杖を持ったおじいさん
公開日: 心霊ちょっと良い話
2年前の出来事。
その日、京浜東北線に乗っていた私は、大声を上げながら周りを威嚇するおっさんに出会した。
多分、かなり酒を飲んでいたのであろう。
パチンコで負けただの、誰々が気に入らないだの言いながら、三人分くらいの席を占領して座っていた。
まあ、夕方の京浜東北線では偶にある事だ。
周りの乗客も多少好奇の目を向けていたが、特に何する事もなくケータイを弄ったり読書をしたりしていた。
その時の私は生後1才3ヶ月の息子を抱っこして座っていたのだが、息子がおっさんの大声にびっくりしたのか、声を上げて泣き出してしまった。
「よしよし、大丈夫だよー」
あやしながら機嫌を直そうとするのだが、おっさんが構わず喚き続けるので、息子も一向に泣き止まなかった。
するとおっさんはこちらに目を向け、
「うるせーガキだなあーーー!」
と怒鳴ってきたではないか。
まずい、絡まれる!私は必死であやしたが、息子はますます激しく泣き続けていた。
それに立腹したのか、おっさんはゆっくりと席を立ち、こちらに向かって来ようとしていた。
本当にまずい、誰か止めてくれませんか!声は出さずに周りを見ましたが、誰も止めてくれる気配はなかった。
一歩、また一歩と近付くおっさん。
「このガキィ、おめぇ、るせーんだよぉ!」
一段と声を張り上げ、私まですぐそこという所まで来た。
『うぁぁ…』
私は息子をギュッと抱き締め、体をすくめた瞬間…。
「ドタッ!」
おっさんは目の前でつんのめって倒れていた。
あれっと思いふと見ると、横のドア付近に居たおじいさんが、杖でおっさんの足先を払ったらしい。
おじいさんは杖をトントンと1、2度床に突き、何事もなかったようにこちらに背を向けた。
しかしもちろん、これで災いが去った訳ではない。
床に平伏したおっさんは、わなわなと震えながら拳を握り、怒りを爆発させようとしていた。
『まずい!おじいさん逃げて!』
私のそんな思いにも関わらず、おじいさんはその場から離れようとはしなかった。
「じ、じ、じ、ジジィィィィィィーーー!」
完全に激高したおっさんは、立ち上がるやいなや右の拳を振り上げ、思い切りおじいさんに向けて振り下ろした!
『あーーー!』
私は声も出ず見つめるだけ。もうだめだぁ!
フッ…。
おじいさんは消えてしまった…。
「ゴンッ!ドゥイーーーーーーーーン!」
「ぐあああああああああああ!!!!」
力の限り振り下ろした拳は目標を見失い、ドアの戸袋部分の角に命中した。
酒が入っていても、あれだけ叫んでもがくとは相当痛いのであろう。
おっさんは今度こそ完全にうずくまり、右手を押さえて唸っていた。
「プシュー」
ようやく次の駅に着いた。
駅に着いても警官や駅員は来なかったが、相変わらずおっさんはうずくまっていたので、私はそっと駅に降り、ようやく難を逃れる事ができた。
※
あのおじいさん…。
私には初孫を楽しみに待っていた父がいた。
3年も闘病し、結局息子の誕生半年前に逝ってしまったが、闘病初期には体力を維持したいからと言って、杖を買ってよく散歩をしていた。
あの時見た杖が父の物のように思えた。
泣き止んだ息子が、電車に向かってバイバイをしていた。