
これは、ついこの前の出来事です。
その夜、私はいつものように一人暮らしのアパートで眠っていました。
深夜、ふいに胸がざわつくような感覚とともに、ハッと目が覚めました。
目覚ましが鳴ったわけでもなく、外が騒がしいわけでもない。
「どうしていきなり起きてしまったんだろう」
そう思いながら、ぼんやりと天井を見上げていると、部屋の隅に、ふと何かの「気配」を感じました。
視線をそちらへ向け、目を凝らしてみると、そこには体育座りをしている男の子の姿がありました。
痩せた膝を抱え、うつむいたまま、じっと動かない。
一瞬、「生きている子どもなのか?」と思いましたが、すぐにそれは普通ではないと分かりました。
生きている人間が、鍵のかかった部屋の中に、音もなく入り込めるはずがありません。
どこか現実から少し浮いたような、しかし確かにそこにいる存在感。
「霊だ」と直感しました。
以前から、家の近くや部屋の中でラップ音のような音が時々していましたが、はっきりと姿を見たのはこれが初めてでした。
怖さで身体がこわばりつつも、頭の片隅で、インターネットのオカルト掲示板で読んだ「霊への対処法」を思い出しました。
言いたいことをはっきり言った方がいい、とそこには書いてあったはずです。
そこで思い切って、布団の中から声を張り上げました。
「おい、何やってんだよ!
他人の家に勝手に入ってくるな!」
しかし、男の子は消えません。
かといって、こちらに襲いかかってくるわけでもない。
私は「もしかして、このまま殺されるのか」と訳の分からない不安に駆られながらも、布団の上から身動きせず、男の子を睨み続けました。
※
やがて、男の子がうつむいたまま、ぼそぼそと何かをつぶやき始めました。
小さすぎてよく聞こえません。
そこで私は、恐怖と苛立ちを紛らわせるように、少し突っかかる口調で言いました。
「なんだよ。
俺、お前に呪い殺されるようなことでもしたか?」
すると、男の子が顔を上げ、小さな声で答えました。
「違うよ。
『起こしちゃってごめんなさい』って言ったんだよ、お兄ちゃん」
お兄ちゃん――。
そう呼ばれましたが、その子に見覚えはまったくありません。
それでも、さっきまでただの「怖いもの」にしか見えなかった存在が、急に「人間の子ども」として目の前に立っている気がしました。
とはいえ、恐怖が消えたわけではありません。
「とにかく、寝させてくれ。
そこにいるだけで悪寒がするんだ。
その悪寒で目が覚めちゃうから、悪いけど出て行ってくれないか」
できるだけ落ち着いた声で、そう伝えました。
けれど、男の子はその場から動こうとしません。
時計を見ると、もう深夜三時を回っていました。
幸い、明日は休みです。
「どうせ眠れないなら、朝まで見張ってやろう」
半ば腹をくくるような気持ちで、私は布団の中から男の子を見つめ続けることにしました。
※
三時十分。
じっと見ているうちに、恐怖よりも好奇心が勝ち始めました。
「なんで、ここにいるんだ?」
私が問いかけると、男の子は少し考えるようにしてから、ぽつりと答えました。
「僕ね、この近くに住んでたんだ」
「ふーん……。
で、なんで俺の部屋なの?」
「ここの近くのはずなんだけど……。
詳しくは覚えてないんだ。
僕が死んだとき、意識がもう朦朧としててさ。
遠くの病院で、そのまま……」
そこで言葉が途切れました。
「なるほどね。
……で、なんで俺の部屋なんだ?」
私が核心を聞こうとすると、なぜかその質問だけは、男の子ははぐらかすように答えませんでした。
代わりに、こんなことを尋ねてきました。
「この近くのお家でさ、○○って名字、知らない?」
「知らないなあ。
ご近所づきあいも、あんまりしてないし」
「そっか……。
僕ね、クラスで一番足が速かったんだよ」
そこから、男の子は自分のことをぽつぽつと話し始めました。
運動会のリレーでアンカーを任されたこと。
友達とゲームの約束をしていたこと。
病気で入院して、だんだん思うように走れなくなっていったこと。
私は、怖さを紛らわせるためもあって、その身の上話を半分聞き流しながらも、要点だけは逃すまいと耳を傾けていました。
やがて男の子の声色が、少しだけ真剣なものに変わりました。
「僕ね、死んじゃう前に『絵日記』を書いて、病院の部屋に隠しておいたんだ。
病院の中で書いたから、お家にあるかどうか分からない。
でも、誰にも見つかってないと思う。
見つけて、お母さんかお父さんに届けてほしいんだ」
「どうして、俺に?」
そう聞くと、男の子は少し照れくさそうに笑いました。
「僕のことが見えて、ちゃんと話してくれた人って、今までいなかったから。
お兄ちゃんだけ、特別に隠し場所を教えてあげる。
それとね……。
お家がどこだったか、もうはっきり思い出せないんだ。
だから、お家も探して教えて。
また来るから」
「来なくていいよ」
思わず本音が出ました。
しかし、男の子は首を振り、小さく言いました。
「だめだよ……。
最後に、もう一度だけ、お父さんとお母さんの顔を見ておきたいんだ」
「自分で探してくれよ……」
弱々しく返す私に、男の子はまっすぐな声で言いました。
「絶対だよ」
その言葉を合図にするかのように、男の子の姿はふっとかき消えるように消えてしまいました。
※
頼まれたことは三つです。
一つ。
絵日記を探してほしいこと。
