三回転

目をつぶったまま、その場で三回まわる。

たったそれだけのことが、私には長いあいだ、禁忌でした。

子どもの頃、私はそれをすると、知らない場所に立っていたからです。

最初は三歳のときでした。

記憶は断片ですが、足りない部分は、父が何度も語ってくれました。

場所は、県境の山あいにある古い遊園地です。

木製のジェットコースターと、ペンキの剥げた観覧車のある、昭和の匂いの残る場所でした。

父と二人で、コーヒーカップの順番待ちをしていました。

春の連休で、列は長く、三歳の私はすぐに退屈しました。

それで、目をつぶって、その場でくるくる回り始めたのだそうです。

母親の真似だったのかもしれません。

母は若い頃に社交ダンスを習っていて、台所でよくターンをしてみせたからです。

スカートが広がるのが楽しい、ただの遊びでした。

一回。

二回。

三回目を回りきって、目を開けました。

そこは、薄暗くて、青い場所でした。

大きな水槽が壁一面にあって、魚の影がゆっくり横切っていきました。

館内には、私のほかに誰もいませんでした。

ポンプの低い唸りと、水の揺れる音だけがしていました。

大きなウミガメが、ガラスのすぐ向こうで止まって、こちらを見ていました。

今でも水族館へ行くと、あの目を思い出します。

「どうやって来たの」と訊かれているような、あの目を。

園内の端にある、有料の水族館の中でした。

コーヒーカップから水族館までは、歩いて二十分はかかります。

入口では、切符を切られます。

三歳の子が、誰にも見られずに入れる場所ではありません。

私は泣きました。

泣きながら、出口がどちらかもわからず、青い通路を歩きました。

水槽の魚たちだけが、泣いている私と並んで泳ぎました。

床が冷たくて、自分の泣き声が水槽に反響して、それでよけいに泣きました。

係の人に保護されて、園内放送で父が呼ばれました。

保護してくれたのは、もぎりの席にいたおばさんでした。

「どこから入ったの」と、何度も訊かれました。

「くるくるしたら、きた」

三歳の説明では、それが精いっぱいでした。

おばさんは困った顔で笑って、それから、ふっと真顔になりました。

「……入ってくるところ、誰も見てないのよね」

独り言のような声でした。

もぎりの席からは、入口までの一本道が、まっすぐ見通せるのです。

駆けつけた父は、私を抱き上げる前に、なぜか周りを見回したそうです。

「煙草に火をつけようと、ほんの数秒、目を離したんだ」

大人になってから、父は何度もそう言いました。

「数秒だぞ。隣にいたのに、音もしなかった」

父は晩年まで、人混みで私の腕を取る癖が抜けませんでした。

「最初は、後ろの客に連れて行かれたと思った。本気で警察を呼ぶところだった」

「でもな、お前、靴の裏が乾いてたんだ」

その日は朝から小雨で、園内の地面はずっと濡れていました。

コーヒーカップから水族館まで、どこをどう歩いても、靴は濡れたはずでした。

私の白い靴の裏だけが、乾いたままでした。

帰りの車の中で、父は何度もバックミラーで後部座席の私を確かめたそうです。

「ちゃんといるか、何度見ても不安だった」と。

父はその日のうちに、遊園地の年間パスポートを解約しました。

以来、家族であの遊園地に行くことは、二度とありませんでした。

母にはあとで、こっぴどく叱られました。

「目を離したお父さんが悪い」と、夫婦喧嘩にもなりました。

私のせいで、というのが、子ども心に苦しかったのを覚えています。

五歳の夏にも、起きました。

母の実家は、海から五キロほど入った農村にありました。

築八十年を超える、太い梁の通った古い家です。

家には広い土間があって、夏でもひんやりしていました。

柱時計が三十分ごとに鳴り、納屋には使われなくなった農具が眠っていました。

夏休みのあいだ、私はそこに預けられていました。

朝は鶏の声で起きて、昼は縁側でスイカを食べる。

町育ちの私には、何もかもが新しい夏でした。

昼下がり、庭の柿の木の下で、私はあの遊びを思い出しました。

三歳の記憶は、もうほとんど薄れていました。

怖さよりも、好奇心が勝りました。

目をつぶる。

一回、二回、三回。

潮の匂いがしました。

目を開けると、見たことのない入り江に立っていました。

灰色の砂浜に、漁網と浮き球が転がっていました。

波の音と、どこかの船のエンジンの音。

不思議と、怖くはありませんでした。

波は穏やかで、入り江は傾きはじめた光で満ちていました。

ただ、ひとつだけ、今思えばおかしなことがあります。

あれだけ網や浮き球があるのに、人がひとりもいなかったのです。

船のエンジンの音は、ずっと聞こえているのに。

