思い出のテトリス

思い出のテトリス

祖母の家は、山あいの町の川沿いにあった。

築六十年を超える木造の二階建てで、玄関を開けると土間の匂いがした。

冬になると、川からの風が壁の隙間を鳴らす。

その音を、祖母は「川がしゃべっとる」と言っていた。

川沿いの道は、冬になると凍る。

祖母は、その道を毎朝掃いていた。

転ぶ人が出るから、と言って。

自分がいちばん転びやすい年なのに、そうしていた。

「危ないやん」

「危ないのは、みんな一緒やろ」

祖母の家は、間取りを今でも描ける。

玄関を上がると、右手が仏間。

左手が茶の間で、そのさらに奥が台所だった。

廊下の突き当たりに、急な階段がある。

三段目と七段目が、必ず鳴った。

夜中にこっそり下りようとしても、絶対にばれる階段だった。

庭には、柿の木が一本あった。

実は毎年なるのに、渋くて誰も食べなかった。

「切ったら?」と父が言うたびに、祖母は首を振った。

「木にも、都合があるやろ」

そういう言い方をする人だった。

祖母が息を引き取ったのは、三月の終わりだった。

祖父母四人のなかで、いちばん年下で、いちばん近い人だった。

通夜の晩から、私はずっと泣いていた。

そして、その家で起きたことを、私はいまだにうまく説明できずにいる。

※

祖母は、変わった人だった。

七十を過ぎてから、ゲーム機を買った。

孫のお下がりではない。自分で電器屋へ行って、自分の年金で買った。

「頭の体操やから」

そう言い訳していたが、明らかに言い訳だった。

茶の間の隅にブラウン管のテレビがあって、その下にゲーム機が置いてあった。

ソフトは三本しか持っていなかった。

そのうち一本が、テトリスだった。

祖母はそればかりやっていた。

私が遊びに行くと、まず一時間はテレビを取られた。

「ばあちゃん、代わってよ」

「あと一面」

「さっきもそう言うたやん」

「ほんまにあと一面」

そのあと一面が、三十分続く。

祖母は右手の親指しか使わない。左手は湯呑みを持ったままだ。

それなのに、私よりずっとうまかった。

夏休みには、必ず一週間泊まりに行った。

冷房がないので、昼間は縁側で寝ころんでいた。

祖母は三時になると、決まって氷菓を出してくれた。

缶詰の果物を、製氷皿で凍らせただけのものだ。

それが、どの店のものよりうまかった。

「ばあちゃん、これ何て名前?」

「名前なんかないわ」

「売れるって」

「売ったら、あんたに出せんようになるやろ」

祖母は、そういうことを真顔で言った。

茶の間には、大学ノートが一冊置いてあった。

祖母はゲームを終えるたびに、そこに点数を書きつけていた。

日付と、点数と、ときどき一言。

「今日は目が疲れた」とか、「隣の犬がうるさい」とか。

私はそれを、老人の日記のようなものだと思っていた。

「なんで書くん?」

「書いとかんと、やった気にならんから」

※

テトリスには、レベルを選んで始める仕組みがあった。

数字が大きいほど、最初からブロックが速く落ちてくる。

私はいつも、5の1から始めていた。

それでも最後までクリアできたことは、一度もなかった。

祖母は違った。

祖母は必ず、5の6から始めた。

「なんでそんな難しいとこから始めるん」

「途中からのほうが、楽しいから」

意味が分からなかった。

「最初からやったほうが、点も入るやんか」

「点はええの」

祖母は画面から目を離さずに答えた。

「終わりの近いとこが、いちばん面白いんよ」

当時の私は、十四だった。

その言葉を、ただの負け惜しみだと思っていた。

※

祖母が入院したのは、その年の一月だ。

隣の市の病院で、面会は一日一時間と決まっていた。

三月に入ってからは、酸素の管が外せなくなった。

病室は、四階のいちばん奥だった。

窓から、隣の市の川が見えた。

祖母は「これは、うちの川と違う川やな」と言った。

「同じ川やって。下流やもん」

「そうか。ほな、ちょっと安心やわ」

祖母は、荷物のなかにあの大学ノートを入れていた。

母が「持って行っても仕方ないやろ」と言ったが、祖母は譲らなかった。

「書くことがあるかもしれんから」

ゲーム機はない。テレビも共用だ。

それでもノートは、枕元の引き出しに入っていた。

私が最後に会ったとき、祖母はもう、あまりしゃべらなかった。

それでも、私の手を握って、こう言った。

「あんた、まだ5の1からやっとるん」

「うん」

「あかんわ」

それが、最後の会話になった。

祖母の家は、そのあいだずっと空のままだった。

電気も水道も止めていない。すぐに帰るつもりだったからだ。

※

通夜は、その家で行った。

仏間に祭壇を組んで、親戚が二十人ほど泊まり込んだ。

線香の匂いが、家じゅうに染みた。

通夜の晩の家のことを、もう少し書いておきたい。

