だったが、床板の上に、白い跡があった。
何かが、長いこと置いてあった跡だ。
四角い。
教科書か、箱くらいの大きさだった。
「なんか置いてあったな」
「盗まれたんだろ」
笹倉が言った。
俺は、その跡を、指でなぞった。
埃が積もっていない。
その四角だけが、きれいだった。
外の便所も見た。
扉が、針金でぐるぐる巻きにしてあった。
新しい針金ではない。
錆びて、赤茶けている。
「誰が縛ったんだよ」
「閉校のときだろ」
真木が言った。
俺は、その針金を軽く引いてみた。
びくともしなかった。
※
帰り道、郡司が、後ろから俺に聞いた。
自転車を押しながらだ。
「なあ。お前、あの押し入れの跡、見たか」
「見た」
「あれ、どっち向きだったと思う」
「どっちって」
「置いた跡じゃなくて、動かした跡だ。ちょっとだけ、ずれてる」
俺は、思い出そうとした。
思い出せなかった。
郡司は、それきり、何も言わなかった。
※
帰りぎわ、俺は教室の黒板を見た。
なんとなく、目に入っただけだ。
黒板には、字が残っていた。
消しきれなかったのか、白く薄く、跡になっている。
上のほうに、日付らしきものがあった。
その下に、縦に、名前が四つ並んでいた。
薄くて、読めなかった。
「日直の表かな」
真木が言った。
「四人しかいねえんだから、毎日日直だろ」
笹倉が言って、俺たちは笑った。
郡司だけが、黒板の前から動かなかった。
「なんか、書いてある」
「だから日直だろ」
「いや、順番が変だ」
郡司は、そう言った。
それだけ言って、外に出た。
俺は、その言葉を、その日のうちに忘れた。
※
決行の日の夕方、俺は郡司の家に寄った。
自転車で、二人で行くつもりだったからだ。
郡司の部屋に、あの記念誌のコピーが、壁に貼ってあった。
四人ぶんの作文が、横に並べて貼られていた。
「お前、真木から取ったのか」
「借りた」
郡司は、机の前に座ったまま、そう言った。
「なあ。この作文、書いた順番、分かるか」
「分かるわけないだろ」
「分かるよ」
郡司は、コピーの一枚を指した。
「これだけ、字が濃い」
言われてみれば、そうだった。
四枚のうち、一枚だけ、印刷が濃い。
名前のところも、その一枚だけ、うっすら形が残っていた。
「読めるのか」
「読める。二文字だ」
郡司は、そこで口をつぐんだ。
俺は、聞かなかった。
今から思えば、あのとき聞いておくべきだった。
郡司が読んだ二文字が、誰の名前だったのか。
それだけが、いまも分からない。
※
決行は、次の金曜の夜だった。
分校の前で、俺たちは郡司と別れた。
弁当を食い、缶の飲み物を配って、それで終わりだ。
午後八時を回っていた。
「明日の朝、七時に迎えに来い」
郡司は、寝袋を抱えて、そう言った。
懐中電灯を持った手を、一度だけ振った。
「ビビって帰ってきても、笑わねえよ」
真木がそう言うと、郡司は真顔で答えた。
「お前、それ、逆に言えよ」
「なにが」
「俺が帰ってこなかったら、笑えって」
真木は、返事をしなかった。
郡司は、分校の中に入っていった。
懐中電灯の光が、廊下の奥へ消えた。
それが、あいつを見た最後になった。
※
翌朝、七時。
俺たちは、自転車を押して坂を登った。
朝は、夜より、ずっと静かだった。
虫の声もしなかった。
宿直室に、寝袋があった。
畳んですらいない。
中身は、なかった。
「郡司」
真木が呼んだ。
返事はない。
「トイレじゃねえの」
笹倉が言ったが、分校のトイレは外の便所で、扉が針金で縛ってあった。
下見のときのまま、開いていなかった。
俺たちは、教室を見た。
机は、四つ。
前を向いて並んでいた。
※
真木が、携帯を出した。
当時はまだ、折りたたみのやつだ。
