疫病神

疫病神

もう、二十年以上も前の話になります。

私が、高校生だったころのことです。

私の家は、山あいの、小さな集落にありました。

三方を山に囲まれ、日暮れの早い土地でした。

家は、曾祖父の代から続く、古い農家でした。

茅葺きを瓦に葺き替えた、大きな平屋です。

庭の隅には、屋敷神を祀った、小さな祠がありました。

「あの祠のおかげで、この家は代々、守られてきたんや」

祖父は、口癖のように、そう言っていました。

集落には、二十軒ほどの家が、身を寄せ合っていました。

朝は、どこかの家の鶏の声で、目を覚ましました。

夕方には、味噌汁の匂いが、家々の軒先から漂いました。

私の家は、その集落でも、古いほうでした。

広い土間に、黒光りする大黒柱。

奥には、仏間と、客間が、続いていました。

父は無口で、頑固な人でした。

母は、いつも笑っていて、家の真ん中にいるような人でした。

弟は野球にのめり込み、妹は絵を描くのが好きでした。

祖父は、庭の祠の世話を、毎朝、欠かしませんでした。

水を替え、榊を供え、手を合わせる。

それが、我が家の、変わらぬ朝の風景でした。

ごく、ありふれた、けれど、あたたかい暮らしでした。

※

その日は、朝から、冷たい雨が降っていました。

両親は法事で出かけ、私は一人、留守番をしていました。

弟は部活、妹は友達の家、祖父は昼寝をしていました。

薄暗い座敷で、私は、こたつに入って、うとうとしていました。

雨だれの音が、軒先から、絶え間なく落ちていました。

※

昼過ぎ、玄関の戸を叩く音がしました。

とんとん、ではなく、どん、どん、と、鈍い音でした。

私は、宅配便かと思い、玄関へ出ました。

戸を開けると、見知らぬ男が、立っていました。

ずぶ濡れの、ぼろぼろの身なりでした。

傘も差さず、雨に打たれるまま、じっと突っ立っていました。

顔は、雨と髪で、よく見えませんでした。

ただ、落ちくぼんだ目だけが、こちらを、じっと見ていました。

男の身なりは、この時代の人とは、思えませんでした。

色のあせた、古い外套を、まとっていました。

足もとは、裸足でした。

その足が、雨のぬかるみに、深く沈んでいました。

近くにいるだけで、饐えたような、土の匂いがしました。

それは、雨の匂いとも、汗の匂いとも、違うものでした。

墓場の土を、掘り返したような、そんな匂いでした。

男が口を開くと、その匂いは、いっそう、濃くなりました。

「あの……何か、ご用ですか」

私が尋ねても、男は、しばらく何も言いませんでした。

やがて、しわがれた声で、ぽつりと言いました。

「この家には、悪いものが、憑いとる」

私は、背筋が、ひやりとしました。

「え……なんの、ことですか」

「この家は、もう、見込まれとる。次々と、持っていかれるぞ」

男は、それだけ言うと、くるりと背を向けました。

そして、雨の中へ、ゆっくりと歩き去っていきました。

私は、その後ろ姿を、ただ、見送ることしかできませんでした。

気づくと、男の立っていた場所だけ、地面が、黒く濡れて沈んでいました。

※

戸を閉めたあとも、私は、しばらく動けませんでした。

心臓が、どくどくと、鳴っていました。

雨の音だけが、やけに、大きく聞こえました。

私は、恐る恐る、もう一度、戸を細く開けてみました。

男の姿は、もう、どこにもありませんでした。

ぬかるんだ道には、足あと一つ、残っていませんでした。

裸足で歩いたはずなのに、です。

※

そのことを、私は、誰にも話しませんでした。

ただの、頭のおかしな男の、たわごとだ。

そう思い込もうとしました。

けれど、その日から、家の様子が、少しずつ、おかしくなっていきました。

まず、庭の井戸の水が、濁りはじめました。

澄んでいたはずの水が、白く、どろりと曇ったのです。

祠の傾きは、日ごとに、ひどくなっていきました。

祖父は、それを、ひどく気にしていました。

「この祠が倒れる時は、この家が終わる時や」

祖父は、青い顔で、そう言いました。

ある朝、祖父が祠を直そうと、土台を掘り返しました。

すると、土の中から、黒く朽ちた、小さな木札が出てきました。

札には、読めない文字が、びっしりと書かれていました。

祖父は、それを見た途端、手を止めて、真っ青になりました。

「これは……触ったら、いかんもんや」

祖父は、震える手で、その札を、そっと土に埋め戻しました。

そして、その日から、いっそう熱心に、祠に手を合わせるようになったのです。

次に、朝になると、屋敷神の祠が、少しずつ、傾いていきました。

誰も、触れていないはずなのに、です。

祖父が直しても、翌朝には、また、同じほうへ傾いていました。

夜には、天井裏で、かさ、こそ、と、何かの這う音がしました。