仏間の襖は、四枚とも外してあった。

座布団が足りず、親戚が座敷から運んできた。

線香の煙が、天井の梁のあたりで一度たまる。

あの家は、煙の抜けが悪かった。

祖母はそれを気にして、冬でも台所の窓を少し開けていた。

通夜の晩、その窓は閉まっていた。

閉めたのは私だ。寒かったからだ。

あとになって、それを何度も思い返した。

あの晩、私は祖母の癖をひとつ、勝手に閉めてしまったのだ。

最初の異変は、その晩だった。

深夜二時ごろ、私は喉が渇いて目を覚ました。

廊下に出て、台所へ向かおうとしたときだ。

二階から、音が聞こえた。

電子音だった。

ピロピロ、と規則的に鳴る、あの独特の音。

テトリスの、ブロックが積まれる音だ。

私は階段の下で足を止めた。

ゲーム機は、茶の間にある。二階ではない。

それに、電源は先月から抜いてある。

私はしばらく、階段を見上げていた。

音は、十秒ほどで止まった。

翌朝、母に話すと、笑われた。

「川の音やろ。この家、変な音するんよ」

確かに、そうかもしれないと思った。

それから、もうひとつ気づいたことがある。

茶の間の畳に、正座のあとが残っていた。

祖母がいつも座っていた場所の、膝の位置に二つ。

三か月も誰も座っていないのに、そのへこみだけが消えていなかった。

母に言うと、母は畳を撫でて、それから手を止めた。

「……古い畳やからね」

それ以上、母は何も言わなかった。

※

葬儀のあと、孫たちだけが手持ち無沙汰になった。

大人たちは香典返しの相談で、座敷にこもっている。

従兄が言い出した。

「ばあちゃんが好きやったゲーム、みんなでやろうや」

「偲ぶってこと?」

「そういうことにしとこ」

私たちは茶の間に集まって、ゲーム機のコードを差した。

埃を吹いて、カセットを挿した。

画面がついたとき、なぜか誰も口をきかなかった。

祖母がそこに座っていたときと、同じ画面だったからだ。

順番を決めて、下の従弟から始めた。

みんな、すぐに終わった。

最後が、私だった。

※

レベル選択の画面が出た。

私は5の1に合わせようとした。

けれど、指が止まった。

カーソルが、勝手に動いたのだ。

5の1から、5の6へ。

コントローラーは、私の手の中にあった。私は何も押していない。

「今、動いた?」

従兄が身を乗り出した。

「押しただろ」

「押してない」

「押したって」

私は言い返さなかった。

そのまま、決定ボタンを押した。

祖母が必ず選んでいた、5の6から始まった。

※

最初の三十秒で、私は自分がおかしいことに気づいた。

手が、勝手に速く動く。

落ちてくるブロックの形が、落ちる前から分かる。

次に何が来るかが、体で分かるのだ。

私はそれまで、5の1すらクリアしたことがなかった。

それなのに、一段も無駄に積まなかった。

従兄が黙った。従弟が息を吐くのをやめた。

部屋の空気が、少しずつ薄くなっていく気がした。

画面の右上の数字が、見たこともない桁になった。

私の目からは、涙が止まらなかった。

泣きながらやっていたので、途中から画面は歪んでいた。

それでも、指は止まらなかった。

最後の一列が消えたとき、誰も声を上げなかった。

「……クリアした」

従弟が、そう言った。

私は、コントローラーを畳の上に置いた。

手が震えていた。

クリアの直後のことも、書いておく。

画面には、短い演出が流れた。

当時のゲームらしい、素っ気ないものだ。

従弟が「すげえ」と言った。

従兄は何も言わなかった。

茶の間の襖の向こうから、大人の話し声が漏れていた。

香典返しの品目を決めている声だった。

その日常の声と、目の前の画面が、まったく噛み合わなかった。

私は立ち上がって、台所で水を飲んだ。

蛇口の水が、ひどく冷たかった。

顔を上げると、窓に自分の顔が映っていた。

泣きはらした顔の、そのうしろ。

茶の間の明かりが、ゆっくり一度だけ揺れた。

電球が古いのだと、私は自分に言い聞かせた。

あの日以降、私は一度もクリアできていない。

5の1からでも、だ。

※

その夜、二つ目のことが起きた。

私は二階の、昔から使っていた六畳の部屋で横になっていた。

障子の向こうで、川が鳴っていた。

また涙が出てきて、布団の中で声を漏らさないようにしていた。

そのときだ。

すぐ耳のそばで、声がした。

「まだ泣いてんの?」

祖母の声だった。

抑揚まで、そのままだった。

同時に、頭を撫でられた。

感触があった。手のひらの、少しかさついた感触。

私は目を開けた。

部屋には、誰もいなかった。

障子は閉まっていた。廊下の板は、人が歩けば必ず鳴る。

鳴っていなかった。

私は起き上がって、しばらく暗い天井を見ていた。