「電話してみる」
真木は、宿直室の真ん中に立って、かけた。
繋がった。
呼び出し音が二回鳴って、切り替わる音がした。
真木の顔が、変わった。
「もしもし。郡司。おい」
返事はなかった。
真木は、俺と笹倉に、携帯を差し出した。
耳に当てて、俺は息を呑んだ。
風の音がしていた。
ものすごい風だった。
分校の外は、無風だった。
草の一本も、動いていなかった。
「郡司。どこにいる」
俺は、そう言った。
言った瞬間、風の音が、少しだけ小さくなった。
まるで、こちらの声を聞いているみたいに。
それから、また、大きくなった。
俺は、耳から携帯を離した。
笹倉には、渡さなかった。
※
警察が来たのは、昼過ぎだった。
山狩りに近いことをしてくれた。
沢も見てくれた。
何も出なかった。
俺たちは、事情を聞かれた。
真木が、電話が繋がったことを話した。
若い警官が、メモを取りながら聞き返した。
「携帯電話に、出たと」
「はい。繋がって、風の音が」
「それは、いつの話ですか」
「今朝の、七時十分くらいです」
警官が、少し黙った。
それから、俺たちに、透明な袋を見せた。
中に、郡司の携帯が入っていた。
折りたたみの、傷だらけのやつだ。
「これ、寝袋の中から出てるんですよ」
俺は、意味が分からなかった。
「寝袋の、中」
「ええ。底のほうに、入ってました」
真木が、口を開けたまま、固まっていた。
俺たちは、その寝袋のすぐ横に立って、電話をかけていた。
一メートルも離れていない。
着信音は、鳴らなかった。
呼び出し音は、俺たちの耳の中でだけ、鳴っていた。
そして、繋がっていた。
※
俺たちが車に乗せられて、詰め所で待たされている間のことだ。
真木が、俺に耳打ちした。
「なあ。呼び出し音、二回だったよな」
「……そうだったかも」
「電源、切れてたら、繋がらねえだろ」
「うん」
「電波、来てなかったら、そもそも」
真木は、そこで言葉を止めた。
自分の携帯を、机の上に出した。
画面を見て、俺のほうへ向けた。
アンテナは、一本も立っていなかった。
詰め所は、山の下の町にある。
町なのに、その日、真木の携帯だけが、圏外だった。
笹倉のも、俺のも、三本立っていた。
真木は、電源を切って、ポケットに入れた。
「壊れてんだよ、これ」
そう言って、笑った。
うまく、笑えていなかった。
※
郡司は、見つからなかった。
一年が過ぎた。
俺たちは、その話をしなくなった。
真木だけは、時々、あの分校の話をした。
「電話、俺がかけたんだよな」
酔うと、必ずそう言った。
「かけたのは、俺だ」
「だから、なんだよ」
「いや。……なんでもない」
真木がいなくなったのは、その次の夏だ。
八月の、盆の入りの日だった。
アパートの部屋は、鍵が開いたままだった。
テレビがついていた。
録画した心霊番組が、再生されていた。
最後まで再生されて、頭に戻って、また再生される。
それを、大家さんが二日間、聞いていたという。
部屋には、財布も、靴も、全部あった。
なかったのは、あの携帯だけだ。
警察は、家出という扱いにした。
俺は、そのとき初めて、あの分校の話を、自分から警察にした。
若い警官は、もういなかった。
話を聞いた年配の人は、メモも取らなかった。
「電話が繋がった、というのはね」
その人は、俺にこう言った。
「気持ちが、そう聞かせるんですよ」
俺は、頷いた。
頷いて、詰め所を出た。
出た瞬間、ポケットの携帯が震えた。
知らない番号だった。
出たら、切れた。
その日から、俺は、その番号を待つようになった。
※
笹倉がいなくなったのは、そのまた次の夏だ。
七月の終わりだった。
笹倉は、その頃、隣の県で働いていた。
