
私が住んでいるのは、築四十年を超える古い団地だ。
五階建ての四階に住んでいる。エレベーターはない。非常階段は建物の端についていて、普段は誰も使わないような場所だ。外廊下から繋がっていて、金属製の手すりがさびかけている。夜になると外灯が一つしかついていないので、正直あまり使いたくない。
この団地に越してきたのは、二十二歳のときだ。家賃が安いこととバス停が近いこと、それだけで選んだ。隣近所と顔を合わせることもほとんどない。住民は年配の方が多く、若い人間は私くらいしかいないような雰囲気だった。
越してきて一年半、特に変わったことは何もなかった。あの夜まで。
あの夜も、普通の夜だった。
十二時頃にベッドに入ったのだが、なかなか寝つけなくて、ぼんやりとスマホを見ていた。すると外から、何かを引きずるような音が聞こえてきた。
猫かもしれない。あるいは誰かが荷物を運んでいるだけかもしれない。でも深夜の十二時に引きずる音というのが気になって、窓から覗いてみたが、外廊下には誰もいなかった。
音はまだ続いていた。どこから聞こえているのかわからない。廊下の端、非常階段のあたりからかもしれない、と思った。
確認してすぐ戻ればいい。スリッパを履いて部屋を出た。
※
非常階段の扉を開けた瞬間、音は止んだ。
外は静かで、遠くに国道の車の音が聞こえるだけだった。階段には誰もいない。上を見ても下を見ても、同じ金属製の踊り場が続いているだけだ。
ちょっと拍子抜けして、戻ろうとした。
そのとき気づいた。扉に、取っ手がない。
引き戸ではなく押し戸なので、内側から開けるには取っ手が必要だ。でも今触った扉には、取っ手がなかった。平らな金属の板があるだけで、ヒンジすら見当たらない。壁に見えた。
慌てて叩いてみたが、こもったような音がするだけで扉は動かない。スマホで部屋に電話しようとしたが、すでに電波が入っていなかった。
下に降りれば非常口があるはず、と思って階段を降り始めた。
一階分降りた。踊り場に出た。
また一階分降りた。踊り場に出た。
また一階分降りた。踊り場に出た。
その時点で、もう五階分は降りているはずだった。四階から降り始めたのだから、とっくに地上についていないとおかしい。でも踊り場はどこまでも同じ形をしていて、終わりが見えなかった。外を見ようと手すりから顔を出したが、外は真っ暗で何も見えなかった。下も、上も。
恐ろしくて足が止まった。
※
そのとき、上の方から足音が聞こえてきた。
ゆっくり、重い足音。
どうしようか、と思ったが逃げる場所もない。じっとしていると、数段上の踊り場に人影が現れた。
作業服を着た、白髪交じりの男だった。六十代くらいに見える。胸に小さなバッジをつけていて、片手に懐中電灯を持っていた。私を見て、少し眉を上げた。
「また女の子か」と男は言った。独り言のように。
「あの、出口を探してるんですが……」
「うん、わかってる」男はポケットから小さなメモ帳を取り出して何かを書いた。「ここは余分に続いてるから」
「余分に?」
「本来は五段で終わるはずなんだけど、たまに余分に繋がるんだよ。原因は調査中。このビル、他でも報告が来てる」
男は静かに言った。私が状況を飲み込めていないのをわかっているのか、急かすこともなく、メモを書き終えてからゆっくり懐中電灯を壁に当てた。
壁に何かが浮かび上がった。段差のような、うっすらとした線だ。ドアの輪郭のようにも見える。
「ここ押して入れば、四階の廊下に出る。普通にね」
「あなたは……何者なんですか」
男は少し考えるように間を置いてから、「管理の人間だよ」と言った。
それ以上のことは話してくれなかった。
「またここに来たら、今度は入らない方がいいよ。ここが余分な時間帯があるから」
私は壁の輪郭をそっと押した。
次の瞬間には、四階の外廊下に立っていた。
背後を振り返ると、非常階段の扉があった。いつも通りの、取っ手のついた扉だ。さびた手すりが外の街灯に照らされている。何も変わっていない。
スマホを見ると、十二時二十分だった。出てから二十分しか経っていなかった。
急いで部屋に戻って、鍵を閉めた。
翌朝、気になって非常階段の扉を昼間に確認しに行った。日中の明るい時間に見ると、取っ手は普通についていたし、扉を開けると普通の階段があって、三十秒もかからず地上に出られた。外から見上げると、外壁は普通のコンクリートで、何かがおかしいようには見えなかった。
でも外から階段を見上げながら、私は数えてみた。踊り場の数を。
五階建ての建物にある踊り場は、四か所あるはずだ。外から数えると、確かに四か所あった。普通だ。
だったら昨夜の、あの際限なく続いた踊り場は何だったのか。
それ以来、非常階段には近づいていない。あの男が「また女の子か」と言ったのが、今でも引っかかっている。私の前にも、誰かが迷い込んでいたのだろうか。
来月、この団地を出る予定だ。理由はいろいろあるが、一番の理由はこれだと思っている。