
三年前の秋、夫と中学一年生の娘と三人で温泉旅行に出かけた。行き先は特に決めていなかった。夫が「たまにはネットで適当に探して、知らない場所に行こう」と言い出したのがきっかけだった。
検索で見つけたのは、山あいの小さな温泉地にある木造三階建ての旅館だった。築八十年という紹介文と、苔むした石段の写真に惹かれて予約した。口コミは数件しかなく、「昔ながらの静かな宿」とだけ書かれていた。
車で三時間ほど走り、県道から細い山道に入った。道幅はすれ違いができないほど狭く、娘が「本当にこの先にあるの」と不安そうに言った。杉林を抜けると、唐突に古い集落が現れた。その奥に旅館はあった。
玄関をくぐった瞬間、不思議な感覚があった。初めて来た場所のはずなのに、足が迷わなかった。廊下の曲がり角、階段の段数、窓から見える山の稜線。すべてに既視感があった。
案内された二階の部屋は八畳の和室で、窓の外に小さな渓流が見えた。畳に座ると、い草の匂いに混じって、かすかに椿油のような香りがした。祖母の家の匂いだった。私は少し驚いたが、古い旅館ならそういうこともあるだろうと思い直した。
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夕食のあと、夫と娘は部屋でテレビを見ていた。私は一人で大浴場に向かった。
脱衣所には誰もいなかった。浴室に入ると、湯気が天井まで立ちこめていて、三メートル先も見えないほどだった。湯船に体を沈めると、疲れが溶けていくようで、しばらく目を閉じた。
どのくらい経ったのか分からない。ふと、湯船の反対側に人の気配を感じた。目を開けると、湯けむりの向こうにぼんやりと人影が見えた。小柄な、年配の女性のようだった。
私は会釈をしようとしたが、その人影は動かなかった。ただ静かにこちらを見ているような気がした。
「よう来たねえ」
声が聞こえた。湯気に吸い込まれるような、柔らかい声だった。私は返事をしようとしたが、言葉が出なかった。声に聞き覚えがあったからだ。
もう一度目を凝らしたとき、人影は消えていた。湯けむりが少し晴れて、湯船の向こう側には誰もいなかった。洗い場にも脱衣所にも、私以外の宿泊客はいなかった。
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翌朝、朝食の席で仲居さんと少し話をした。七十代くらいの、背筋のまっすぐな女性だった。
「この旅館、昔からあるんですか」と聞くと、仲居さんは嬉しそうに頷いた。
「私が嫁いできた頃にはもうありましたから、五十年は経ちますね。昔は常連さんが何人もいらして。秋になると決まって来る方がいたんですよ」
「どんな方でした?」
「小柄な女の方で、いつも椿油の匂いがしてねえ。お孫さんを連れてよくいらしてた。三、四歳くらいの女の子で、おばあちゃんにべったりでした」
私は箸を持つ手が止まった。
「その方、いつ頃まで来られてたんですか」
「もう二十年は前ですかねえ。ある年からぱったり来なくなって。お体でも悪くされたのかと心配してたんですが」
仲居さんはそこで少し寂しそうな顔をした。
私は何も言えなかった。祖母が亡くなったのは七年前のことだ。晩年は足が悪くなり、遠出はできなくなっていた。
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チェックアウトの支度をしていると、娘が不思議そうな顔で言った。
「お母さん、昨日の夜、廊下でおばあちゃんに会ったよ」
「おばあちゃん?」
「うん。写真で見たことあるおばあちゃん。にこにこ笑ってた。私に手を振ってくれた」
娘が言う「写真のおばあちゃん」は、私の祖母のことだった。娘は祖母に会ったことがない。祖母が亡くなったのは、娘が生まれる二年前だ。
「夢でも見たんじゃないの」と私は言った。声が少し震えていたと思う。
「夢じゃないよ。トイレに起きたとき、廊下の突き当たりに立ってた。小さいおばあちゃんで、髪をきれいにまとめてた」
祖母はいつも髪を丁寧にまとめていた。外出するときは必ず椿油で整えてから出かけた。
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帰りの車の中で、私はぼんやりと考えていた。
幼い頃の記憶は曖昧だ。三歳や四歳の記憶など、ほとんど残っていない。けれど、あの旅館の廊下を知っていた気がする。階段の手すりの木目も、渓流の音も、どこかで聞いたことがあった。
実家に帰ってから、母に電話をかけた。
「おばあちゃんが昔、私を温泉に連れて行ってくれたことある?」
母は少し黙ってから言った。
「ああ、あるよ。あなたが三つか四つのとき、おばあちゃんが気に入ってた山奥の旅館に何度か連れて行ってたはず。あなた、覚えてないでしょうけど」
旅館の名前を告げると、母は驚いた声を出した。
「そこよ。おばあちゃん、毎年秋に行ってた旅館」
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あれから三年が経つ。今年も秋になったら、あの旅館に行こうと思っている。娘も「また行きたい」と言っている。
湯けむりの向こう側に、祖母がいるのかどうかは分からない。ただ、あの旅館にいると、祖母がすぐそばにいるような気がする。椿油の香りがふわりとして、「よう来たねえ」という声が聞こえるような気がする。
それだけで、十分だった。