イツキのアトリエ

イツキのアトリエ

私は毎朝、家を出る前に、自分の部屋の物の位置を紙に写す。

机の上、鴨居、窓辺。

どこに何が置いてあるかを、簡単な線で描くだけだ。

三十年、一日も欠かしていない。

この癖の理由を、私は家族にも話していない。

※

昭和五十四年の春から、私は下北の巡回図書車に乗っていた。

移動図書館というやつだ。

改造した箱型のトラックの中に棚を組んで、集落を回る。

運転と貸出を、二人一組でやる。

私は町の図書室に採用された二十歳の新人で、相方は矢作さんという五十過ぎの人だった。

就いた初日に、矢作さんに言われたことは一つだけだった。

「棚は、入れた位置に返せ」

「詰めたらいけませんか」

「詰めるな。抜けたところは抜けたままにしとけ」

図書館らしくない教え方だと思った。

ふつうは背を揃えて詰めるものだ。

それを言うと、矢作さんは前を向いたまま答えた。

「うちの車の棚は、集落が覚えとる」

意味がわからなかったので、私は笑ってごまかした。

※

巡回の道は、東の海沿いから山を越えて、西の入り江まで六つの集落を回る。

舗装は途中で終わり、あとは砂利と土だ。

雨の日は、車の中で本が湿った匂いになる。

晴れた日は、開けた後ろの扉から潮の匂いが入ってくる。

集落に着くと、まず後ろの扉を開けて、踏み台を下ろす。

それだけで、どこからか人が出てくる。

子どもが先に来て、そのあと年寄りが来る。

働き手は昼にはいない。

だから利用者は、たいてい子どもと年寄りだった。

貸出は手書きだ。

本の後ろのポケットに入れたカードを抜いて、日付と名前を書く。

矢作さんは、そのカードを木の箱に立てて並べた。

箱は集落ごとに分かれていた。

子どもは、たいてい同じ本を借りる。

一年のあいだに、同じ図鑑を九回借りた子がいた。

「また、それか」

「これがええ」

「もう全部覚えたやろ」

「覚えたけん、ええんや」

矢作さんは、その子のカードだけ、箱の手前に立てていた。

年寄りは、本より私たちの顔を見に来る。

何も借りずに、踏み台のところで三十分ほど喋って帰る人もいた。

「本は、目が痛いすけ」

「じゃあ、何をしに来たんですか」

「車を見に」

それで通ってしまうのが、この仕事のいいところだった。

矢作さんの弁当は、いつも同じだった。

塩鮭と、白い飯と、たくあん三枚。

三枚から増えも減りもしない。

訊いたら、四十年同じだと言った。

矢作さんには、もう一つ癖があった。

集落に着くと、扉を開ける前に、棚の背の並びを紙に写すのだ。

帳面ではなく、二つ折りの小さな紙に、鉛筆で。

棚は五段で、一段に四十冊ほど入る。

それを全部、線と略号で写す。

三分ほどで終わるが、毎回やる。

私はそれを、几帳面な人の癖だと思っていた。

「矢作さん、それ、毎回いりますか」

「いる」

「なんのために」

「並びが変わっとったら、その集落では扉を開けん」

それだけ言って、矢作さんは紙を胸のポケットに入れた。

開けない日が、あるらしかった。

私が乗ってからの三ヶ月では、一度もなかった。

矢作さんは、車の中ではほとんど喋らない。

喋らないぶん、手が細かい。

棚に一冊入れるたびに、指で背を撫でて位置を確かめる。

その撫で方が、猫を触るときの手つきに似ていた。

「本、好きなんですね」

「好かん」

「好きじゃないんですか」

「並びが好きなんや」

※

六月の終わり、山側の集落で、私はその一冊を見つけた。

三段目の右端に、背表紙のないものが挟まっていた。

引き出してみると、市販のスケッチブックだった。

厚い画用紙の帳で、表紙は薄い水色。

角がすり切れて、綿のようになっていた。

貸出のポケットもカードもない。

分類の番号も貼っていない。

当然、図書室のものではなかった。

表紙の右下に、鉛筆で二文字だけ書いてあった。

「イツキ」

名前らしかった。

私はそれを、誰かの忘れ物だと思った。

※

開いたのは、その日の帰りの車の中だ。

矢作さんが運転していて、私は助手席で膝に載せた。

一枚目は、部屋の絵だった。

鉛筆と、色の薄い絵の具で描かれている。

畳の部屋で、奥に茶箪笥、その上に薬の袋と、竹の耳掻きが描いてあった。

上手かった。

上手いというより、正確だった。

人は描かれていない。

二枚目も部屋の絵だった。

三枚目も、四枚目も。

どれも人がいない室内で、それぞれ違う家だった。

私はそこで、手が止まった。

三枚目の絵に、見覚えがあった。

その日の午前に立ち寄った家の、居間だった。

その家は、集落でいちばん奥の、須藤さんの家だ。

矢作さんが返却の遅れた本を取りに行き、私も一緒に上がらせてもらった。

だから座敷の様子を覚えていた。

柱に貼った古い暦、その下の丸い鏡、鏡の横に掛けた麦わら帽子。

絵には、その三つが同じ位置に描かれていた。

座敷の隅に、丸い柱時計も描かれていた。

