肝試し

今でも、あの分校の前の道だけは通らない。

遠回りになっても、県道へ出る。

もう二十年になる。

高校二年の夏の話だ。

俺たちは四人でつるんでいた。

郡司、真木、笹倉、それと俺。

郡司は、そういうものを一切信じない男だった。

信じないというより、馬鹿にしていた。

「見えるやつは、目が悪いんだよ」

そう言って、いつも笑っていた。

真木は逆で、心霊番組を全部録画しているような男だった。

笹倉は、どちらでもよかったらしい。

俺も、どちらでもよかった。

その夏、真木が持ってきた話が、旧道の奥にある分校だった。

昭和五十年代に閉校になった、小さな分校。

木造の平屋で、教室が二つと、宿直室がひとつ。

最後の年の児童は、四人だったという。

「四人だぞ。俺らと同じ」

真木は、そこを妙に気にしていた。

郡司が鼻で笑った。

「じゃあ俺が泊まる。ひとりで」

言い出したら聞かない男だった。

真木は、その分校のことを、町の図書館で調べていた。

郷土資料の棚に、閉校の記念誌があったらしい。

薄い、ホチキス留めの冊子だ。

真木は、そのコピーを持ってきた。

分校ができたのは、大正の終わり。

林業で人が集まっていた頃で、いちばん多い年は、児童が三十人以上いた。

それが、山の仕事が減るにつれて、減っていく。

昭和四十年代には、十人を切った。

最後の年が、四人。

記念誌には、その四人の作文が載っていた。

「これ見ろよ」

真木が、コピーの一枚を指した。

四人とも、同じ題で書いていた。

「わたしのすきなばしょ」

三人が、教室のこと、校庭のこと、帰り道のことを書いていた。

残りのひとりだけが、違うことを書いていた。

題は同じなのに、中身が、こうだった。

「ぼくのすきなばしょは、まだきまっていません。みんながさきにきめてしまったので、ぼくはさいごです」

「なんだよ、これ」

笹倉が言った。

「順番、決めてんのかな」

真木は、そう言って笑った。

俺も笑った。

郡司は、そのコピーを、じっと見ていた。

そして、こう聞いた。

「この作文、名前は」

コピーには、名前の部分だけが、印刷が薄くて読めなかった。

「かすれてる」

「四人ぶん、全部か」

「……全部だな」

郡司は、コピーを真木に返した。

「行くわ、俺」

決めたのは、たぶん、その瞬間だった。

下見に行ったのは、その週の土曜だ。

旧道は舗装が割れて、真ん中から草が生えていた。

車は入れない。

自転車を押して、二十分ほど登った。

分校は、思っていたより、きれいだった。

窓は割れていたが、床は抜けていない。

床板の隙間から、細い草が伸びていた。

中は、埃と、湿った木の匂いがした。

教室には、机が四つ、きちんと前を向いて並んでいた。

四つだけ。

真木が「な、四人だろ」と言った。

郡司は何も言わずに、机の天板を指で拭った。

埃が、線になって残った。

「掃除されてるわけじゃないな」

「当たり前だろ」

宿直室は、教室の奥にあった。

三畳ほどの板の間で、押し入れがひとつ。

畳は上げられていて、床がむき出しだった。

郡司は、そこに寝袋を置くと言った。

「汚ねえな。寝袋、いるわ」

それが、下見の日の、いちばんまともな判断だった。

宿直室には、押し入れがあった。

郡司が、面白がって開けた。

中は、空だった。

空だったが、床板の上に、白い跡があった。

何かが、長いこと置いてあった跡だ。

四角い。

教科書か、箱くらいの大きさだった。

「なんか置いてあったな」

「盗まれたんだろ」

笹倉が言った。

俺は、その跡を、指でなぞった。

埃が積もっていない。

その四角だけが、きれいだった。

外の便所も見た。

扉が、針金でぐるぐる巻きにしてあった。

新しい針金ではない。

錆びて、赤茶けている。

「誰が縛ったんだよ」

「閉校のときだろ」

真木が言った。

俺は、その針金を軽く引いてみた。

びくともしなかった。

帰り道、郡司が、後ろから俺に聞いた。

自転車を押しながらだ。

「なあ。お前、あの押し入れの跡、見たか」

「見た」

「あれ、どっち向きだったと思う」

「どっちって」

「置いた跡じゃなくて、動かした跡だ。ちょっとだけ、ずれてる」

俺は、思い出そうとした。

思い出せなかった。

郡司は、それきり、何も言わなかった。

帰りぎわ、俺は教室の黒板を見た。

なんとなく、目に入っただけだ。

黒板には、字が残っていた。

消しきれなかったのか、白く薄く、跡になっている。

上のほうに、日付らしきものがあった。

その下に、縦に、名前が四つ並んでいた。

薄くて、読めなかった。

「日直の表かな」

真木が言った。

「四人しかいねえんだから、毎日日直だろ」

笹倉が言って、俺たちは笑った。

郡司だけが、黒板の前から動かなかった。

「なんか、書いてある」

「だから日直だろ」

「いや、順番が変だ」

郡司は、そう言った。

