
久しぶりに実家へ帰った。
玄関を開けた瞬間、母の記憶が蘇る。
認知症を患っていた母は、いつも父を困らせていた。
食事を忘れたり、夜中に起き出しては家中をうろついたり。
それでも、父は文句ひとつ言わず、母につきっきりで世話をしていた。
※
母が亡くなって数年が経つ。
今日、私はふとしたきっかけで、彼女の書斎に足を踏み入れた。
懐かしい香りと、そこかしこに残る母の気配。
書棚には、私が学生時代に贈ったカレンダーが飾ってあったはずだった。
しかし、見当たらない。
不思議に思って机の引き出しを開けると、バラバラに切られたカレンダーの断片が整然と並べられていた。
日付部分だけが、まるで何かを伝えるように、丁寧に並んでいる。
※
「どうして……?」
私は思わず呟いた。
母はどんなに認知が進んでも、私からの贈り物を大切にしてくれていた。
その母が、わざわざカレンダーを切り刻むなんて——ショックだった。
だが同時に、これは単なる破棄ではないようにも思えた。
残された日付を、私は一つずつ整理してみた。
4/4、4/4、4/10、6/11、3/1、6/12、5/6、7/2、6/7、6/17、4/10、4/14、5/16。
※
その中に、1枚だけ上下逆さまに置かれた「6/17」の断片があった。
私は何気なく向きを直し、他の日付と同じように揃えた。
その時、階下から父の声がした。
「晩ごはん、できたぞ」
五年ぶりに食べる父の手料理。
感傷を胸にしまい込み、私はそっと書斎の扉を閉じた。
※
——後になって知ることになる。
あの数字列は、周期表に基づいた“元素記号の暗号”だった。
たとえば「4/4」は4周期4族、つまりチタン(Ti)。
それをすべて置き換えると、こうなる。
Ti Ti Ni Au Na Hg Mo Ra Re At Ni Ge Te
問題は、あの逆さに置かれていた「6/17」——これは「At(アスタチン)」の逆で、「Ta(タンタル)」。
読み方をローマ字風にすると……
ちちにあうな Hg(すいぎん) もられた にげて
——「父に会うな。水銀を盛られた。逃げて」
※
あの日の夕食は、少し苦みのあるスープだった。
父は笑顔だった。
私は、なぜあの暗号にもっと早く気づけなかったのだろう。
——今もその苦みだけが、舌に残っている。