ねずみにしては、大きすぎる音でした。

おかしなことは、井戸の水だけでは、ありませんでした。

ある朝、庭の木に、烏が、何十羽も、とまっていました。

一羽も鳴かず、ただ、じっと、家を見下ろしていました。

母が箒を振り回すと、一斉に、音もなく飛び立ちました。

台所では、炊いたばかりの米が、半日で、糸を引きました。

買ったばかりの牛乳も、その日のうちに、すえた匂いを放ちました。

飼っていた犬は、ある夜、鎖を引きちぎって、姿を消しました。

それきり、二度と、帰ってきませんでした。

そして、家の柱時計が、決まって、真夜中に止まりました。

止まる時刻は、いつも、同じでした。

午前二時、四十分。

誰かが、この世を去るには、ちょうどいい頃合いだと、祖父は言いました。

そして、雨の日には、決まって、あの湿った土の匂いが、家中に満ちました。

※

不幸が始まったのは、それから、間もなくのことでした。

最初は、父でした。

仕事帰りに、車で崖から転落し、大怪我を負いました。

命こそ助かりましたが、半年、寝たきりになりました。

父が崖から落ちた夜のことを、私は、忘れられません。

病院に運ばれた父は、意識が、朦朧としていました。

それでも、うわ言のように、こう繰り返していました。

「道に、男が……濡れた男が、立っとった……」

私は、その言葉に、全身の血が、引いていくのを感じました。

あの男の言葉を、誰にも話さなかった自分を、私は責めました。

もし、話していれば。もし、祠に、もっと手を合わせていれば。

母が病に倒れた時も、私は、同じことを、悔やみました。

やせ細った母の手を握りながら、私は、祈ることしか、できませんでした。

「お願いです。もう、誰も、連れていかないでください」

けれど、私の祈りは、届きませんでした。

災いは、順番を待つように、一人ずつ、家族を襲っていったのです。

※

次は、母でした。

胃に、悪いものが見つかり、大きな手術をしました。

やせ細っていく母を見るのは、つらいものでした。

弟は、野球の練習中、打球を、左の目に受けました。

一時は、失明も覚悟しなければ、なりませんでした。

妹は、学校で、ひどいいじめに遭い、部屋から出てこなくなりました。

弟が、打球を目に受けたのは、梅雨のさなかでした。

グラウンドに、私が駆けつけた時、弟は、両手で顔を覆っていました。

指のあいだから、血が、したたっていました。

「見えん……兄ちゃん、目が、見えん」

その声を、私は、今も、耳の奥で覚えています。

妹が、学校へ行けなくなったのも、そのころでした。

いつも明るかった妹が、一日中、部屋の隅で、膝を抱えていました。

そして、祖父です。

あれほどしっかりしていた祖父が、日ごとに、遠い人になっていきました。

祖父は、庭の祠の前に、何時間も、座り込むようになりました。

「すまん、すまん」と、誰かに詫びるように、頭を下げていました。

「じいちゃん、誰に謝っとるん」

私が尋ねても、祖父は、うつろな目で、庭を見ているだけでした。

そして、あれほど元気だった祖父の頭が、急に、ぼけはじめました。

祖父は、時々、庭のほうを指さして、こう言いました。

「ほれ、そこに、また来とる。あの、濡れた男が」

けれど、私の目には、誰も、見えませんでした。

※

一年のうちに、家族は、次々と、災いに見舞われました。

幸い、死人こそ、出ませんでした。

けれど、あんなに明るかった家は、すっかり、暗く沈んでいました。

私は、あの男の言葉を、毎晩、思い出していました。

次々と、持っていかれるぞ。

五人が、やられました。

残っているのは、私、ひとりでした。

次は、俺の番かもしれない。

私は、毎晩、布団の中で、そう怯えていました。

雨の音がするたび、あの、どん、どん、という戸を叩く音が、耳によみがえりました。

そのころ、私は、夜が来るのが、恐ろしくてなりませんでした。

雨の降る晩は、とりわけ、眠れませんでした。

軒を打つ雨だれの音が、あの、戸を叩く音に、重なるのです。

どん、どん、と。

私は、布団の中で、耳をふさぎました。

それでも、あの男の声が、頭の奥で、響きました。

次々と、持っていかれるぞ。

私は、何度も、庭の祠に、手を合わせに行きました。

けれど、祠の扉は、いつも、ほんの少しだけ、開いていました。

閉めても、閉めても、翌朝には、また開いているのです。

その暗い隙間を、私は、のぞくことが、できませんでした。

けれど、なぜか、私の身にだけは、何も起こりませんでした。

※

私は、家を出る前の晩、祖父に、一つだけ尋ねました。

「じいちゃん。あの濡れた男は、いったい、何なん」

祖父は、しばらく、庭のほうを見ていました。