音のする方角を見ても、海の上には何もありませんでした。

祖父母の家の庭から、海までは五キロあります。

五歳の足で、歩ける距離ではありません。

だいいち、私は一歩も歩いていないのです。

今度は、泣きませんでした。

代わりに、しゃがんで、足元の砂をひと握り、ポケットに入れました。

なぜそうしたのか、自分でもわかりません。

ここに来た証拠が欲しかったのだと思います。

日が傾いた頃、堤防の上から男の人が私を見つけて、大声を上げました。

「嬢ちゃん、どっから来た」

「くるくるって、まわってきたの」

男の人は、笑いませんでした。

あとで知ったのですが、あの入り江は地元の子でも滅多に近づかない場所だったそうです。

理由を訊いても、大人は誰も教えてくれませんでした。

ポケットの砂は、家に着くまで握りしめていました。

手のひらに貝殻のかけらが食い込んで、痛かった。

その痛みだけが、あれが夢ではない証拠でした。

夕方、漁協の人に保護されて、軽トラックで家まで送ってもらいました。

荷台から見た夕焼けが、不自然なほど赤かったのを覚えています。

運転席の男の人は、家に着くまで一度も、こちらを振り返りませんでした。

家の前で、祖母が立って待っていました。

母よりも、誰よりも、青い顔をしていました。

「どこにいたの」

「うみ。くるくるって回ったら、ついたの」

祖母の手から、持っていた団扇が落ちました。

祖母は私の両肩を掴んで、しゃがみ込みました。

「回ったの。何回」

「……さんかい」

「目は。目はつぶってた?」

祖母があんなに強い力で私を掴んだのは、後にも先にも、あのときだけです。

その夜、祖母が仏間で長いこと手を合わせていたのを、襖の隙間から見ました。

仏間の鴨居には、私の知らない古い写真が並んでいました。

そのうちの一枚に、祖母は長いこと向かい合っていました。

白黒の、おかっぱの女の子の写真でした。

線香の匂いが、いつもより濃かったのを覚えています。

三度目は、中学二年の秋でした。

体育館での、マット運動の授業です。

マット運動は、もともと得意でした。

その日は連続前転のテストで、私の番は最後でした。

前転を三回続けて、立ち上がった瞬間、視界が暗転しました。

気がつくと、私は教室の自分の席に座っていました。

四時間目の、誰もいない教室です。

机の上には、開いたままの体育の出席簿がありました。

思い返せば、あの教室も少しおかしかったのです。

四時間目の校庭から、誰の声も聞こえませんでした。

窓から差す光は、昼にしては赤すぎました。

あれは、夕方の色でした。

私は体操着のまま、自分の席で、自分の手のひらを見ていました。

廊下を、上履きの音が走ってきました。

探しに来た友人が、教室の入口で立ち止まりました。

「……いた。なんでいるの」

「わかんない。気がついたら、ここにいた」

「先生が呼んでる。マットの上から、急に消えたって大騒ぎ」

体育館から教室まで、渡り廊下を含めて三分はかかります。

友人が言うには、私が消えてから見つかるまで、三十秒もなかったそうです。

でも、おかしいのです。

私の体感では、教室で座っていた時間だけで、五分はありました。

三十秒の中に、五分が入っていました。

時間の帳尻が、どこかで合っていないのです。

あの差額の四分半を、私はどこかへ置いてきたのか。

それとも、どこかから借りてきたのか。

あの五分間、私はどこの教室にいたのでしょう。

窓の外の景色を、確かめておけばよかったと、今でも思います。

騒ぎは、先生の手で「途中で抜けて教室に戻った」ことにされました。

大人は、説明のつく話のほうを選ぶのです。

三歳の遊園地のときと、同じでした。

友人だけは、今でも同窓会のたびにあの話をします。

「マットの上で、ほんとに、ふっと消えたんだよ」

酔うと必ず、同じ身振りで。

笑い話の口調なのに、彼女の目は笑っていません。

その年の冬、祖母の家で、私は思い切って訊きました。

訊こうと決めたのは、あの仏間の写真を、ふいに思い出したからです。

炬燵で二人きりになった夜です。

「おばあちゃん。私、回ると、変なところに行くの」

祖母は、蜜柑を剥く手を止めました。

止めたまま、長いこと黙っていました。

やがて、炬燵の上の蜜柑を見つめたまま、ぽつりと言いました。

「やっぱり、あんたに出たか」

祖母の話は、こうでした。

祖母には、トキエさんという三つ下の妹がいました。

私から見れば、大叔母にあたる人です。

仏間のあの白黒写真の、おかっぱの女の子でした。

トキエさんは子どもの頃から「回る子」だったそうです。

目をつぶってくるくる回って、気がつくと、隣村の鎮守の森や、誰もいない蔵の中に立っている。

