昭和五十二年の春に、私は長浜の秤屋へ弟子入りした。
十九だった。
高校を出て、行く当てがなかっただけである。
店は、湖からニ町ほど入った通りにあった。
間口が二間しかない、細長い町家だった。
表に「近江屋」と彫った古い看板が掛かっていた。
七代目の宗次郎さんが、たった一人でやっていた。
竿秤というものを、いまの人はもう見ないだろう。
細い木の竿に目盛りを刻み、片方に皿を吊り、分銅を滑らせて釣り合わせる。
あの、時代劇に出てくる秤である。
昭和五十年代には、もう注文はほとんどなかった。
それでも、湖東の農家や、乾物屋や、川漁の連中が、年に何十本かは新しいのを欲しがった。
宗次郎さんは、注文が来ると、まず木地を寝かせた。
一年でも二年でも寝かせた。
「反った竿は、目盛りが嘘つくでな」
それが、私が最初に教わったことだった。
弟子入りした年の夏のことは、よく覚えている。
私の仕事は、朝の掃除と、木地の面取りと、分銅磨きだった。
分銅は、真鍮のものと鉄のものがあった。
一貫、五百匁、百匁と、大きさで並べて、桐の箱に収める。
その箱を、毎朝いちど開けて、順に磨く。
宗次郎さんは、それだけは私にやらせなかった時期がある。
ひと月ほど、横で見ているだけだった。
「なんで触らせてもらえんのですか」
「手の重さが移るでな」
冗談だと思って笑ったら、宗次郎さんは真顔だった。
店は、朝の八時に戸を開けた。
開けると、通りから湖の匂いが入ってくる。
魚くさいのではない。
もっと薄い、湿った石のような匂いだった。
昼になると、向かいの豆腐屋のばあさんが、油揚げを一枚持ってくる。
「宗次郎さん、生きとるか」
「生きとるわい」
そのやりとりが、毎日まったく同じだった。
私はその同じさが好きだった。
いま思えば、あの店で同じでなかったのは、梁の下だけである。
※
秤屋には、三つの決まりごとがあった。
一つ、秤は二本で一組。
一本を客に渡し、もう一本は控えとして店に残す。
二つ、控えと合わない秤は、世に出さない。
三つ、合わないときに、分銅を足してはいけない。
「合わんかったら、控えのほうを疑え」
宗次郎さんは、そう言った。
「どっちが正しいかは、わしらが決めることやない」
控えは、帳場の梁に掛けてあった。
黒く煤けた太い梁に、細い竿が何十本もぶら下がっていた。
夏でも、その下だけは少し涼しかった。
私は、その涼しさを、木のせいだと思っていた。
※
最初の異変は、帳面だった。
控え帳というものがある。
作った秤の通し番号と、控えの本数を書きつける帳面だ。
ある雨の日、店番をしながら、私は暇にまかせて古い控え帳をめくった。
明治の分まで、束にして仕舞ってあった。
そして気がついた。
作った本数より、控えの本数が、常に一本多い。
明治十一年から、ずっとだ。
百年ぶん、一本ずつ多い。
私は宗次郎さんに訊いた。
「親方、これ、書き間違いですか」
宗次郎さんは、帳面を見もしなかった。
「そらそやろ」
「そやろ、て」
「もともと一本、こっちにあるんや」
それ以上、何も言わなかった。
※
二つめは、梁の竿だった。
控えの並びの、いちばん奥に、一本だけ短い竿が掛かっている。
他の竿には、必ず尻に銘が刻んである。
近江屋の「近」を崩した焼き印だ。
その一本には、何も刻まれていなかった。
目盛りも刻まれていなかった。
ただの棒である。
私は、削りかけの木地が紛れ込んだのだと思った。
試しに、分銅を吊るしてみた。
釣り合った。
目盛りのない竿で、一貫の分銅が、ぴたりと釣り合った。
釣り合う位置に、印は何もない。
それでも、指を離すと、竿は水平のまま止まっていた。
私は分銅を外して、その場を離れた。
そのとき、竿がわずかに揺れて、また止まった。
手は、もう触れていなかった。
※
三つめは、朝の天秤である。
帳場に、分銅を検める小さな台天秤が据えてあった。
両方の皿に何も載せず、水平にして帰る。
それが仕舞いの決まりだった。
ところが、翌朝になると、左の皿がわずかに下がっている。
最初は、店の傾きだと思った。
古い町家だから、床は歪んでいる。
しかし、天秤の向きを変えても、下がるのは左だった。
東を向けても、西を向けても、左が下がる。
天秤の左は、いつも湖の側だった。
宗次郎さんに言うと、うなずいただけだった。
「そら、向こうに何ぞ載っとるんやろ」
私は笑った。
宗次郎さんは笑わなかった。
もう一つ、分銅のことがあった。
秋の検定の前に、店の分銅を検める。
一貫の分銅を、台天秤に載せて、別の一貫と釣り合わせる。
合わなかった。
ほんのわずかだが、店の一貫のほうが重い。
私は焦って、宗次郎さんを呼んだ。
宗次郎さんは、分銅を入れ替えた。
右に載せていたほうを、左に。
釣り合った。
「合いましたけど」
