神社の奥の光

神社の奥の光

その年の春、私は祖母の暮らす、山あいの集落に身を寄せていた。

勤めを辞めて、しばらく絵を描いて過ごそうと、決めたばかりの頃だった。

集落は、山に抱かれるように静まり返り、人の姿もまばらだった。

私は毎日、スケッチブックを抱えて、あてもなく村の中を歩いた。

古い家並みや、苔むした石垣を、夕暮れの光の中で写し取るのが好きだった。

集落には、信号も、コンビニも、何ひとつなかった。

日が落ちれば、聞こえるのは、谷を流れる川の音と、風が杉を鳴らす音だけだった。

祖母は、そんな村で、たった一人、古い家を守って暮らしていた。

私が来たことを、祖母はことのほか喜んで、毎晩、山の幸を膳に並べてくれた。

穏やかで、何の変哲もない、静かな日々のはずだった。

※

村のはずれの道を、いつものように歩いていたときのことだ。

細い辻を曲がったところに、古びた鳥居が一基、立っているのに気づいた。

朱の色はすっかり剥げ落ち、灰色の木肌が、剥き出しになっていた。

鳥居の奥は、杉の木立に呑まれて、暗く、何も見通せなかった。

その寂れた佇まいが、絵心をそそった。

※

鳥居の真正面に立っても、参道の先に、社殿の影は見えなかった。

おそらく社は、参道の途中で右へそれた、奥のほうにあるのだろう。

右手に、苔むした石段が、暗がりへと続いているのが見えた。

いい題材だと思った私は、明日、明るいうちに描きに来ようと決めた。

その日は、鳥居の輪郭だけを、ざっと写して帰った。

その鳥居をスケッチして帰った晩、私は祖母に、村の地図のことを尋ねた。

村のはずれに、古い鳥居があるね、と何気なく口にした。

すると祖母は、一瞬、箸を止めて、ああ、とだけ答えた。

あそこは、昔から、あまり近づかんほうがええ場所でな、と小さく言った。

その時の私は、田舎にありがちな言い伝えだろうと、軽く聞き流していた。

今思えば、祖母はあのとき、それとなく、私を止めようとしていたのだ。

※

翌日の夕方、私はスケッチブックを抱えて、再びその鳥居を訪ねた。

春の日は長く、この時刻でもまだ、十分に明るいはずだった。

ところが、鳥居の前まで来ると、あたりの様子が、どこかおかしかった。

鳥居の周りだけ、薄い靄が、うっすらと立ちこめていたのだ。

辻を曲がる前は、そんなものは、どこにもなかったのに。

※

妙だな、とは思った。

けれど、そういう不思議な目に遭ったことなど、それまで一度もなかった。

だから私は、たいして気にも留めず、靄など、谷から下りた水気だろうと考えた。

暗くならないうちに描いてしまおうと、私は鳥居に近づいた。

そして、画板を構えようとした、そのときだった。

※

鳥居の奥、暗い木立の中で、ふいに、何かが、ぼうっと光った。

誰かが灯りを持っているのか、と思った。

だが、こんな時刻に、こんな寂れた社の奥に、人がいるはずもない。

靄は出ていても、そのあたりまでは、まだ見通せた。

光は、社のあるはずの右手ではなく、鳥居の真正面、参道の奥に浮かんでいた。

※

私は目がいいほうだ。

見間違いではない。

確かに、暗がりの奥で、淡い光が、ひとつ、灯っていた。

その光を見つめていると、なんとも言えない感覚に、襲われた。

まるで、その光に、そっと手招きをされているような、そんな気がしたのだ。

※

同時に、背筋を、ぞわりと、冷たいものが這い上がってきた。

背骨の一本一本を、見えない指で、そっと撫でられているような感覚だった。

心地よくはない。

だが、その光から、目を離すこともできなかった。

私は、画板を構えたまま、その場に、根が生えたように立ち尽くしていた。

※

二分ほども見ていただろうか。

光が、少しずつ、変化していくのが分かった。

うまく言えないのだが、光は、遠ざかると大きく、近づくと小さく見えた。

普通の灯りなら、近づけば大きくなるはずだ。

それが、逆なのだ。

そして、光がこちらへ近づいてくるほど、なぜか、靄が濃くなっていった。

光を見つめるうち、私は、自分の体が、わずかに前へ傾いているのに気づいた。

足が、ひとりでに、鳥居の内側へ、踏み込もうとしていた。

はっとして、私は、その足を、無理やり押しとどめた。

行ってはいけない、と、頭の片隅で、別の自分が叫んでいた。

それでも、視線だけは、どうしても、あの光に吸い寄せられたままだった。

※

普通、こういう靄は、時間が経てば、薄れていくものではないだろうか。

それなのに、靄は、私を包み込もうとするように、刻々と濃くなっていく。

鳥居の輪郭が、白くにじんで、ぼやけていった。

私の足元から、すうっと、地面の冷たさが上ってくる。

気づけば、あれほど聞こえていた鳥の声も、虫の音も、ぴたりとやんでいた。

※

帰るべきか、それとも、もう少し見ていたいのか。

自分の中で、二つの気持ちが、せめぎ合っていた。

その手招きするような光から、私は、目を離したくなかった。

だが、背筋を這う、あの冷たい感覚は、はっきりと、いやだと告げていた。

そのとき、突然、鳥居の奥の空気が、変わった。

※

左右から、ざわっと、何かが流れ込むように、空気が動いた。