針は、十時二十分を指していた。

私はその数字を、しばらく見ていた。

あの日、私たちがその集落にいたのは、十時から十一時のあいだだ。

須藤さんの家に上がったのは、たしか十時二十分ごろだった。

つまり絵の中の時刻は、私たちが家に上がっていた時刻だった。

家の人は、そのとき土間にいた。

座敷には、誰もいなかった。

帽子の紐の垂れ方まで同じだった。

「矢作さん」

「なんだ」

「これ、須藤さんの家です」

矢作さんは、少し間を置いてから訊いた。

「棚に、あったんか」

「三段目の右です」

車が、砂利の上で少し速度を落とした。

「入れた位置に、戻したか」

「まだ、持ってます」

「今日は、それでええ」

矢作さんはそれ以上、何も言わなかった。

※

次の巡回の日、私は須藤さんに、遠回しに訊いてみた。

部屋の絵を描きに来た人がいないか、というふうに。

須藤さんは、七十を過ぎたおばあさんだ。

「絵描き?」

「はい。座敷を写した絵です」

「そんな人、来とらんよ」

それから、須藤さんは思い出したように言った。

「あんた、うちの座敷、いつ見た」

「先の巡回のときです」

「そんならわかるやろ。鏡は、割れとる」

座敷を見せてもらった。

丸い鏡は、右下に大きく罅が入っていた。

「先月、孫がぶつけたんよ」

私は、スケッチブックの絵を思い出した。

絵の鏡には、罅がなかった。

帰りの車で、私はもう一度その絵を見た。

何度見ても、鏡は割れていない。

それだけなら、去年か、その前に描かれたと考えればいい。

だが、柱に貼った暦の月が、その月のものだった。

六月。

暦の下に、赤い丸が二つ描き込まれている。

次の巡回で、私はその暦をこっそり確かめた。

赤い丸は、二つあった。

須藤さんの、通院の日だった。

それだけなら、古い絵だったという話で済む。

済まなくなったのは、その次の巡回でだった。

車の棚から、あのスケッチブックを取り出して、私はもう一度開いた。

開いて、数えた。

絵が、一枚増えていた。

増えた最後の絵は、海沿いの家だった。

三和土に長靴が二足、片方だけ倒れている。

その家に、私は前の週に行っている。

倒れた長靴も、見た覚えがあった。

つまり、絵は、こちらの巡回の順に増えていた。

回った家が、あとから描き足されている。

念のため、私は絵の枚数を控えるようにした。

帳面の隅に、日付と枚数を書く。

六月二十七日、十四枚。

七月四日、十五枚。

七月十一日、十六枚。

一週に一枚ずつ増えた。

巡回は週に一度だ。

増えた絵の家は、毎回、その週に立ち寄った家だった。

※

それから起きたことを、順に書く。

一つめは、匂いだった。

スケッチブックを挟んだ棚の周りだけ、鉛筆の匂いがした。

削りたての、木と黒鉛の匂いだ。

車には鉛筆削りを置いていない。

二つめは、湿りだった。

最後の絵の、絵の具の部分だけが、いつも乾いていなかった。

指を当てると、わずかに色が移る。

雨の日でも、晴れた日でも同じだった。

三つめは、助手席だった。

朝、車に乗ると、助手席の座面が、人ひとり分沈んでいた。

沈みが戻るのに、しばらくかかる。

矢作さんは、それを見ても何も言わなかった。

見ないようにしていた、というほうが近い。

四つめは、車の中の温度だった。

八月の巡回で、車内の温度計だけが、十度を指していた。

棚の本は熱いのに、温度計は冬の数字だった。

叩くと、針は動かなかった。

六つめは、絵の具だった。

最後の絵の、乾いていない部分の色を、私は一度だけ紙に取った。

薄い青だった。

町の文具屋に持っていって、訊いてみた。

「この色、いまも売ってますか」

店の主人は、老眼鏡を上げて紙を見た。

「これは、粉のやつやな」

「粉」

「戦のころまでの絵の具や。水で溶いて使う」

「いまは、売ってないんですか」

「三十年、仕入れとらん」

私は礼を言って、その紙を持って帰った。

帰り道で、紙の色は乾いていた。

翌朝、鞄から出したら、また湿っていた。

五つめは、並びだった。

九月の、東の集落に着いたときだ。

矢作さんが紙を出して、棚を照らし合わせた。

そして、扉を開けずに運転席に戻った。

「今日は、開けん」

「なんでですか」

「並びが、変わっとる」

私も見た。

確かに変わっていた。

冊数は同じだ。

位置だけが、入れ替わっていた。

車を出してから、矢作さんが初めて説明をした。

「昭和二十年代に、集落を回っとった人がおる」

「本を?」

「本やない。留守の家を、見て回るのが仕事や」

聞けば、当時は町の役場から人が出て、空き家や留守の家の様子を控えて回っていたのだという。

どこに何があるか、傷んでいないか、そういうことを紙に書いて出す。

「その人が、絵で控えとった」

「絵で」

「字より早いと言うたそうや」

矢作さんは前を向いたまま言った。