「そらそやろ」
「同じもんですやん」
「同じもんが二つあったら、どっちかが重い」
宗次郎さんは、そう言って笑った。
笑ったのは、その一度きりだった気がする。
私はそれから何度も、左右を入れ替えて試した。
いつも、左に載せたほうが釣り合う。
右に載せると、必ずわずかに重い。
天秤の左は、湖の側だった。
※
四つめは、客の秤だった。
その年の秋、湖北の乾物屋から、修理の依頼が来た。
祖父の代に買った秤だという。
持ち込まれた竿の尻を見て、私は手を止めた。
焼き印が「近」ではなかった。
「淡」だった。
私は、それをずっと「近」の崩し字だと思っていた。
店の分銅にも、同じ字が入っている。
崩し字だと思って、六か月見ていた。
ちがう。
それは、はっきりと「淡」だった。
「親方、これ、うちのやないですね」
「うちのや」
「けど、字が」
「うちのや」
宗次郎さんは、それだけ言って、鑿を研ぎはじめた。
砥石の音が、いつもより長く続いた。
※
乾物屋の秤を直しながら、私は主人に訊いた。
この秤は、どこで買ったものかと。
主人は、帳場から古い受取を出してきた。
大正九年の日付だった。
店名の欄は、墨がにじんで読めない。
ただ、屋号の下に、住所が書いてあった。
私は、その住所を三度読んだ。
浅井郡、とある。
長浜と同じ、湖の東側である。
対岸ではない。
「これ、こっち岸ですね」
「そらそやろ。ずっとうちの秤や」
主人は不思議そうな顔をした。
私は礼を言って、竿を包んだ。
帰り道、自転車を漕ぎながら、ずっと考えていた。
淡の焼き印が押された秤は、こちら側で買われている。
対岸の店から来たのではない。
こちら側の店が、いっとき淡と名乗っていたということになる。
あるいは、名乗らされていた。
近江と淡海は、どちらも同じ湖の名である。
読み方が違うだけだ。
片方が表に出ているとき、もう片方は、どこにいるのだろう。
※
その晩、私は町の図書館へ行った。
郡誌の秤屋の項に、近江屋の名は載っていた。
明治十一年創業、とある。
その一行の下に、括弧書きで、こうあった。
前身は対岸の淡海屋なりと伝ふるも、記録を欠く。
対岸。
長浜の対岸といえば、湖の西側である。
私は、地図を借りて広げた。
郡誌の索引にある「安曇浦」という地名を探した。
湖西の地図に、その名はなかった。
司書の人に訊いた。
「安曇浦いう浦は、どこですか」
司書の人は、しばらく調べて、首を振った。
「うちの地図には、ないですねえ」
「昔の名前とかでは」
「明治の地形図も見ましたけど、ないです」
それから、少し言い方を変えた。
「そういう名前は、聞いたことはあるんですけどねえ」
私は、聞いたことがある、という言い方が、そのとき妙に引っかかった。
誰から聞いたのか、司書の人も思い出せなかった。
検定所の役人が、年に一度、店に来た。
三上さんという、痩せた人だった。
帳面を突き合わせて、判を押して帰るだけの仕事である。
その年、三上さんが帳面をめくる手を止めた。
「近江屋さん、控えの数、また合いませんね」
「また、というと」
私が訊くと、三上さんは眼鏡を上げた。
「毎年ですよ。私が来るようになって十二年、毎年一本多い」
「直さんでええんですか」
「直せと言ったことはあります」
三上さんは、少し声を落とした。
「先代のときに、一度、帳面を合わせたことがあるんです」
「どうなりました」
「その年だけ、翌年の帳面が二本多くなりました」
三上さんは、それ以上言わずに判を押した。
帰りぎわ、土間で靴を履きながら、独り言のように言った。
「湖西にも、昔、同じ商いの家があったそうですよ」
「どこですか」
「それが、誰に訊いても、地名が出てこんのです」
※
五つめは、看板だった。
年末の煤払いで、表の看板を外した。
裏を返すと、釘の穴が二組あった。
いま使っている穴と、それより二寸ほど内側に、古い穴が四つ。
内側の穴のほうが、明らかに大きい。
幅の広い看板が、以前は掛かっていたということだ。
近江屋、は三文字である。
淡海屋、も三文字である。
しかし、幅は変わらないはずだった。
私はそこで、数え違いに気がついた。
古い穴の間隔で掛かる看板は、四文字ぶんの幅があった。
近江屋でも、淡海屋でもない。
四文字の屋号が、この店には、かつてあった。
それが何であったかは、いまも分からない。
二月の休みに、私は湖西へ渡った。
安曇浦という浦を、自分の足で探すつもりだった。
汽船はもう出ていないので、湖の南を回って、バスを乗り継いだ。
片道で半日かかった。
湖西の集落を、北から順に歩いた。
どの浦にも、秤屋はなかった。
年寄りを見つけては、安曇浦を知らないかと訊いた。
ほとんどの人が、首を横に振った。
ただ、三人だけ、同じ反応をした。
