まだ開いていた店

夕暮れの商店街と女性

母が股関節を骨折したと姉から電話があったのは、三月の終わりのことだった。

東京での暮らしはもう十五年になるけれど、実家のある北陸の町には年に一度帰るか帰らないかという程度だった。

仕事がフリーランスだから時間の融通はきく。

翌朝の新幹線に乗って、昼過ぎには実家の最寄り駅に着いた。

入院先の病院で母の顔を見て、思ったより元気そうだったことに安堵した。

「大袈裟に来なくてよかったのに」と母は言ったけれど、その目は少しだけ潤んでいた。

「明日また来るから、ちゃんと寝てね」と言い残して、私は病院を出た。

実家への帰り道、ふと子供の頃に毎日のように通っていた商店街を思い出して、少し遠回りをすることにした。

アーケードの入口に立った瞬間、時間が止まったような寂しさが胸に広がった。

かつて八百屋や魚屋や文房具店がひしめいていた通りは、ほとんどの店がシャッターを下ろしていた。

蛍光灯は半分以上が切れていて、残った明かりが水溜まりのように点々と床を照らしていた。

私の足音だけが、アーケードの天井に反響して返ってくる。

もう誰もここを通らないのだろうか。

そう思いながら歩いていると、ふいに右手の奥に温かい光が見えた。

手芸店「ことぶき」だった。

子供の頃、母に連れられて何度も通った店だ。

ガラス戸の向こうに、色とりどりの糸やボタンが並んでいるのが見えた。

まだ営業しているのだろうか。

懐かしさに背中を押されるようにして、引き戸に手をかけた。

カランとベルが鳴った。

店の中は、記憶そのままだった。

木の棚に並んだ糸巻き、ガラスケースの中の貝ボタン、壁に掛かった刺繍の見本。

微かに古い木と糊の匂いがして、急に八歳の自分に戻ったような気がした。

奥のレジカウンターに、小柄なおばあさんが座っていた。

「いらっしゃい」

白髪を丁寧にまとめた、穏やかな笑顔だった。

その顔を見た瞬間、ああ、と思った。

寿子おばあちゃんだ。

「あら、もしかして……美咲ちゃん?」

おばあちゃんは私の名前を覚えていた。

「大きくなったねえ。お母さんは元気?」

「うん、元気だよ。ちょっと怪我しちゃったけど」

嘘ではない。

命に関わるような怪我ではないから。

おばあちゃんは「あらあら」と眉を下げてから、棚の奥に手を伸ばした。

小さな桐の箱を取り出して、カウンターの上にそっと置いた。

「これ、お母さんがいつも気に入ってた貝ボタン。まだ取ってあるのよ」

蓋を開けると、薄い桃色の貝ボタンが五つ、和紙の上に並んでいた。

丸みのある、真珠のような光沢を帯びたボタンだった。

母がこのボタンを自分のカーディガンに付けていたのを、私はよく覚えている。

冬になると決まって着ていた、薄いグレーのカーディガン。

「いただいてもいい?」

「もちろん。美咲ちゃんが持っていって。お母さんに渡してね」

おばあちゃんは代金を受け取らなかった。

何度差し出しても、「いいのよ」と手を振るだけだった。

小さな紙袋に入れてもらったボタンをコートのポケットにしまい、私は店を出た。

「ありがとう、おばあちゃん」

「またいらっしゃい」

振り返ると、おばあちゃんはガラス戸の向こうで小さく手を振っていた。

翌日の午後、病院に行く前にもう一度「ことぶき」に寄ろうと思った。

お礼にお菓子でも持っていこうかと、駅前のケーキ屋で焼き菓子の箱を買った。

アーケードを歩いて、昨日と同じ場所に来た。

店のシャッターは下りていた。

錆びたシャッターの隙間から中を覗くと、棚には何もなく、埃が積もった床が見えるだけだった。

あの糸巻きも、ガラスケースも、刺繍の見本も、どこにもなかった。

入口の横に、色褪せた貼り紙があった。

「長らくのご愛顧ありがとうございました ことぶき手芸店」

日付は五年前になっていた。

その日の夕方、病室で母にそのことを話した。

「ことぶきのおばあちゃん、まだお店やってたよ」

母は不思議そうな顔をした。

「寿子さん? あの人、もう五年前に亡くなったでしょう。お葬式にも行ったのよ」

手が、少しだけ震えた。

私はコートのポケットから紙袋を取り出した。

「でも、これ……昨日、おばあちゃんからもらったの」

母は中の貝ボタンを見た瞬間、目を見開いた。

「このボタン……」

一つ手に取って、窓の光にかざした。

薄桃色の表面に虹のような光がちらりと走った。

「私がいつも買ってたボタンよ。もう何年も前に製造中止になったはずなのに」

母の目に涙が浮かんでいた。

「寿子さん、いつも私のぶんだけ奥に取っておいてくれてたの。『奥さんが来たときのために』って」

あの夜の商店街のことを、今でもときどき思い出す。

薄暗いアーケードの奥に灯っていた温かい光。

カランと鳴ったベルの音。

桐の箱から出てきた、薄桃色のボタン。

母のカーディガンには今、そのボタンが五つ付いている。

退院した日に母が一番に頼んだのは、あのボタンを付けてほしいということだった。

一つずつ縫い付けていたとき、最後のボタンの裏に小さな紙片が挟まっていることに気づいた。

丁寧な筆文字で、こう書かれていた。

「奥さんへ。お体、お大事に。」

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