「神隠しだ」と騒ぐ人もいれば、「狐つきだ」と眉をひそめる人もいました。

「うちはね、何代かにひとり、出るの」

「曾々祖母さんの妹も、そうだったと聞いてる」

「みんな女で、みんな、回る子」

祖母は、蜜柑の白い筋を、いつまでも剥き続けていました。

炬燵の天板に、蜜柑の皮の匂いが満ちていました。

家では、トキエさんが回ることを固く禁じました。

それでも、十七の年の夏祭りの晩。

浴衣のトキエさんは、櫓の灯りの輪の外で、くるくると回っていたそうです。

「楽しかったんだろうね。お囃子に合わせて、ただ、楽しくて」

それきり、トキエさんは戻りませんでした。

山も川もさらいましたが、下駄の片方さえ見つかりませんでした。

祭りの夜の話をするとき、祖母は一度だけ声を詰まらせました。

「あの晩、私が手を引いて帰ればよかった」

「六十年経っても、お囃子の音を聞くと、足が竦むの」

トキエさんの名前は、戸籍の上では今も生きているそうです。

死亡届を出すことを、曾祖父母が最後まで拒んだからです。

「帰ってきたとき、家がないと困るから」

「回るのはやめなさい」

祖母は、私の目をまっすぐ見て言いました。

「行った先から戻れるかどうかはね、こっちが決めることじゃないの」

「戻る場所は、向こうが決めるんだから」

それから祖母は、少しだけ間を置いて続けました。

「あんたが五歳の夏、海から帰ってきた日ね」

「ばあちゃん、本当は、もう会えないと思ってたの」

「トキエのときと、おんなじ色の夕方だったから」

炬燵の中なのに、足の先が冷たくなりました。

私はそれ以来、一度も回っていません。

盆踊りの輪にも、入ったことがありません。

遊園地のコーヒーカップにも、メリーゴーラウンドにも、乗れません。

回るものすべてが、私には少しだけ、扉に見えるのです。

あれから、ずいぶん経ちました。

白状すると、大人になってから、二度だけ試したことがあります。

一度目は、大学の卒業旅行の夜、酔った勢いで。

二度目は、祖母の葬儀から帰った晩、どうしても確かめたくて。

葬儀の晩に回ったのは、半分は祈りでした。

もし扉がまだ開くなら、トキエさんを探せるのではないか。

祖母に、妹の居場所を土産にできるのではないか。

そんな、子どもみたいな考えでした。

どちらも、何も起きませんでした。

目を開けると、ただ目が回って、同じ部屋の同じ床に立っているだけでした。

畳の上にへたり込んで、ひとりで少し泣きました。

「扉」は、もう閉じたのだと思います。

閉じたのなら、それでいい。

ただ、扉というものは、開くから閉じるのだ、とも思うのです。

では、誰が閉めたのか。

どちら側から。

それとも、子どもにしか開かないのか。

トキエさんのように「向こう」に気に入られるほどには、私は回らなかったのか。

今となっては、確かめようがありません。

ただ、ひとつだけ、手元に残っているものがあります。

五歳の夏、あの入り江でポケットに入れた、ひと握りの砂です。

母が小さなジャム瓶に移して、取っておいてくれました。

瓶は今、私の部屋の本棚にあります。

淡い灰色の、なんの変哲もない砂です。

ただ、地図でいくら調べても、あんな入り江は、祖母の村の海岸線のどこにも見当たらないのですが。

数年前、ふと気づいたことがあります。

砂が、減っているのです。

初めは、気のせいだと思いました。

瓶の横に油性ペンで印をつけて、写真も撮りました。

砂の線は、一年に数ミリずつ、確かに下がっています。

瓶の蓋は、固く閉まったままです。

誰も触っていません。

それでも、昔は瓶の三分目まであった砂が、今は底に薄く残るだけになりました。

少しずつ、少しずつ、どこかへ帰っているみたいに。

砂が全部なくなったとき、何が起きるのか。

何も起きないのか。

わかりません。

わからないまま、私は瓶を捨てられずにいます。

娘が生まれたとき、真っ先に考えたのは、この瓶のことでした。

娘には、あの遊びを教えていません。

それでも時々、目をつぶって回りたがるのです。

子どもとは、そういうものだから。

そのたびに私は、祖母と同じ強さで、娘の肩を掴んでしまいます。

あの日の出来事を、なかったことにする勇気がないからです。

今はもう、三回まわっても、何も起きません。

ただ、私はあのとき、確かに瞬間移動したのです。

あの青い水槽の前と、灰色の入り江と、誰もいない四時間目の教室に。

三回まわった、その先に。

そして、トキエさんは今も、帰っていません。

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