Qualeは物質に干渉する

どうか、信じてもらえないと思いますが、すべて本当にあったことです。

わたしは、仙台の郊外で、ひとり暮らしをしています。

恥ずかしながら、いまも、定職にはついていません。

派遣の仕事をしながら、資格の勉強をしている身です。

その夜は、職場の同僚たちと、駅前の居酒屋で飲んでいました。

ほろ酔いで、終電を逃し、歩いて帰ることにしました。

家までは、歩いて二十分ほどの道のりです。

途中から、ぽつぽつと、雨が降りはじめました。

道の角に、古い自動販売機の並んだ一角があります。

その軒先で、雨宿りすることにしました。

自販機の灯りだけが、濡れたアスファルトを、青白く照らしていました。

通りには、車も、人の姿も、ありませんでした。

雨の匂いと、煙草の煙が、軒下に、こもっていました。

終電のあとの、しんとした時間でした。

煙草に火をつけ、雨足が弱まるのを待ちました。

缶コーヒーを買って、ぬるい雨の匂いを、ぼんやり眺めていました。

二本目の煙草に、火をつけたときでした。

いつのまにか、となりに、ひとりの男が立っていました。

上品な、年配の男でした。

グレーのスーツに、ネクタイはしていません。

白髪を、きれいに撫でつけた、品のいい紳士でした。

おかしなことに、その人は、傘を持っていませんでした。

これだけの雨のなかを、歩いてきたはずなのに。

スーツの肩も、撫でつけた髪も、まるで濡れていません。

乾いた、というより、はじめから雨に触れていないようでした。

そのときは、酔いのせいで、深くは気に留めませんでした。

いま思えば、それが、最初のしるしだったのかもしれません。

その人が、わたしのほうを、じっと見ています。

知り合いだろうか、と思いました。

けれど、顔にも、雰囲気にも、まるで見覚えがありません。

気にしないようにしましたが、視線が、どうしても気になります。

ちらりと様子をうかがうと、男が、軽く会釈をしました。

わたしも、つられて、会釈を返しました。

「ひどい降りですね」

男が、おだやかに言いました。

「ええ。急に、来ましたね」

「春の雨は、人を立ち止まらせるためにある、と言いますよ」

妙なことを言う人だな、と思いました。

声は、低く、落ち着いていました。

アナウンサーのような、聞き取りやすい発音でした。

年齢は、六十をいくつか過ぎたあたりに、見えました。

けれど、目だけが、妙に若く、澄んでいました。

その目で見られると、嘘がつけない気がするのです。

はじめは、二言三言の、世間話でした。

けれど、気がつくと、わたしは、ずいぶん話しこんでいました。

その人の、話の引き出し方が、不思議なほど巧みなのです。

警戒心を、すっと、ほどいてしまう声でした。

わたしは、自分のことを、べらべらと話していました。

両親を、中学のときに、相次いで亡くしたこと。

親戚の家で、肩身の狭い思いをして育ったこと。

上京して、就職したものの、人間関係で、つまずいたこと。

いまは、派遣で食いつなぎながら、勉強していること。

気がつけば、ほとんど、わたしばかりが、話していました。

男は、絶妙な相づちを、打ってくれました。

「そうでしたか」と、興味深そうに、聞いてくれます。

それが、なぜだか、たまらなく嬉しくて、わたしは涙ぐんでいました。

誰かに、自分の話を、こんなふうに聞いてもらったのは、いつ以来でしょう。

思い出せないほど、昔のことのようでした。

話すうちに、声が、だんだん鼻にかかっていきました。

それでも、男は、急かさず、わたしの言葉を待ってくれました。

雨音だけが、ふたりのあいだを、満たしていました。

わたしは、いつも、自分を孤独だと思って生きてきました。

友人といても、恋人がいたときでさえ、心の底は、ひとりでした。

両親に、置いていかれたのだ、と。

父が先に、病で逝きました。

母は、そのあとを追うように、一年で、亡くなりました。

わたしが、十四のときです。

葬式のあとのことは、よく覚えていません。

気づけば、おじの家の、二階の隅に、布団を敷いていました。

そこで、息をひそめるように、高校を出ました。

以来、誰にも、深く心を許さずに、生きてきました。

そんな思いを、初めて会った人に、話している自分に、驚きました。

黙って聞いてくれた、その男のことも、いま思えば、不思議です。

一時間ほど、わたしたちは、軒下で話しこんでいました。

ふと、携帯が鳴りました。

さっきまで一緒にいた、同僚からでした。

「ちょっと、失礼します」

電話に出ると、相手は、ひどく酔っていました。

まだ、店の近くにいるらしいことだけ、わかりました。