そして、ぽつりと、こう言いました。

「昔な、この土地で、飢饉があった。大勢が、飢えて死んだそうや」

「その、行き場のない者らを、この家が、祠に祀って、鎮めてきたんや」

「じゃが、供養を怠ると……あれは、また、迎えに来る」

私は、言葉を失いました。

あの濡れた男は、遠い昔から、この土地をさまよう、何かだったのです。

あの飢饉の話は、集落の年寄りも、みな知っていました。

けれど、詳しいことを、口にする者は、いませんでした。

ただ、雨の続く年は、決まって、悪いことが起きる。

そう、言い伝えられていました。

私の家が、その供養を、代々引き受けてきたのだと、祖父は言いました。

庭の祠は、そのための、ものだったのです。

※

やがて、私は、家を出ました。

都会の大学へ進み、そのまま、就職しました。

家族も、少しずつ、快復していきました。

父は歩けるようになり、母の病も、癒えました。

弟の目も、視力を取り戻しました。

妹は、やがて、学校へ通えるようになりました。

まるで、何かが、潮が引くように、去っていったのです。

気づけば、あれから、二十年もの月日が、流れていました。

あの男のことも、いつしか、忘れかけていました。

※

今年の正月、私は、久しぶりに、実家へ帰りました。

年老いた父と、二人で、酒を酌み交わしました。

ふと、私は、あの日の男の話を、切り出しました。

今なら、笑い話にできる。そう思ったのです。

ところが、父は、笑いませんでした。

猪口を持つ手を止めて、遠くを見るような目をしました。

「その話は……お前も、覚えとったか」

「え。とうちゃん、知っとったん」

「あの年な。わしも、同じ男を、見たんや」

父は、低い声で、そう言いました。

「崖から落ちる、あの直前にな。道の真ん中に、濡れた男が、立っとった」

私は、ぞくりとしました。

「それは……いったい、なんやったん」

父は、しばらく黙って、猪口の酒を、じっと見つめていました。

そして、絞り出すように、つぶやきました。

「あれは……本物の、疫病神だったのかもしれんな」

その一言が、二十年越しに、私の背筋を、凍らせました。

※

父の話を聞いたあと、私たちは、長いあいだ、黙っていました。

囲炉裏の炭が、ぱち、と、小さくはぜました。

「なあ、とうちゃん。なんで、俺だけ、無事やったんやろ」

私が尋ねると、父は、ゆっくりと、首を振りました。

「わからん。……ただ、じいさんが、最後にな」

「祠の前で、こう言うとったんや。この子だけは、代わりに、わしが、と」

祖父が亡くなったのは、私が家を出た、翌年のことでした。

穏やかな、眠るような、最期だったと聞きました。

まるで、何かを、やり終えたかのように。

その話を聞いた時、私は、涙が止まりませんでした。

あの祠を守り続けた祖父が、最後に、私の身代わりになったのかもしれない。

そう思うと、胸が、締めつけられました。

※

帰りぎわ、私は、ふと、庭の祠を見に行きました。

あの、傾いていた祠です。

祠は、今は、まっすぐに、立っていました。

けれど、その扉が、ほんの少しだけ、開いていました。

中を、のぞこうとして、私は、やめました。

見てはいけない。そんな気が、したのです。

雨は、あの日と同じように、静かに、降りはじめていました。

今、私にも、家庭があります。

小さな娘が、一人います。

先日、その娘が、ふと、こんなことを言いました。

「ねえ、パパ。お庭に、濡れたおじさんが、立ってたよ」

私は、心臓を、鷲づかみにされた気がしました。

けれど、私の住むのは、雨の少ない、都会のマンションです。

庭など、どこにも、ありません。

私は、努めて、平静を装いました。

「そう。どんな、おじさんやった」

「わかんない。目だけ、こっち見てた」

娘は、けろりとした顔で、そう答えました。

その夜から、私は、あの祠のことを、また、考えるようになりました。

※

私は、今でも、時々、考えます。

あの疫病神は、なぜ、私だけを、見逃したのか。

それとも。

まだ、私の番が、来ていないだけなのか。

雨の音を聞くたび、私は、あの濡れた男の目を、思い出すのです。

あれから、私は、雨の日には、外を見ないようにしています。

とりわけ、二月の、冷たい雨の降る日は。

窓の外に、あの、濡れた影が、立っている気がするのです。

娘には、まだ、この話は、していません。

実家の祠は、今も、父が守り続けています。

正月に帰るたび、父は、必ず、榊を新しくしています。

「これだけは、絶やしたら、いかんのや」

年老いた父の背中は、いつしか、祖父のそれと、重なって見えました。

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