それだけ言って、外に出た。

俺は、その言葉を、その日のうちに忘れた。

決行の日の夕方、俺は郡司の家に寄った。

自転車で、二人で行くつもりだったからだ。

郡司の部屋に、あの記念誌のコピーが、壁に貼ってあった。

四人ぶんの作文が、横に並べて貼られていた。

「お前、真木から取ったのか」

「借りた」

郡司は、机の前に座ったまま、そう言った。

「なあ。この作文、書いた順番、分かるか」

「分かるわけないだろ」

「分かるよ」

郡司は、コピーの一枚を指した。

「これだけ、字が濃い」

言われてみれば、そうだった。

四枚のうち、一枚だけ、印刷が濃い。

名前のところも、その一枚だけ、うっすら形が残っていた。

「読めるのか」

「読める。二文字だ」

郡司は、そこで口をつぐんだ。

俺は、聞かなかった。

今から思えば、あのとき聞いておくべきだった。

郡司が読んだ二文字が、誰の名前だったのか。

それだけが、いまも分からない。

決行は、次の金曜の夜だった。

分校の前で、俺たちは郡司と別れた。

弁当を食い、缶の飲み物を配って、それで終わりだ。

午後八時を回っていた。

「明日の朝、七時に迎えに来い」

郡司は、寝袋を抱えて、そう言った。

懐中電灯を持った手を、一度だけ振った。

「ビビって帰ってきても、笑わねえよ」

真木がそう言うと、郡司は真顔で答えた。

「お前、それ、逆に言えよ」

「なにが」

「俺が帰ってこなかったら、笑えって」

真木は、返事をしなかった。

郡司は、分校の中に入っていった。

懐中電灯の光が、廊下の奥へ消えた。

それが、あいつを見た最後になった。

翌朝、七時。

俺たちは、自転車を押して坂を登った。

朝は、夜より、ずっと静かだった。

虫の声もしなかった。

宿直室に、寝袋があった。

畳んですらいない。

中身は、なかった。

「郡司」

真木が呼んだ。

返事はない。

「トイレじゃねえの」

笹倉が言ったが、分校のトイレは外の便所で、扉が針金で縛ってあった。

下見のときのまま、開いていなかった。

俺たちは、教室を見た。

机は、四つ。

前を向いて並んでいた。

真木が、携帯を出した。

当時はまだ、折りたたみのやつだ。

「電話してみる」

真木は、宿直室の真ん中に立って、かけた。

繋がった。

呼び出し音が二回鳴って、切り替わる音がした。

真木の顔が、変わった。

「もしもし。郡司。おい」

返事はなかった。

真木は、俺と笹倉に、携帯を差し出した。

耳に当てて、俺は息を呑んだ。

風の音がしていた。

ものすごい風だった。

分校の外は、無風だった。

草の一本も、動いていなかった。

「郡司。どこにいる」

俺は、そう言った。

言った瞬間、風の音が、少しだけ小さくなった。

まるで、こちらの声を聞いているみたいに。

それから、また、大きくなった。

俺は、耳から携帯を離した。

笹倉には、渡さなかった。

警察が来たのは、昼過ぎだった。

山狩りに近いことをしてくれた。

沢も見てくれた。

何も出なかった。

俺たちは、事情を聞かれた。

真木が、電話が繋がったことを話した。

若い警官が、メモを取りながら聞き返した。

「携帯電話に、出たと」

「はい。繋がって、風の音が」

「それは、いつの話ですか」

「今朝の、七時十分くらいです」

警官が、少し黙った。

それから、俺たちに、透明な袋を見せた。

中に、郡司の携帯が入っていた。

折りたたみの、傷だらけのやつだ。

「これ、寝袋の中から出てるんですよ」

俺は、意味が分からなかった。

「寝袋の、中」

「ええ。底のほうに、入ってました」

真木が、口を開けたまま、固まっていた。

俺たちは、その寝袋のすぐ横に立って、電話をかけていた。

一メートルも離れていない。

着信音は、鳴らなかった。

呼び出し音は、俺たちの耳の中でだけ、鳴っていた。

そして、繋がっていた。

俺たちが車に乗せられて、詰め所で待たされている間のことだ。

真木が、俺に耳打ちした。

「なあ。呼び出し音、二回だったよな」

「……そうだったかも」

「電源、切れてたら、繋がらねえだろ」

「うん」

「電波、来てなかったら、そもそも」

真木は、そこで言葉を止めた。

自分の携帯を、机の上に出した。

画面を見て、俺のほうへ向けた。

アンテナは、一本も立っていなかった。

詰め所は、山の下の町にある。

町なのに、その日、真木の携帯だけが、圏外だった。

笹倉のも、俺のも、三本立っていた。

真木は、電源を切って、ポケットに入れた。

「壊れてんだよ、これ」

そう言って、笑った。

うまく、笑えていなかった。

郡司は、見つからなかった。

一年が過ぎた。

俺たちは、その話をしなくなった。

真木だけは、時々、あの分校の話をした。

「電話、俺がかけたんだよな」

酔うと、必ずそう言った。

「かけたのは、俺だ」

「だから、なんだよ」

「いや。……なんでもない」