タクシーで迎えにいく、と言って、電話を切りました。

わたしは、男に、その旨を伝えました。

「話を聞いてくださって、ありがとうございました」

男は、「いえいえ、こちらこそ」と笑いました。

そして、親切にも、自販機の店の人に頼んで、タクシーを呼んでくれました。

タクシーを待つあいだ、ほんの三分ほどのことです。

雨は、いつのまにか、小降りになっていました。

濡れた路面に、信号の赤が、にじんで映っていました。

男は、まっすぐ前を見たまま、口を開きました。

その横顔には、どこか、急いでいるような、影がありました。

男が、奇妙なことを、言いはじめました。

「あなたは、どれだけ勉強しても、その試験には受かりません」

わたしは、言葉に詰まりました。

「いま勤めている会社は、二年のうちに、なくなります」

「それから、北のほうへは、行ってはいけません」

わたしは、ただ、ぽかんとしていました。

酔っているのだろうか、と思いました。

けれど、男の声は、しらふのように、落ち着いていました。

目だけが、暗い通りの奥を、見ているようでした。

「冗談を、おっしゃってるんですか」

わたしが、そう尋ねても、男は、笑いませんでした。

「いいえ。これは、お願いです」

その言い方に、ぞくりとしました。

「お願い、というのは」

「あなたにしか、できないことが、あるのです」

「わたしに、ですか」

「ええ。あなたが、いちばん、ふさわしい」

なぜ、初対面のわたしが、と問い返す前に、男は続けました。

「理由は、言えません。言えば、成り立たなくなるので」

「来年の二月十一日、午後三時十二分。青葉区の、椿の社の境内です」

「そこで、ひとりの女性に、必ず会いなさい」

男は、よどみなく、続けました。

「栗色の、癖のある、長めの髪。深緑のロングコート」

「赤い、踵の高いブーツを履いています」

その話の途中で、タクシーが、着いてしまいました。

わたしは、言われたことを、整理もできないまま、乗りこみました。

ドアが閉まる、その直前でした。

男が、わたしの手に、何かを、握らせました。

そして、早口で、何かを言いました。

けれど、その言葉は、雨の音に消えて、聞き取れませんでした。

ただ、口の動きだけが、いまも、目に焼きついています。

何度も、その形を、口でなぞってみました。

「わ、す、れ、る、な」

そう言っていたように、思えてなりません。

忘れるな、と。

何を、忘れるなというのでしょう。

会ったばかりの、あの夜のことをでしょうか。

それとも、まだ、起きてもいない、二月のことをでしょうか。

タクシーが、走りだしました。

わたしは、手のなかのものを、おそるおそる、開きました。

一枚の、折りたたんだ紙きれでした。

そして、小さな、透明なケースに入った、片方だけのイヤリング。

イヤリングには、付箋が貼ってありました。

「Her requiem」と、書かれていました。

紙きれの表には、英語と日本語の混じった文字が、並んでいました。

「Orpheus は、二度ふりむく」

「観測されないかぎり、それは、そこに在る」

「Anna は、echo を歌わない」

「始まりが主観なら、終わりは、すべて客観である」

字は、万年筆で書かれたような、青い字でした。

とても、急いで書いたとは思えない、ていねいな筆跡です。

まるで、何度も、書き直したかのようでした。

意味は、まるで、わかりませんでした。

わたしは、紙を、裏返しました。

裏には、細かい字で、こう書かれていました。

「彼女に会ったら、このイヤリングを、自然な形で渡すこと」

「決して、不審に思われてはならない。難しいが、やり遂げる必要がある」

「Quale は、物質に干渉する」

「二月十一日、午後三時十二分。誰よりも早く、彼女に会わなければならない」

「その日、彼女が最初に言葉を交わす相手が、あなたでなくてはならない」

「一秒たりとも、遅れてはいけない」

「あなたの妹は、おじとおばと、うまくやっている」

「だが、おばは一年後、精密な検査を受けることになる」

「そのときは、妹とともに、必ず実家にいなさい」

「来年の盆に、帰省してはならない」

「万が一、しくじったときは、好きにしてよい」

「あなたのほかに、二人いる。それらは、補欠である」

わたしには、妹などいません。

少なくとも、いまのわたしには。

両親が亡くなってから、わたしは、ずっと、ひとりきりでした。

なのに、あの紙には、「あなたの妹」と、はっきり書いてあったのです。

気になって、わたしは、唯一連絡の取れる、母方のおばに、電話をしました。

妹なんて、いるはずがない。そう、確かめるつもりでした。

