殺生

公開日: 不思議な体験

渓流(フリー写真)

秋田・岩手の県境の山里に住む元マタギの老人の話が、怖くはないが印象的だったので投稿します。

その老人は昔イワナ釣りの名人で、猟に出ない日は毎日釣りをするほど釣りが好きだったそうだ。

しかし、今は全く釣りをしなくなったと言う。これには理由があった。

ある時、大きな淵で片目が潰れた40センチを優に超える大イワナを掛けたが、手元まであと少しというところで糸を切られてしまった。

マタギの老人は地団駄を踏み、いつか仕留めてやると心に誓ったそうだ。

季節は流れ、夏になった。

その年は天候が不順の年で、郷では近年稀に見る不作の年になるのではないかと、まことしやかに囁かれていた。

半農半猟の生活を営んでいたマタギ老人も、今年はまず間違いなく凶作になるだろうことを確信していたのだという。

そこでマタギ老人は一計を案じた。

熊を何頭か仕留めて今のうちに現金を作り、凶作に備えようとしたのだ。

しかしその時はまだ禁猟期間中であったので、鉄砲を担いで山に入ることはできない。

そこで、ドラム缶を繋げた箱罠をこっそり仕掛けることにした。

老人はお手製の箱罠を、あの大イワナを逃した谷の林道脇に仕掛けた。

しかし箱罠を仕掛けてすぐに大雨が振り、その谷川が氾濫した。

雨は何日も降り続き、茶色く濁った水がどうどうと山を下った。

もともと谷川は細く、箱罠は鉄製であるので流されはしまいと老人は思ったそうだが、箱罠にもし熊がかかっていたら溺死を免れまい。

無責任ではあるが、熊を哀れと思う半分、後始末のことを考えると憂鬱だったそうだ。

雨が上がると、今度は急に日照りになった。

じりじりと日が照りつけ、この間氾濫したはずの沢からはあっという間に水が干上がった。

そうなるといよいよ面倒である。マタギ老人は箱罠を何日も放置していた。

しかしどうも収まりが悪い。

頭から箱罠のことが離れない上、勝手に罠を仕掛けてあるのを人に見られたら……と思うと、多少不安になってきた。

そこで老人は意を決して、あの箱罠を回収しに行くことにしたのだという。

谷に到着し箱罠に近付くと、物凄い腐臭がした。やはり熊は罠に掛かっていたのだ。

息を止めて箱罠を除くと、中にいたのはぐちゃぐちゃに腐り果て、その上の旱天に日干になった、見たこともない大グマだった。

いまだかつてこれほどの大グマにはお目にかかったことがない。

惜しいことをした。面倒臭がらずに回収しに来るんだった……と思いながら箱罠を開け、中から熊の死骸を引きずり出した瞬間、老人ははっと息を呑んだ。

ズルリ、と箱罠から出てきたのは、熊の死体だけではなかった。

あろうことか、中からあの時取り逃がしたはずの片目の大イワナが出てきたのだという。

おかしい。偶然にもあの大水の時にこのイワナがこの箱罠に迷い込むかしたとしても、その後の旱天で干物になっているはずである。

しかし、箱罠から出てきたのはどこも干からびておらず、それどころか本当にたった今まで谷川を泳いでいたのではないかというほどに、不気味に綺麗だったそうである。

そのうち、これは通常有り得ないことであるという理解がやってくると、イワナの潰れた目に睨まれた気がして、急に怖くなったのだという。

老人は血相を変えてその大イワナを掴み、沢に降りるや水に浮かべた。

何度も何度も水をかけ、「生ぎでけろ!生ぎでけろ!」と呼びかけたが、ダメだった。

老人が手を離すと、大イワナはブワーッと水面に浮かび、沢の下流へと流されて行って見えなくなった。

その後二、三日の記憶はどうも曖昧だという。

暫くして家族から聞いた話では、箱罠を回収しに行ったはずの老人が手ぶらで、しかも真っ青な顔で帰って来たので、家族が何があったと問い詰めても老人は何も話さなかった。

ただうつろな目で焼酎を煽り、何かブツブツとうわ言を呟きながら寝室の布団に寝込んでしまったのだという。

「あの時は俺も、何だか魂抜かれたような気がして、気違いみでぇになってよ……。

あの時、遊びで殺生してんのを、誰かに怒られたのではねぇがって思ってな……」

マタギの老人はそれ以来、ぷっつりとイワナ釣りをやめてしまったそうだ。

何だか不思議な、山と川のお話。

関連記事

田舎(フリー写真)

魚のおっちゃん

曾祖母さんから聞いた話。 曾祖母さんが子供の頃、実家近くの山に変なやつが居た。 目がギョロッと大きく、眉も睫も髪も無い。 太っているのだがブヨブヨしている訳でもなく、…

女性の後姿

勘の鋭い姉の話

一年前から始めた一人暮らし以降、私は不眠症に悩まされるようになった。数ヶ月前、普段霊などには触れない勘の鋭い姉が遊びに来た時、彼女は「ここ住んでるんだ。そうかそうかなるほどね」と何や…

ワープ

会社の後輩に聞いた、その子の友人(Aさん)のお話。 Aさんが小学生の時、積極的だったAさんは、休み時間に校庭で皆とドッジボールをして、チャイムが鳴ったので一番に教室に駆け込んで行…

お婆ちゃんの手(フリー素材)

牛の貯金箱

小学生の頃、両親が共働きで鍵っ子だった俺は、学校から帰ると近所のおばあちゃんの家に入り浸っていた。 血縁者ではないが、一人暮らしのばあちゃんは俺にとても良くしてくれたのを覚えてい…

生まれ変わり

物心がついた頃から、 「僕は1回死んだんだ」 って言っていた。 むしろその記憶は今でも残ってる。 その自分が死んだって言っていた理由ももちろん覚えている。 …

エレベーター

エレベーターと失われた時間

今日、不思議な体験をしました。 仕事が早く終わったので、行きつけのスナックで一杯飲むことにしました。 スナックが入っている雑居ビルのエレベーターに乗り、いつものように胸ポ…

最強の姉

一年前から一人暮らしを始めて以来、不眠症が酷くなった。 数ヶ月前に姉が遊びに来て、「へー…ここ住んでるんだ。そうかそうかなるほどね」と変な言葉を残して帰って行った。 霊とか…

私はアリス

信じてもらえないかも知れない。 でも当人が一番混乱してるんだ。ちょっと長くなるけど聞いてくれないか。 家に帰ったら母親が風邪で寝込んでいた。甲斐甲斐しく世話をする俺。まあ、…

田舎の風景

消えた時間

小さいころ、私は人と異なる一面を持っていました。 言葉や文字に対する理解は普通だったものの、人とのコミュニケーションに大きなギャップがありました。 目を合わせることはせず…

雪山のロッジ(フリー写真)

フデバコさん

幼稚園の行事で、雪山の宿泊施設へ泊まりに行きました。 小さなホテルに泊まるグループと、ロッジに泊まるグループに分かれていて、私はロッジに泊まるグループになりました。 「寒い…