真木がいなくなったのは、その次の夏だ。

八月の、盆の入りの日だった。

アパートの部屋は、鍵が開いたままだった。

テレビがついていた。

録画した心霊番組が、再生されていた。

最後まで再生されて、頭に戻って、また再生される。

それを、大家さんが二日間、聞いていたという。

部屋には、財布も、靴も、全部あった。

なかったのは、あの携帯だけだ。

警察は、家出という扱いにした。

俺は、そのとき初めて、あの分校の話を、自分から警察にした。

若い警官は、もういなかった。

話を聞いた年配の人は、メモも取らなかった。

「電話が繋がった、というのはね」

その人は、俺にこう言った。

「気持ちが、そう聞かせるんですよ」

俺は、頷いた。

頷いて、詰め所を出た。

出た瞬間、ポケットの携帯が震えた。

知らない番号だった。

出たら、切れた。

その日から、俺は、その番号を待つようになった。

笹倉がいなくなったのは、そのまた次の夏だ。

七月の終わりだった。

笹倉は、その頃、隣の県で働いていた。

最後に会ったのは、その年の春だ。

喫茶店で、あいつは俺にこう言った。

「なあ。俺、あの朝、電話代われって言ったよな」

「言った」

「お前、代わってくれなかったよな」

「……ああ」

笹倉は、コーヒーを飲んだ。

それから、妙に静かな声で言った。

「代わってたら、俺、真木の次だったかな」

俺は、答えられなかった。

笹倉は、笑った。

「冗談だよ」

その三か月後に、いなくなった。

順番は、変わらなかった。

郡司、真木、笹倉。

かけた者、繋がった者、その場にいた者。

俺は、その場にいて、耳に当てた。

耳に当てたのは、俺と真木だけだ。

笹倉は、当てていない。

それでも、いなくなった。

だから、俺の理屈は、どこかで間違っている。

間違っているのに、順番だけが、合っている。

あれから二十年、俺は普通に生きてきた。

就職して、結婚もした。

子どもも、ひとりいる。

夏になると眠れなくなるのを除けば、なんの問題もない。

盆には、必ず休みを取る。

取って、家から出ない。

妻には、暑いのが苦手だと言ってある。

嘘ではない。

あの夏の朝、分校の中は、妙に涼しかった。

八月なのに、息が白くなりそうなくらいだった。

そのことを、俺は誰にも言っていない。

警察にも言わなかった。

言えば、真木や笹倉が、もっと怖がると思ったからだ。

今は、言う相手がいない。

子どもが、去年、小学校に上がった。

入学式の日、教室の後ろで、俺は黒板を見た。

新しい黒板だった。

何も書かれていなかった。

それなのに、俺は、そこに縦の四つを探していた。

探している自分に気づいて、廊下に出た。

廊下で、少し息を整えた。

その日から、俺は、あの分校に行こうと決めた。

確かめるためではない。

確かめないままでいるのが、限界だっただけだ。

去年、俺は分校に行った。

二十年ぶりだった。

校舎は、まだ建っていた。

床は抜けていたが、教室の机は、四つ、前を向いていた。

教室に入る前に、俺は宿直室を見た。

押し入れが、開いていた。

二十年前、郡司が開けて、閉めたはずの押し入れだ。

床板の上の、四角い跡は、まだあった。

埃の積もった板の上で、その四角だけが、やはり、きれいだった。

二十年ぶんの埃が積もった床に、二十年前と同じ、きれいな四角。

何かが、ずっと、そこにある。

見えないだけで、ある。

俺は、押し入れを閉めた。

閉めて、手を離した。

戸は、ひとりでに、少しだけ開いた。

黒板の前に立った。

薄い字が、まだ残っていた。

日付の下に、名前が四つ。

今度は、読めた。

埃が積もったぶん、かえって、字の跡が浮いて見えた。

郡司。

真木。

笹倉。

黒板の名前は、消えた順に並んでいた。

一番下に、俺の名前があった。

帰り道、俺は坂の途中で自転車を停めた。

風が吹いていた。

携帯の中で聞いた、あの風の音と、同じ音だった。

分校の窓は、閉まっていた。

それでも、風は、あの建物の中から聞こえていた。

警察に、もう一度行こうとは思わない。

二十年前、あの若い警官は、最後にこう言った。

「電話は、繋がりませんよ。電波、来てないんですよ、あの山」

そのとおりだ。

俺の携帯も、あの日、一本も立っていなかった。

真木の携帯だけが、繋がった。

そして、真木は、いなくなった。

今でも、あの分校の前の道だけは通らない。

遠回りになっても、県道へ出る。

去年、黒板を見たあの日から、一年が経とうとしている。

昨日、俺の携帯が、一度だけ鳴った。

知らない番号だった。

出なかった。

留守番電話に、何も残っていなかった。

残っていなかったのに、再生時間だけが、四秒あった。

俺は、それを、まだ消していない。

消したら、次は、俺の番のような気がしている。

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