ところが、おばは、電話口で、長いこと、黙りこみました。

「どうして、それを」と、ようやく、絞り出すように言いました。

母が、わたしを産むより前に、女の子を、死産していたというのです。

その子のことは、誰も、わたしに話さなかった。

わたしには、生まれてこられなかった、姉か妹が、いたのです。

なぜ、あの男が、それを知っていたのか。

わたしは、受話器を持ったまま、その場に、立ちつくしました。

あれから、半年が経ちました。

派遣先の会社は、先月、突然、倒産しました。

男の言ったとおりに。

倒産の知らせを聞いた日、わたしは、あの紙きれを、思わず握りしめました。

手が、震えていました。

偶然だと、思おうとしました。

会社が傾くことくらい、誰にでも、言い当てられる。

そう、自分に言い聞かせました。

それでも、心の奥では、わかっていました。

あの男は、偶然などではない、と。

資格の試験にも、わたしは、二度、落ちました。

自分では、手応えが、あったのです。

それでも、結果は、二度とも、あと一問、足りませんでした。

まるで、受からないように、仕組まれているようでした。

夏には、北の街の友人から、遊びにこないかと、誘われました。

「北のほうへは、行ってはいけません」

あの言葉が、頭をよぎり、わたしは、断りました。

断ったあと、その友人とは、なぜか、連絡が取れなくなりました。

偶然だと、思いたい。

でも、ひとつ、またひとつと、予言は、当たっていくのです。

のこりの予言が、来年、どうなるのか。

わたしは、それが、恐ろしくてなりません。

二月十一日に、その社へ行くべきなのか。

行かずに、いるべきなのか。

いまも、決められずにいます。

行けば、男の予言の、思うつぼかもしれません。

行かなければ、何か取り返しのつかないことが、起きるのかもしれません。

「Quale は、物質に干渉する」

その一行だけが、なぜか、頭から離れません。

クオリア、という言葉なら、聞いたことがあります。

意識が感じる、主観的な手ざわりのことだと。

目に見えない、その何かが、物質に干渉する。

つまり、誰かの意識が、この世界を、書き換えているということでしょうか。

そして、わたしは、その書き換えの、ほんの一部品なのでしょうか。

生まれてこられなかった姉のことを、男は、知っていました。

会社のことも、試験のことも、言い当てました。

だとすれば、二月の予言だけ、外れるとは、思えません。

わたしが行こうと、行くまいと。

いえ、行くか行かないかさえ、すでに、決められているのかもしれません。

「補欠が、二人いる」と、紙には書いてありました。

わたしと同じ夜に、同じように、声をかけられた人が、ふたり。

その人たちも、いまごろ、同じ紙きれを、見つめているのでしょうか。

同じイヤリングの、もう片方を、握りしめながら。

わたしたちは、たがいに、顔も名前も、知りません。

それでも、二月十一日、あの社の境内で、出くわすのかもしれません。

いちばん早く、彼女に会えるのは、誰か。

そう考えると、これは、お願いではなく、競争なのだと気づきます。

わたしが、しくじったときの、代わりが。

夜、眠る前に、わたしは、ときどき、その引き出しを開けます。

片方だけのイヤリングは、灯りの下で、星のように、小さくまたたきます。

もう片方は、どこにあるのでしょう。

イヤリングを、そっと手のひらにのせると、ひやりと、冷たいのです。

何時間、握っていても、その冷たさは、ぬくもりに変わりません。

まるで、この世のものではない、別の温度を持っているようでした。

それでも、わたしは、それを捨てられません。

捨てた瞬間に、何かが、わたしを見限る気がするのです。

せっかく、長い孤独から、解き放たれたところだったのに。

そう思ってしまう自分自身が、いまは、いちばん恐ろしいのかもしれません。

あの、栗色の髪の女性が、すでに、つけているのでしょうか。

会ったこともない彼女のことを、わたしは、少しずつ、考えるようになりました。

それも、あの男の、計算のうちなのかもしれません。

気づけば、わたしは、あの夜から、孤独を、感じなくなっていました。

誰かが、わたしを必要としている。

その思いだけが、いまの、わたしを支えています。

たとえそれが、得体の知れない、何かの計画だとしても。

わたしは、生まれて初めて、誰かに、選ばれたのです。

あの紙きれと、片方のイヤリングだけが、引き出しの奥で、静かに光っています。

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