そして、暗がりの色が、ゆっくりと、別のものに変わっていくのが分かった。

言葉では言い表せない。

ただ、見てはいけないものが、今まさに、こちらへ来ようとしている。

そう感じた瞬間、私は弾かれたように、踵を返して、走り出していた。

※

スケッチブックを胸に抱え、辻を曲がるまで、私は一度も振り返らなかった。

集落の灯りが見えたとき、ようやく、靄が嘘のように消えていることに気づいた。

息を整えながら、私は、たった今の出来事が、現実だったのか、自信が持てなくなった。

あの光は、いったい、何だったのか。

行けば吉だったのか、凶だったのか。

その晩、私は、なかなか寝つけなかった。

※

翌朝、私は、夕餉の支度をする祖母に、何気なく、その話をした。

村のはずれの、古い鳥居の奥で、光を見たのだと。

すると、それまで穏やかだった祖母の手が、ぴたりと止まった。

祖母は、私の顔を、じっと見て、低い声で言った。

「あそこへは、もう二度と、夕方に行ってはならんよ」

※

祖母の話は、こうだった。

あの鳥居の奥は、村でも古い、御神域なのだという。

悪いものがいるわけではない。

むしろ、神さまが、おわす場所なのだと、祖母は言った。

そして、たいていの神さまは、人の目に触れることを、たいそう嫌われるのだと。

※

うっかり、その姿を見てしまうと、よくないことが起きる。

だから、この村では、古くからの決まりがあるのだという。

神さまが通られる時季には、夜、家々はいっさいの灯りを消す。

道を、真っ暗に保ち、戸を固く閉ざして、決して外を覗かない。

それは、うっかり、神さまの姿を、見てしまわないための、用心なのだと。

※

「お前が見た光は、たぶん、その類のものだ」と、祖母は言った。

「見られて、向こうも、決まりが悪かったろうて」

「逃げ帰ってきて、よかった。あのまま見ておったら、どうなっていたか」

後で知ったことだが、村には、昔、こんな話があったという。

ずっと昔、好奇心の強い若者が、夕方、あの鳥居の奥へ入っていったそうだ。

その若者は、三日のあいだ、村から姿を消した。

四日目に、参道の入口で、ぼんやりと座り込んでいるのを見つかった。

だが、それからの彼は、人の顔を見ても、まるで誰だか分からなくなっていたという。

何を見たのか、ついに、誰にも語らないまま、生涯を終えたそうだ。

祖母は、それきり、その話を二度としなかった。

私も、それ以上は、訊かなかった。

祖母は、立ち上がって、仏壇に灯した小さな火を、そっと消した。

そして、窓の障子を、いつもより念入りに、閉めて回った。

「神さまの通る道を、覗くものではない」と、もう一度、低くつぶやいた。

その背中が、いつもより小さく、こわばって見えた。

村の決まりを守るということが、どれほど切実なものか、私は初めて肌で感じた。

※

あの靄が、私を包もうとして、濃くなっていったこと。

光が、近づくほどに小さく見えたこと。

背筋を這った、あの冷たい指のような感覚。

そのどれもが、見てはならないものへ、私が踏み込みかけていた証だったのだ。

目がいいことを、あのとき初めて、私は恐ろしく思った。

※

数日して、私は昼の明るいうちに、もう一度だけ、あの辻まで行ってみた。

鳥居は、ただ古びて、灰色に立っているだけだった。

靄もなく、奥の木立も、ありふれた杉林に過ぎなかった。

鳥でも鳴いていそうな、のどかな昼下がりだった。

それでも私は、鳥居をくぐる気には、どうしてもなれなかった。

明るい昼であっても、その奥には、別の時間が流れているように思えたのだ。

あれから、私はもう、あの鳥居を描こうとは思わなくなった。

村にいる間も、夕方にあの辻へ近づくことは、二度となかった。

走って逃げたあの夜、靄を抜けた瞬間のことを、私は今も覚えている。

背中を這っていた冷たい感覚が、すうっと、潮が引くように消えたのだ。

まるで、見えない境界を、ぎりぎりで越えて、こちら側へ戻ってきたような。

あと数歩、鳥居の奥へ踏み込んでいたら。

あの若者のように、私も、戻ってこられなかったのかもしれない。

今でも、夕暮れに薄い靄を見ると、あの淡い光を、ふと思い出す。

手招きされているようだ、と感じたあの感覚を、私は今も、うまく説明できない。

優しく招かれているのに、行けば二度と帰れない。

光は、そういう、矛盾した気配をまとっていた。

美しいものほど、近づいてはいけないのだと、あの夜、体で教わった気がする。

絵を描く者として、私は、見ることを生業にしてきた。

けれど、この世には、見てはならないものも、確かにあるのだ。

見たいという気持ちと、見てはならないという戒めが、今も胸の中でせめぎ合う。

村を離れる日、私は祖母に、あの鳥居のことを、もう一度だけ尋ねた。

祖母は、ただ静かに、行かんでよかった、とだけ繰り返した。

その穏やかな顔の奥に、私は、深い畏れのようなものを見た気がした。

あのとき、走って逃げた自分の足を、私は、心から信じている。

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