末代までの呪いは夕食の後に来た

末代までの呪詛

これは、私自身の実体験です。

と言っても、正確には、まだ終わっていない話なのですが。

とにかく、聞いてください。

末代までの呪い、という言葉を、私は住職の口から初めて聞きました。

聞いたのは、夕食の翌日の朝です。

その夕食の席で、何が始まったのかを、順番に書きます。

私は現在二十三歳、介護士として働いており、実家暮らしです。

家族構成は、父が五十二歳、母が四十四歳、弟が十八歳の四人。

家は、県道から一本入った、古い二階建てです。

曾祖父が建てた家だと聞いています。

家の裏には、川があります。

川の向こうは、今は、何もない空き地です。

子どものころ、そこで遊ぶと、祖父に叱られました。

「あっちへは、行くな」

理由は、聞いても教えてくれませんでした。

祖父は、よく言っていました。

「この家は、出る家やない」

私は、それを、家族仲のいい家という意味だと思っていました。

祖父は、一度も、この家を出ずに、生涯を終えました。

父も、就職も結婚も、この家からしました。

私も、職場は、家から車で十分の施設です。

家を出ることを、考えたことがありませんでした。

考えなかったのではなく、考えられなかったのだと、今は思います。

弟だけが、違いました。

高校のころから、「俺は出る」と言っていました。

就職先を、わざわざ遠い町に選んだのも、そのためです。

母は、少し寂しそうに、父は、何も言わずに、それを聞いていました。

祖父が生きていたら、何と言ったでしょうか。

弟は、この春から社会人になり、一人暮らしを始める予定でした。

勤め先は、家から電車で二時間ほどの町にあります。

弟は、その町に、もう部屋を決めていました。

二月の終わりに、不動産屋から、契約書が届いていました。

弟は、それを、自分の机の引き出しに入れていました。

鍵のかかる引き出しです。

その日、私たち家族はいつも通り夕食を終え、リビングでくつろいでいました。

テレビでは、骨董品を鑑定する番組が流れていました。

話題は、弟の引っ越しについてでした。

「部屋はどこにしようか」

「もう決めたんでしょ」

「必要な家具は」

弟は自室で就職の準備をしていました。

両親と私の三人で、テレビを見ながら、何気ない会話をしていました。

母は、弟の部屋の間取り図を、冷蔵庫に貼っていました。

父は、その図を、夕食のたびに眺めていました。

「六畳か」

「六畳でも、一人なら十分よ」

「そうか」

父は、そう言って、お茶を飲みました。

その湯呑みが、テーブルに置かれる音を、私は今も覚えています。

いつもより、少しだけ、強く置かれた音でした。

石油ストーブが、部屋の隅で、小さく鳴っていました。

壁の時計は、八時十分を指していました。

後で気づいたことですが、時計は、その時刻で止まっていました。

翌朝、住職と戻ったときも、八時十分でした。

電池は、切れていませんでした。

今、時計は、新しいものに替えてあります。

古い時計は、蔵に入れました。

父が、入れると言って聞かなかったのです。

テレビの砂嵐

その時です。

ザザ、ザザザザ。

突如、テレビ画面にノイズが走りました。

一瞬の出来事で、すぐに元に戻りました。

私は気にも留めず、会話を続けました。

「……んでさあ」

そう言いながら、何気なく両親の方へ視線を移したとき。

私は、動けなくなりました。

父も母も、目を大きく見開き、口を半開きにしたまま、テレビを凝視していたのです。

明らかに、異常な表情でした。

「え、何、どうしたの」

驚いて声をかけた私に、二人は何も返事をしません。

代わりに、ゆっくりと、目だけが、私の方を向きました。

顔は、テレビを向いたままでした。

目だけが、こちらを見ていました。

「え……」

次の瞬間、まるで何事もなかったかのように、両親は会話を再開しました。

「うん、でもさ、弟、自炊とかできるの」

「大丈夫じゃないか。なあ」

「ちょっと待って。今の何」

パニックになる私に、両親は何も知らないような顔をして、首をかしげました。

「今のって」

「何が」

その反応を見て、私は確信しました。

これは、演技ではない。

両親は、本当に、さっきのことを覚えていないのです。

「いや、なんでもない」

私はそう言って、目を伏せました。

伏せた視線の先に、冷蔵庫の間取り図がありました。

図の上に、何かが、垂れていました。

水でした。

冷蔵庫の表面に、結露のような水が、一筋、流れていました。

二月の、暖房の効いた部屋で。

水は、間取り図の、玄関の位置で止まっていました。

紙が、そこだけ、濡れて透けていました。

母の手が、テーブルの上で、ゆっくりと開いたり閉じたりしていました。

何かを、掴もうとする手でした。

掴むものは、テーブルの上に、何もありませんでした。

