目に見えない存在の加護
その日はいつも通りに電車に乗って会社へ向かった。
そしていつものようにドアに寄り掛かりながら外の景色を眺めていた。
地下鉄に乗り換える駅(日比谷線の八丁堀駅)が近付いて来て、網棚に上げておいた荷物を取ろうと、体を後ろに捻った瞬間だった。
「ぱしっ!」と顔に何か乾いたものが当たった。何だか判らない。敢えて言うなら布みたいなもの。強風に煽られたジャケットの襟が顔に当たるような、そんな感触だった。
驚いて振り返ったが、他のお客さんはみんな座席に腰を下ろしていて、俺にちょっかいを出せそうな位置には誰も居ない。
顔を押さえる俺を、みんな怪訝そうに見ている。
何が何だか解らなかったけれど、とにかく付けていたハードコンタクトレンズがズレて目の奥に入り込み、痛くて仕方が無かった。
それでいつも乗る地下鉄を一本遅らせることにして、駅のトイレに寄り洗面台でレンズを直した。
※
鏡に向かってレンズを直していたら、外が急に騒がしくなった。
『何だろう?』と思い、改札を通って駅構内へ入ろうとしたら、ホームから営団の駅員が
「入らないで下さい!すぐに地上に避難して!」
と、こちらに向かって叫んでいる。
びっくりして訳が解らないまま、とにかく指示通りに階段を駆け上がって地上へ出た。
そしたらすぐ目の前の車道に消防車が急停車し、消防隊員が俺と入れ替わりに階段を駆け下りて行った。
地下鉄サリン事件だった。
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もしあの時、『何か』が目に当たってコンタクトがズレなかったら、俺の乗った電車はサリンの充満する霞が関駅に滑り込んでいた。
誰が助けてくれたのかは判らない。でもあれ以来、目に見えないものの存在を信じるようになった。
※
ここから先は蛇足だけれど……。
『死んだ人間』に『生きた人間』が救えるのなら、『生きた人間』が『生きた人間』を救うのは当然だ、とも思ったので、機会を作って色々なボランティアに参加するようにしている。