最後に会ったのは、その年の春だ。
喫茶店で、あいつは俺にこう言った。
「なあ。俺、あの朝、電話代われって言ったよな」
「言った」
「お前、代わってくれなかったよな」
「……ああ」
笹倉は、コーヒーを飲んだ。
それから、妙に静かな声で言った。
「代わってたら、俺、真木の次だったかな」
俺は、答えられなかった。
笹倉は、笑った。
「冗談だよ」
その三か月後に、いなくなった。
順番は、変わらなかった。
郡司、真木、笹倉。
かけた者、繋がった者、その場にいた者。
俺は、その場にいて、耳に当てた。
耳に当てたのは、俺と真木だけだ。
笹倉は、当てていない。
それでも、いなくなった。
だから、俺の理屈は、どこかで間違っている。
間違っているのに、順番だけが、合っている。
※
あれから二十年、俺は普通に生きてきた。
就職して、結婚もした。
子どもも、ひとりいる。
夏になると眠れなくなるのを除けば、なんの問題もない。
盆には、必ず休みを取る。
取って、家から出ない。
妻には、暑いのが苦手だと言ってある。
嘘ではない。
あの夏の朝、分校の中は、妙に涼しかった。
八月なのに、息が白くなりそうなくらいだった。
そのことを、俺は誰にも言っていない。
警察にも言わなかった。
言えば、真木や笹倉が、もっと怖がると思ったからだ。
今は、言う相手がいない。
※
子どもが、去年、小学校に上がった。
入学式の日、教室の後ろで、俺は黒板を見た。
新しい黒板だった。
何も書かれていなかった。
それなのに、俺は、そこに縦の四つを探していた。
探している自分に気づいて、廊下に出た。
廊下で、少し息を整えた。
その日から、俺は、あの分校に行こうと決めた。
確かめるためではない。
確かめないままでいるのが、限界だっただけだ。
※
去年、俺は分校に行った。
二十年ぶりだった。
校舎は、まだ建っていた。
床は抜けていたが、教室の机は、四つ、前を向いていた。
教室に入る前に、俺は宿直室を見た。
押し入れが、開いていた。
二十年前、郡司が開けて、閉めたはずの押し入れだ。
床板の上の、四角い跡は、まだあった。
埃の積もった板の上で、その四角だけが、やはり、きれいだった。
二十年ぶんの埃が積もった床に、二十年前と同じ、きれいな四角。
何かが、ずっと、そこにある。
見えないだけで、ある。
俺は、押し入れを閉めた。
閉めて、手を離した。
戸は、ひとりでに、少しだけ開いた。
黒板の前に立った。
薄い字が、まだ残っていた。
日付の下に、名前が四つ。
今度は、読めた。
埃が積もったぶん、かえって、字の跡が浮いて見えた。
郡司。
真木。
笹倉。
黒板の名前は、消えた順に並んでいた。
一番下に、俺の名前があった。
※
帰り道、俺は坂の途中で自転車を停めた。
風が吹いていた。
携帯の中で聞いた、あの風の音と、同じ音だった。
分校の窓は、閉まっていた。
それでも、風は、あの建物の中から聞こえていた。
※
警察に、もう一度行こうとは思わない。
二十年前、あの若い警官は、最後にこう言った。
「電話は、繋がりませんよ。電波、来てないんですよ、あの山」
そのとおりだ。
俺の携帯も、あの日、一本も立っていなかった。
真木の携帯だけが、繋がった。
そして、真木は、いなくなった。
※
今でも、あの分校の前の道だけは通らない。
遠回りになっても、県道へ出る。
去年、黒板を見たあの日から、一年が経とうとしている。
昨日、俺の携帯が、一度だけ鳴った。
知らない番号だった。
出なかった。
留守番電話に、何も残っていなかった。
残っていなかったのに、再生時間だけが、四秒あった。
俺は、それを、まだ消していない。
消したら、次は、俺の番のような気がしている。