すると母が、ふいに、こう言ったのです。

「ところで、あなたは、いつ終わりにするの」

「は」

耳を疑いました。

父も続けて言いました。

「そうだな、その話もした方がいいな。いつにするんだ」

「え」

何が起きているのか、理解が追いつきません。

「いや、あの、え」

私が言葉を失っている間にも、二人は淡々と続けます。

「こっちも今まで待ってたんだ。そろそろいいだろ」

「手伝うからね。大丈夫だから。ね」

二人は、微笑んでいました。

時折、意味の分からない笑い声も混ざっていました。

終わりにする、という言葉の意味を、私は考えないようにしました。

考えれば、足が動かなくなると思ったからです。

左右が逆を向いた目

「やめろよ。さっきから何なんだよ」

思わず大声で怒鳴った、そのときでした。

二人は、こちらを見たまま、動きを止めました。

両目の、左右が、逆を向いていました。

右目は右の端へ、左目は左の端へ。

顔だけが、まっすぐ、私を見据えていました。

「おわれ、おわれ、おわれ、おわれ」

「おわれ、おわれ、おわれ、おわれ」

壊れた人形のように、感情のない声で、二人は繰り返しました。

声は、揃っていました。

一人の声のように、揃っていました。

私は声を上げ、弟の部屋へ逃げ込みました。

「うわ、兄貴、何してんの」

弟は、机に向かって、書類を整理していたようでした。

契約書が、机の上に広げてありました。

私は、懸命に訴えました。

「父さんと母さんが、目が、おわれって、テレビがノイズで」

弟は、困惑した様子で、首を傾げました。

「ごめん、何言ってんのかマジでわかんない」

自分でも、何を言っているのか分からなくなっていました。

「とにかく、父さんと母さんが変なんだ」

その時です。

弟の口が、半開きになりました。

目が、徐々に、見開かれていきました。

「あ、あぁ」

弟の目も、左右が、逆に動いていきました。

弟の手が、机の上の契約書を、ゆっくりと裏返しました。

白い裏面が、上になりました。

逃げなければ、と私は玄関へ走り出しました。

玄関の扉を開ける直前、視界の端にリビングが映りました。

両親が、無表情で、立っていました。

目は、歪んだまま、こちらをじっと見ていました。

二人の足元の床が、濡れていました。

私は全速力で、人のいる場所へ走りました。

県道まで、二百メートル。

その二百メートルが、どれほど長かったか。

後ろは、振り返りませんでした。

県道のコンビニに駆け込んで、私は、店員の顔を見ました。

普通の顔でした。

目が、まっすぐ、前を向いていました。

それだけのことで、涙が出ました。

先輩の車が来るまで、私は、雑誌の棚の前に立っていました。

店の窓に、うちの方角の暗さが映っていました。

先輩は、車に乗るなり、言いました。

「お前んち、前を通るたびに思ってたんだ」

「何を」

「窓が全部、道のほうを見てる」

家の窓が、見ている。

私は、その言い方を、笑えませんでした。

車の窓から、家のある方角を見ました。

暗い中に、二階の窓だけが、明るく見えました。

弟の部屋の窓です。

弟は、まだ、机に向かっているのだと、そのときは思いました。

その後、職場の先輩に電話し、事情を話して助けを求めました。

先輩は霊感があり、こうした話に真剣に耳を傾けてくれる人でした。

「よし、明日、知り合いの寺に行こう。今日はうちで休め。お前、顔がひどいぞ」

先輩の言葉に救われ、私はその晩、先輩の家で一夜を過ごしました。

一睡もできなかったのは、言うまでもありません。

夜中、先輩の家の電話が、一度だけ鳴りました。

先輩は、出ませんでした。

「家の番号だ」

先輩は、着信の画面を見て、そう言いました。

うちの家の、固定電話の番号でした。

誰が、かけたのか。

私は、考えないようにしました。

みちかさんと生霊の家という話を、後に読みました。

家そのものが、人を呼ぶ話でした。

あの夜の着信も、そういうものだったのだと思います。

住職の長い沈黙

翌朝。

私は先輩と一緒に、車で三十分ほどの距離にある寺を訪れました。

住職は、六十代の、小柄な人でした。

昨夜の出来事を話すと、住職はしばらく沈黙しました。

長い沈黙でした。

それから、こう言いました。

「大変でしたね。ですが、まだ終わっていませんよ」

住職の目は、真剣そのものでした。

「お家は、古いですか」

「曾祖父が建てたと聞いています」

「ご家族で、家を出た方は」

私は、考えました。

父は、長男で、家を継ぎました。

父の兄弟は、いません。

祖父も、一人息子でした。

曾祖父も。

「いません」

「そうでしょうね」

住職は、立ち上がりました。

車の中で、住職は、私に祖父のことを尋ねました。

「おじいさんは、何か、言い残されましたか」