怖いという感じは、ふしぎとなかった。

翌朝、母にその話をした。

母は少し黙ってから、こう言った。

「お葬式の時、あんたが一番泣いとったから」

「うん」

「心配やったんやろね。初孫やし」

母の目も、赤かった。

母の話には、続きがあった。

「あんたが生まれたとき、あの人、三日間家に帰らんかったんよ」

「病院に?」

「うん。ずっと廊下におった」

「なんで」

「初孫やから、って。それだけ」

母は、湯呑みを持ったまま笑った。

「あの人、待つのが好きな人やったんかもね」

待つのが好き、という言い方が、私の胸に長く残った。

祖母は、五十年あの家で誰かを待っていた。

祖父を、父を、そして私を。

待つ場所を持っている人は、たぶん、そう簡単にはそこを離れない。

一度だけ、従兄に電話で聞いたことがある。

「あの日のこと、覚えてる?」

「テトリスな。覚えてるよ」

「私、うまかったやろ」

従兄は、少し黙った。

「あれさ」

「うん」

「お前、途中で一回も瞬きせんかった」

私は、そのことを覚えていない。

「怖かったんやけど、止められへんかった」

従兄はそう言って、それきりその話をしなくなった。

※

最後のことが起きたのは、それから半年後だ。

家を片付けることになって、私は茶の間のゲーム機を引き取った。

自分の部屋につないで、久しぶりに電源を入れた。

タイトル画面の下に、記録の一覧が出る。

上から順に、点数と、登録した三文字の名前が並んでいた。

いちばん上は、祖母の名前だった。

「ミサ」

祖母は、自分の名前をそう入れていた。

問題は、その横だ。

記録が更新された日付が、小さく表示されていた。

三月十九日。

私は、その数字をしばらく見つめていた。

三月十九日、祖母は病室にいた。

酸素の管をつけて、起き上がることもできなかった。

家には誰もいなかった。電気は通っていたが、鍵は閉まっていた。

画面の中の名前は、祖母が病室から一歩も出られなかった三月の日付で、更新されていた。

押入れの奥から、あの大学ノートが出てきた。

病院から持ち帰ったものを、母がそのまま突っ込んでいたらしい。

表紙が反って、角が丸くなっていた。

私は畳に座って、最初のページから順にめくった。

十年ぶんの点数が、几帳面に並んでいた。

字は、途中から少しずつ乱れていく。

最後の年は、行が斜めになっていた。

それでも、日付だけは一日も抜けていなかった。

最後のページに、たどり着いた。

最終行の日付は、三月十九日だった。

点数が書いてあった。

六桁の数字だった。

私は、その数字を三度読み直した。

ゲーム機の記録の一位と、一桁も違わなかった。

点数の横に、震える字でひとこと添えてあった。

「まだ5の1か」

私はノートを閉じて、しばらく動けなかった。

祖母は三月十九日、ゲーム機のない病室にいた。

それなのに、点数を書いていた。

そして家の機械には、同じ点数が同じ日付で残っていた。

※

私は、それを誰にも言っていない。

母にも、従兄にも言っていない。

言えば、きっと確かめようとするからだ。

確かめてしまえば、たぶん何かが終わってしまう。

三つ目の異変を、私はこう理解している。

祖母は、家に帰りたかったのではない。

帰る必要が、そもそもなかったのだ。

あの人はたぶん、ずっと茶の間の隅にいた。

病室にいるあいだも、ノートに書ける程度には。

ゲーム機は、いまも私の部屋の押入れにある。

電池はとっくに切れていて、記録はもう表示されない。

それでも、年に一度だけ電源を入れる。

三月の終わりの、あの日に。

電源を入れる前に、私は必ず手を合わせる。

仏壇はない。押入れの前で、そのまま。

祖母が笑うのが、なんとなく分かる。

「そんなん、せんでええのに」

きっと、そう言う。

画面には、何も出てこない。

ただ、電子音が三回鳴って、暗くなるだけだ。

最後にもうひとつだけ。

祖母の家は、去年とうとう取り壊された。

更地になった土地を、私は一度だけ見に行った。

柿の木も、一緒になくなっていた。

川の音だけが、前と変わらず鳴っていた。

あの音を「川がしゃべっとる」と呼んだ人は、もういない。

それでも、川はしゃべり続けている。

祖母の言葉を、私は最近になってよく思い出す。

終わりの近いところが、いちばん面白い。

あれは、負け惜しみではなかったのだと思う。

祖母は、自分がどのあたりを生きているのかを、たぶん知っていた。

知っていて、なお、あの速さの中にいたのだ。

私はいまだに、5の1で終わってしまう。

けれど、終わるたびに、頭のうしろが少しだけ温かくなる。

かさついた、あの手のひらの温度で。

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