二つ。
自分の家がどこにあったのか分からないので、見つけて教えてほしいこと。
三つ。
見つけた絵日記を、お父さんとお母さんに届けてほしいこと。
まずは、一番手がかりになりそうな「家」を探すことにしました。
私は翌日、ご近所を歩き回り、それらしい家がないかを一軒ずつ確かめていきました。
すると、意外にも、アパートからそれほど離れていない場所に、男の子の家が見つかりました。
「こんな近くかよ……」
思わず、心の中でぼやきました。
勇気を出してインターホンを押し、出てきたご両親らしき人に、昨夜の出来事をなるべく丁寧に、しかし正直に話しました。
当然ながら、すぐには信じてもらえません。
それでも、せめて事実だけは知りたかったので、男の子が亡くなった日付と、入院していた病院の名前だけ教えてもらい、一度家を後にしました。
※
病院に着くと、受付で事情を説明しました。
最初は訝しげにしていた職員の方も、私が差し出した命日や名前などの情報を見て、担当だった看護師さんを呼んでくれました。
しかし、看護師さんも「絵日記のことは知らない」と首を横に振るばかりです。
それでも、「せっかく来てくれたのだから」と、男の子が入院していたという病室に案内してくれることになりました。
今は空き部屋になっているその部屋で、私は男の子に教えられたとおりの場所――ベッドの下、壁際の隙間――を一つ一つ手探りで確かめていきました。
すると、ほこりをかぶった一冊のノートが、ひっそりと隠されているのを見つけました。
表紙には、拙い字でこう書かれていました。
「2ねん3くみ ○○○」
それは、あの子の「絵日記帳」でした。
看護師さんたちも信じられない様子で、何度もノートと部屋を見比べていました。
中を開くと、最初の数ページは、明るい色の絵と元気な文字で埋め尽くされていました。
「このびょうきはすぐになおるらしい。
早くたいいんして、○○くんと○○(ゲーム)をしたい」
そこには、退院して友達と遊ぶ日を心待ちにする、希望に満ちた言葉が並んでいました。
しかし、ページをめくるごとに、絵はだんだん少なくなり、文字も力を失っていきます。
「太ももがいたい。
がまんすれば、なおるのかな」
後半には絵がほとんどなくなり、「痛い」「ねむれない」といった短い言葉だけが、震えるような字で続いていました。
亡くなる一週間前のページには、たった一行だけが書かれていました。
「いたい」
その文字を見た瞬間、自分でも驚くほど、涙があふれ出ていました。
あの夜、笑いながら自分のことを話していた元気な少年が――たとえ幽霊だったとしても――ここまでの痛みと不安を抱えていたのかと思うと、胸が締めつけられるようでした。
看護師さんも、ノートを手にしたまま、静かに涙をこぼしていました。
後から聞いた話では、男の子の死因は太ももの骨にできた悪性腫瘍、いわゆる小児がんだったそうです。
※
私は絵日記を大切に抱え、再び男の子の家を訪ねました。
ご両親は、ノートを開いた瞬間、声を詰まらせながら、何度も何度もページをなでるようにめくっていました。
「こんなものが、病院に……」
言葉にならない思いが、部屋の空気に溢れていました。
最後まで読み終えると、二人とも涙をぬぐいながら、何度も深く頭を下げて、私に感謝の言葉を伝えてくださいました。
「本当に、ありがとうございました」
私はただ、「いえ……」と答えることしかできませんでした。
秘密の絵日記はこうして無事に見つかり、両親のもとへ帰りました。
あとは、あのガキンチョ――と言いつつ、私の中ではもう「小さな友達」のような存在になっていた少年――に、自分の家の場所を教えてやるだけです。
※
それから一週間ほど経ったある夜。
私はふたたび、あの気配で目を覚ましました。
予感どおり、部屋の隅には、あの男の子が体育座りをしていました。
「僕の家がどこか、分かった?」
少し期待を込めた目で、男の子が尋ねてきます。
「ああ。
ほら、あそこの床屋さんの角を曲がって……」
私は、家までの道順を一つひとつ説明しました。
男の子は真剣な表情でうなずきながら聞いていましたが、話が終わると、ぱっと満面の笑みを浮かべました。
「ありがとう!」
その笑顔は、あまりにも明るくて、まぶしいほどでした。
次の瞬間、男の子の姿は、音もなく消えていました。
もう、部屋のどこを見回しても、そこには誰もいません。
分かっていたことですが、念のため、私は声に出して言いました。
「元気でな」
もちろん返事はありません。
けれど、その夜を境に、家の中からラップ音はぴたりと消えました。
※
今、振り返ってみると、あのラップ音は、男の子が自分の家を探し回りながら、このアパートの近くをさまよっていたときに起きていたのではないかと思います。
頼りない記憶をたどりながら、どうにかして家族の元へ戻ろうとしていたのかもしれません。
あの夜、私の部屋に現れたのは、きっと最後の「お願い」をするためだったのでしょう。
この話は、これで終わりです。
ですが、私にとっては、今でも時々思い出す、大切な出来事のひとつになっています。
夜中にふと目が覚めて、部屋の静けさに耳を澄ませるとき。
もうラップ音は聞こえませんが、どこかで「ありがとう」と笑っている、小さな足の速い少年の姿を、私は心の中にありありと思い浮かべるのです。