「この家は、出る家やない、と」

住職は、しばらく、窓の外を見ていました。

「おじいさんは、ご存知だったのかもしれませんね」

何を、とは、言いませんでした。

そのまま私と先輩、住職の三人で、実家へと戻ることになりました。

家の前に着いたとき、玄関の扉は、開いていました。

昨夜、私が開けたままでした。

家の中は、静かでした。

裏の蔵の扉が、開いていました。

蔵の鍵は、父しか持っていません。

中は、暗くて、見えませんでした。

住職は、蔵のほうを一度見て、先に家に入りました。

玄関の床が、濡れていました。

足跡は、ありませんでした。

テレビは、消えていました。

父は、廊下にいました。

廊下を、端から端まで、歩いていました。

行って、戻って、また行く。

小さな声で、数えていました。

「あと二往復。あと二往復したら」

何が、二往復の後にあるのか、父は言いませんでした。

私が呼んでも、父は、足を止めませんでした。

母は、風呂場にいました。

浴槽に、水が張ってありました。

蛇口は、開いたままでした。

母は、浴槽の縁に腰かけて、水面を見ていました。

「手前。手前で、止める。手前」

笑いながら、同じ言葉を繰り返していました。

何の手前なのか、母も言いませんでした。

弟は、机に向かって、何かを書いていました。

紙が、机から床まで、散らばっていました。

全部の紙に、同じことが書いてありました。

住所でした。

弟が書いていたのは、新しい住所ではなく、この家の住所だった。

何十枚も、何百枚も。

一字も、間違えずに。

先輩が、紙を数えました。

三百枚を超えたところで、数えるのをやめました。

一番上の紙は、まだ、乾いていませんでした。

弟の手は、動き続けていました。

私は、弟の名前を呼びました。

弟は、顔を上げずに言いました。

「兄貴、ここの住所、何だっけ」

書きながら、聞くのです。

三百枚、書いた住所を。

契約書は、裏返しのまま、紙の山の一番下にありました。

住職が、弟の肩に手を置きました。

弟の手が、止まりました。

私は、その場に、座り込みました。

その後、住職と応援に駆けつけた僧侶たちのおかげで、家族は何とか元に戻りました。

今は、皆、元の生活に戻っています。

ただ、父は今も、廊下を歩くとき、無意識に数を数えます。

母は、風呂の水を、満杯にしません。

弟は、自分の住所を、書けなくなりました。

書こうとすると、手が止まるのだそうです。

末代までの呪いの理由

事件の後、住職に原因を尋ねました。

その答えは、あまりにも重いものでした。

「これは、ご先祖にかけられた呪いです」

「末代まで呪ってやる、という言葉が、現実になってしまったのです」

曾祖父は、この家を建てるとき、川向こうの家を一軒、立ち退かせたのだそうです。

その家の最後の一人が、去り際に言ったのだと。

「この家から、誰も出られんようにしてやる」

その人の名前は、誰も知りません。

曾祖父の日記にも、「川向こうの者」としか書かれていないそうです。

名前を、書かなかったのか、書けなかったのか。

住職は、「どちらでも同じです」と言いました。

名前のない者の言葉は、消えないのだそうです。

誰のものでもないから、誰にも返せない。

末代までの呪いは、一族を簡単に終わらせるものではありません。

家族が、家を出ようとした瞬間を狙う。

出ようとした者ではなく、その周りを、ゆっくりと壊していく。

時間をかけ、壊していくことが目的なのだと。

「弟さんが、初めてだったんですよ」

「初めて」

「この家から、出ようとした人が」

私は、父の兄弟がいないこと、祖父も曾祖父も一人息子だったことを、思いました。

誰も、出なかったのではなく、出られなかったのかもしれません。

そして、もうひとつ。

「ただ、君には手が出せなかった」

「君の前世が、高僧だったらしい」

「だから、奴らはまず、君の周囲から壊し始めたんだ」

住職は、そこで、私の目を見ました。

「君が家にいる限り、ご家族は、守られる」

「でも、君も、出られない」

守り手とコルクボードの写真という話を読んだとき、この言葉を思い出しました。

守る者が、一番、動けなくなる話でした。

末代までの呪いは、今も完全には解けていません。

父、母、弟は、それぞれ、強力な護符を肌身離さず持ち続けています。

弟は、内定を辞退しました。

あの部屋の契約書は、住職が預かっています。

冷蔵庫の間取り図は、まだ貼ってあります。

誰も、剥がさないのです。

この呪いがいつ終わるのか。

あるいは、終わる日は来るのか。

私は今も、わかりません。

わかっているのは、一つだけです。

この家の住所を、私は、もう書きたくないということです。

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