異界の名を呼ばれた日 ― きょうこさん

きょうこさん

「これまで、いろんな霊体験をしてきたって言ってたけど、命の危険を感じるような、洒落にならないくらい怖い体験って、ある?」

ある日、ふとした会話の流れで、以前付き合っていた“霊感の強い女性”にそう尋ねたことがある。

彼女は少し黙ってから、静かに、しかし深刻な面持ちで語り出した。

「……あれは、19年前のこと」

当時、彼女は家電量販店で働いていた。

ある日、注文されたテレビの配達業務で、K県内のある町へ向かうことになった。

その町には彼女の叔母が住んでおり、配達先を尋ねがてら、叔母の家に立ち寄った。

偶然にも目的地はすぐ近くだったため、手早く配達を終えた。

帰り道、彼女は時間短縮のため、Nダム沿いの裏道を通ってK市へ戻ることにした。

その日は曇天で、時折、霧のようなものが視界を遮っていた。

走るにつれ、舗装された道路はいつの間にか細い山道に変わり、木々に囲まれた不気味な雰囲気が漂い始めた。

道に迷い始めた頃、道端で農作業をしている年配の女性を見つけた。

「K市へ行きたいんですが、この道で合ってますか?」

そう尋ねると、お婆さんは道の奥を指し、「この先に民家があるから、そこで聞いていくといいよ」と言った。

彼女はその言葉に従い、車をさらに進めていった。

すると、木々の間からポツンと一軒家が姿を現した。

玄関に車を停めようとしたその瞬間、まるで待ち構えていたように、あのお婆さんが再び姿を現した。

「まぁまぁ、せっかくだから、お茶でも飲んでいきなさい」

彼女は断ろうとしたが、どこか誘われるような不思議な感覚に抗えず、つい足を踏み入れてしまった。

家の中は、どこか古くて重たい空気が漂っていた。

居間には、背筋の伸びた白髪の老人が静かに座っていた。

その男は彼女の顔を見るなり、まるで旧知の人に会ったかのように、こう言った。

「……きょうこさん、よく戻ってきたねぇ」

彼女は困惑した。

「きょうこ」などという名前で呼ばれたことは一度もない。

そのとき、なぜか納屋の方から微かな気配を感じた。

そして、いつの間にか縁側に座らされていた彼女の意識は、ふっと途切れた。

目を覚ますと、彼女は仏間に寝かされていた。

視界の端に、小さな影があった。

――幼い女の子が、彼女の腕を握っていたのだ。

その子は何も言わず、突然お爺さんに向かって駆け寄り、鋭い牙で腕に噛みついた。

お爺さんは無言で受け止めていたが、目はどこか虚ろで、生きているようには見えなかった。

彼女は恐怖のあまり逃げようとしたが、体が動かない。

見ると、畳の隙間から無数の手が伸びてきて、彼女の身体をがんじがらめにしていた。

「助けて……!」

叫ぼうとしても声が出ない。

意識が遠のきかけたそのとき――

お爺さんの姿が、まるで崩れるように“異形”に変わっていった。

口が裂け、瞳は黒く染まり、そして……彼女の耳元でこう囁いた。

「“きょうこ”は……倉にいる。あんたは“妹”だ」

次に目を覚ましたとき、彼女は外に立っていた。

空はどんよりと曇り、足元はぬかるんでいた。

背後から足音が近づく。

振り返ると、あのお婆さんが無表情で立っていた。

「行っちゃ駄目だよ、きょうこさん……帰ってくるべき人は、あなたじゃない」

恐怖のあまり、彼女は車に飛び乗った。

キーを回す。エンジンがかからない。

何度も何度も試すうちに、ようやくエンジンが唸りをあげ、車は走り出した。

バックミラーには、お婆さんが何かを叫びながら、追ってくる姿が映っていた。

ようやく自宅にたどり着いた彼女は、安堵の中で異変に気づいた。

――財布の中から、免許証が消えていた。

翌日、警察署に問い合わせると、拾得物として届いているという。

彼女は引き取りに行き、免許証を手にした瞬間、全身が凍りついた。

写真が……自分ではなかったのだ。

見たこともない女性――しかし、どこかで見覚えのある気がした。

署員がふと漏らした。

「この名前、ダム近くで事故に遭った方と同じですね。“きょうこ”さん……2年前に亡くなってます」

彼女が経験したのは、単なる霊体験ではなかった。

現実と異界の境目が滲み、境界を越えて“名前”を呼ばれたことで、彼女の存在がすり替わりかけたのかもしれない。

日常のすぐ隣に、そういう“もうひとつの世界”が潜んでいる。

そんな恐ろしい真実を、彼女の話は静かに教えてくれた。

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