「その人は、仕事が終わったあと、控えるのをやめんかった」

「やめなかった」

「見て回るほうが、性に合うたんやろ」

それから矢作さんは、こう付け足した。

「並びが変わっとる日は、その人が、車に乗っとる日や」

「名前は、なんていう人ですか」

「誰も覚えとらん」

「役場に、記録があるでしょう」

「控え帳は残っとる。名前の欄だけ、空いとるんや」

矢作さんは、そこで一度だけ、私のほうを見た。

「その控え帳の隅に、紙が一枚挟まっとった」

「紙」

「イツキ、と書いてあったそうや」

「それが、名前ですか」

「わからん。書いた者もおらん」

私は表紙の二文字を思い出した。

鉛筆で、いかにも忘れないように書かれた二文字だった。

忘れられたくない人が書く字だと、そのとき思った。

※

私は矢作さんの紙を、一度だけ見せてもらった。

二つ折りの紙の裏に、日付が並んでいた。

開けなかった日の日付だ。

数えると、七年分で二十二日あった。

「この日は、どうしてたんですか」

「町に戻って、棚を全部、入れた位置に返す」

「戻すだけですか」

「戻すだけや」

それで済むのなら、と私は思った。

思ったのは、私がまだ描かれていなかったからだ。

矢作さんに、一つだけ訊いた。

「矢作さんの部屋は、ありましたか」

矢作さんは、少し長く黙った。

「昭和四十六年に、一回な」

「どうしたんですか」

「入れた位置に返した」

「それで、済んだんですか」

「済んどらん」

それだけ言って、矢作さんは煙草に火をつけた。

車の中では吸わない人が、その日は窓を開けて吸った。

十月の巡回の朝、私は寝坊した。

顔を洗って、眼鏡を洗面所に置いたまま家を出た。

眼鏡がないと本の背が読めないので、その日は一日、目を細めていた。

最後の集落を出たあと、私は助手席でスケッチブックを開いた。

最後の一枚が、また増えていた。

見たことのない部屋だった。

六畳の畳の間で、机の上に本が三冊、伏せて置いてある。

壁の釘に、青い作業着が掛かっている。

窓の桟に、干からびた蜜柑の皮。

私は、その部屋を知っていた。

私の部屋だった。

そして、その絵の茶箪笥の上には、私が今朝、忘れて出てきた眼鏡が置いてあった。

※

私は、その絵を破らなかった。

焼こうとも思わなかった。

矢作さんに見せると、彼はしばらく黙って、それから言った。

「入れた位置に、返せ」

「それだけですか」

「詰めるな。抜けたところは、抜けたままにしとけ」

私は町に戻って、スケッチブックを三段目の右端に戻した。

背表紙のない、あの水色を、まったく同じ向きで。

それから棚に一切触らずに、車を降りた。

翌週、三段目の右端は空いていた。

抜けたところは、抜けたままにしてある。

私は詰めなかった。

その日から半年ほど、何も起きなかった。

助手席は沈まず、温度計は正しく動いた。

鉛筆の匂いも消えた。

それで私は、返したことで済んだのだと思った。

思ったところが、たぶん甘かった。

春の巡回で、山側の集落の年寄りが、こう言ったのだ。

「あんた、うちに絵、描きに来たか」

「絵は、描きません」

「そうか。うちの座敷におった若い人、あんたやと思うたけん」

私はその集落に、その週は入っていない。

矢作さんの紙では、その日は「開けん」日だった。

矢作さんは、その二年後に定年で辞めた。

辞める日に、二つ折りの紙を私に渡した。

日付の並びは、二十二から二十六に増えていた。

「あんたの分は、あんたが足せ」

「増えますか」

「増える」

矢作さんは笑わなかった。

巡回図書車は、昭和が終わる前に廃止された。

車は解体され、棚は町の図書室の裏に積まれた。

あの一冊がどこへ行ったのかは、誰も知らない。

※

十年ほど前、青森市で古い同業の集まりがあった。

隣の郡で車に乗っていた人と、はじめて話をした。

その人は、酒が回ったころに、こう言った。

「うちの棚に、背のない水色が挟まっとった時期があってな」

私は、何も答えなかった。

答えると、たぶん足すことになる。

その人は、私のほうを見ずに続けた。

「表紙に、名前が書いてあったわ」

「イツキ、ですか」

言ってしまった。

その人は、うん、とだけ言って、それから杯を置いた。

「あんたの部屋も、あったか」

「ありました」

それで、その話は終わった。

※

だから私は、毎朝、部屋の物の位置を紙に写す。

変わっていないことを確かめるためではない。

変わっていたときに、詰めないためだ。

抜けたところは、抜けたままにしておく。

この四十年で、位置が変わっていた朝は、三度あった。

三度とも、私は何も動かさずに家を出た。

三度目は、去年の秋だ。

机の上の本が、三冊、伏せて置いてあった。

私は、本を伏せて置く癖がない。

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