
数年前、ふと一つの村のことを思い出した。
一人旅をしたときに立ち寄った、小さな旅館のある山あいの村だ。
豪華さはないが、女将さんの笑顔や素朴な料理など、心のこもったもてなしが印象的で、静かな良い場所だった。
特別な理由があったわけではないが、ある日、急にそこへ行きたくてたまらなくなった。
ちょうど連休があったので、久しぶりに一人で車を走らせてみることにした。
自分では記憶力に自信があったし、道順も頭の中でははっきりしていた。
高速を降りてから県道に入り、山道をくねくねと進んでいくと、やがて例の村へ向かう分かれ道が近くなる。
あのあたりに、村の名前を書いた案内看板が立っていたはずだ。
ところが、見えてきた看板を目にした瞬間、「あれ?」と思った。
以前は「この先 ○○村 ○km」といった内容だったはずの看板が、そこには奇妙な文字で「巨頭オ」とだけ書かれていた。
ペンキで塗りつぶしたような跡の上から、乱暴に書きなぐったような字だった。
悪ふざけにしては気味が悪く、胸の奥にざわりとした不安が広がった。
それでも、ここまで来て引き返すのも惜しくて、迷いながらも村へ向かう道に車を進めることにした。
※
しばらく走ると、見覚えのあるはずの景色が、どこか違って見えた。
以前は田んぼが広がっていた場所には草が伸び放題になり、家々の屋根もところどころ崩れている。
村の入り口に差し掛かった頃には、人の気配がまったくしなくなっていた。
車をゆっくりと進め、かつて泊まった旅館のあたりまで来たとき、はっきりと分かった。
村は、完全に廃村になっていた。
家々の窓ガラスは割れ、壁にはツタや草がびっしりと巻きつき、道路には落ち葉と土が積もっている。
つい数年前までは、朝になると炊事の煙が上がっていたはずの場所だ。
「いつの間に、こんなことに……」
ショックと同時に、言葉にできない居心地の悪さを感じた。
車を道路脇に停めて降りてみようかと、シートベルトに手をかけた、そのときだった。
※
視界の端で、何かが動いた。
二十メートルほど先の草むらから、ゆっくりとこちらへ出てくる人影があった。
最初はうつむいていてよく分からなかったのだが、見ているうちに背筋が冷たくなった。
頭が、異常に大きい。
体に対して不自然なほど巨大な頭が、ゆらゆらと揺れている。
「人間……なのか?」
そう思った次の瞬間、同じような「頭の大きな影」が、周囲の家々の影からもぞもぞと現れ始めた。
気づけば、車の周りを取り囲むように、何体ものそれが立っていた。
彼らは両手を太ももにぴったりとくっつけたまま、腕を振らずに歩いている。
大きな頭だけを左右に大きく振りながら、ぎこちない足取りで、しかし確実にこちらへ近づいてきた。
その異様な動きが、ぞわりと肌を逆なでるように気持ち悪かった。
呆然としながらも、「車から降りないで本当によかった」と、心のどこかで思った。
※
次の瞬間、全身を突き上げるような恐怖が込み上げ、反射的にエンジンを吹かした。
ギアをバックに入れ、ほとんどパニック状態のまま、来た道を猛スピードで引き返した。
バックミラーの中で、巨頭たちが小さくなっていくのが見えた気がしたが、振り返る余裕はなかった。
カーブの多い山道を、タイヤを鳴らしながら国道まで一気に飛ばした。
心臓は激しく脈打ち、ハンドルを握る手が震えていた。
ようやく人通りのある国道に出たとき、背中にじっとりと汗をかいていることに気づいた。
※
家に戻ってから、落ち着いたところで地図を広げてみた。
数年前に行った村と、今日向かった村とが、本当に同じ場所なのかを確かめたかった。
道路の分岐も、川の位置も、周囲の地形も、記憶と照らし合わせながら何度も確認した。
何度見直しても、間違いなく同じ村だった。
かつて、温かいおもてなしを受けた、小さな旅館のある村。
あの「巨頭オ」と書かれた看板の先で見たものが、何だったのかは分からない。
廃村になった理由も、村人たちがどこへ行ったのかも、地図からは読み取れない。
ただひとつ、はっきりしていることがある。
もう一度、あの村へ行ってみようという気持ちには、二度とならないということだ。