知らない、と言う前に、一度、湖の東を見たのである。
こちら側ではなく、私が来たほうを。
そのうちの一人、網を繕っていた爺さんは、こう言った。
「あんた、長浜の人やろ」
「なんで分かるんですか」
「浦の名ぁ訊きに来るんは、みんな向こう岸の人や」
「前にも来ましたか」
「来た」
爺さんは、網から目を上げなかった。
「十年か、二十年に一ぺんな」
私は、最後のバスに乗り遅れた。
湖西の浜で、日が落ちるのを見た。
対岸に、長浜の灯が並んだ。
数えようとして、やめた。
灯は、こちらの浜の灯より、ちょうど一つ多かった。
私の背中の側に、灯る家は一軒もなかったからである。
※
年が明けて、私は初めて、自分の竿を一本仕上げた。
宗次郎さんが、削りから目盛りまで、口を出さずに見ていた。
仕上がったものを差し出すと、宗次郎さんは、竿の尻を指で撫でた。
「銘は、まだ刻むな」
「なんでですか」
「先に、梁へ掛けとけ」
そういえば、宗次郎さんは、いつもそうしていた。
竿を削り終えると、目盛りを刻む前に、必ず一度、梁のいちばん奥へ掛けた。
一晩か、二晩。
それから下ろして、目盛りを刻んだ。
私はずっと、木を落ち着かせるためだと思っていた。
「あれは、なんのためです」
宗次郎さんは、湯呑みを置いた。
「向こうに、こっちのぶんを教えてやっとるんや」
「向こう、て」
「湖はな」
宗次郎さんは、湯呑みの縁を指でなぞった。
「こっち岸だけでは、湖にならん」
※
私は言われたとおり、自分の竿を梁の奥へ掛けた。
翌朝、店を開けて、梁を見上げた。
私の竿の隣に、同じ長さの竿が、もう一本掛かっていた。
木地の色まで同じだった。
節の位置まで同じだった。
ただ、私の竿には、まだ目盛りがない。
隣の竿には、目盛りが刻まれていた。
私が刻もうと思っていた、そのままの割りつけで。
そして、尻に銘があった。
私は脚立を持ってきて、それを外した。
手が震えて、二度落としかけた。
焼き印は、宗七、と読めた。
宗七というのは、近江屋の八代目が名乗る銘である。
私が襲名するとしたら、その名になる。
まだ、誰にも言われていなかった。
宗次郎さんにさえ、言われていなかった。
棚の奥の竿には、私の銘が刻んであった。
※
私は宗次郎さんに、その竿を見せた。
宗次郎さんは、しばらく黙って、それを両手で持っていた。
それから、こう言った。
「控えいうんは、こっちが控えとるんやない」
私は意味が分からなかった。
「向こうが、こっちを控えとるんや」
言い直されて、なお分からなかった。
宗次郎さんは、梁を見上げた。
「わしらの秤はな、向こうの秤に合わせて作ってある」
「合わせて」
「せやから、合わんときに分銅を足したらあかん」
「足したら、どうなります」
「釣り合う」
宗次郎さんは、それきり口を閉じた。
釣り合ってはいけない、という意味だと、私が分かったのは、ずっとあとである。
百年ぶん一本多い控えは、こちらが余分に持っているのではない。
向こうが、一本ぶん、こちらを先に作っているのだ。
北にばかり重さがあれば、地は傾く。
だから南にも、同じだけの何かがあるはずだ。
昔の人は、そう考えて、見たこともない大陸を地図に描いたという。
描かれたほうは、それを知っていたのだろうか。
宗次郎さんは、最後の三日を、帳場で過ごした。
布団を敷けと言っても、梁の下がええ、と言って動かなかった。
三日目の朝、私が戸を開けると、宗次郎さんは天秤の前に座っていた。
皿の片方に、手を添えていた。
「親方、なにしてはるんですか」
「押さえとる」
「なんでですか」
宗次郎さんは、手を離さずに言った。
「わしが軽うなると、こっちが上がってまうやろ」
その言い方が、あまりに普通だったので、私は何も返せなかった。
その日の夕方に、宗次郎さんは息を引き取った。
天秤は、左が下がったままだった。
私は、直さなかった。
※
宗次郎さんは、その年の冬に亡くなった。
私は八代目を継いで、宗七を名乗った。
竿秤の注文は、もう年に二、三本しかない。
それでも、決まりごとは変えていない。
削り終えた竿は、目盛りを刻む前に、梁のいちばん奥へ掛ける。
一晩、置く。
朝、天秤の左は、やはり少し下がっている。
私はもう、水平に直さない。
直すと、その晩に、梁の竿が一本増えるからだ。
去年から、若い子が一人、手伝いに来ている。
まだ、弟子入りとは言っていない。
本人も、来年は別の仕事に就くつもりだと言っている。
先月、梁の奥に、また銘のない竿が一本掛かった。
私はそれを、まだ下ろしていない。
下ろせば、尻に何が焼いてあるか、見えてしまう。
夕方になると、店の前から湖が見える。
対岸に、灯が並ぶ。
数えたことはない。
数えると、こちらの灯と、同じ数になっている気がするからだ。