その出来事があったのは、私が、一人暮らしを始めて、間もない頃でした。
古いけれど、家賃の安い、二階建てのアパートの、一階の角部屋。
駅からは少し遠いものの、まわりは静かで、住み心地は、悪くありませんでした。
両隣との壁は薄く、生活の音が、筒抜けなのが、玉に瑕でしたが。
それでも、その頃の私は、始まったばかりの一人暮らしに、満足していました。
入居の日、大家さんが、鍵を渡しながら、ぽつりと言いました。
「この部屋は、しばらく、空いていてね」
「前の方は、半年も経たずに、出ていかれたんですよ」
「どうしてですか」と私が聞くと、大家さんは、言葉を、濁しました。
「まあ、人それぞれ、事情がありますからねえ」
そのときは、深く、気にも留めませんでした。
家賃が安い理由も、そんなものだろうと、思っていたのです。
あの、奇妙な異変が、始まるまでは。
※
最初に気づいたのは、よく晴れた、ある朝のことでした。
郵便受けの中に、見慣れないものが、入っていたのです。
十円玉が、三枚。
それも、バーナーか何かで炙ったように、どれも、黒く焦げていました。
はじめは、たちの悪い、いたずらだろうと、思いました。
近所の子どもの、悪ふざけだろう、と。
その焦げた十円玉を、私は、深く考えずに、ゴミ箱へ捨てました。
けれど、その日の夜、妙なことに、気づきました。
捨てたはずの十円玉が、また、台所の隅に、転がっていたのです。
三枚、きっちり、揃えて。
気のせいだと、自分に言い聞かせ、もう一度、捨てました。
いま思えば、あれが、最初の、はっきりとした合図でした。
※
ところが、それは、一度きりでは、終わりませんでした。
その晩、私は、奇妙な物音で、ふと、目を覚ましました。
枕もとの時計を見ると、ちょうど、午前四時。
外から、かすかに、歌のようなものが、聞こえてくるのです。
子守歌のような、低い、女の人の声でした。
そして、カチャン、と。
玄関の、郵便受けの蓋が、鳴る音が、しました。
私は、布団の中で、息を、ひそめていました。
外を、確かめに行く勇気は、とても、ありませんでした。
歌は、しばらく続いて、やがて、ふっと、止みました。
あとには、しんとした、夜の静けさだけが、残りました。
その静けさが、また、こわいのです。
歌が聞こえるのも、いやでしたが。
聞こえなくなった、その後の静けさは、もっと、いやでした。
何かが、すぐそこで、息を、ひそめているような。
それから、私は、毎朝、郵便受けを開けるのが、こわくなりました。
けれど、開けずには、いられないのです。
確かめずにいると、かえって、落ち着かないのでした。
郵便受けの、銀色の蓋に、手をかけるたび。
指先が、氷のように、冷たくなるのを、感じました。
そして、決まって、新しい一枚が、増えているのです。
※
翌朝、おそるおそる郵便受けを開けると、四枚目の、焦げた十円玉。
私の背筋に、冷たいものが、走りました。
五枚目のときは、その十円玉が、古ぼけた、おみくじの紙に、包まれていました。
広げてみると、紙には、見たこともない、奇妙な文字が、びっしりと並んでいました。
六枚目のときには、十円玉に、数本の髪の毛が、固く結わえつけられていました。
長い、黒い、女のものらしい、髪でした。
七枚目のときには、十円玉が、赤い糸で、ぐるぐる巻きにされていました。
もう、いたずらなどという、生やさしいものでは、ありませんでした。
私は、たまらず、隣の部屋の住人に、相談してみました。
「最近、夜中に、変な歌が、聞こえませんか」
隣人は、けげんな顔で、首を、かしげました。
「歌? いや、俺は、何も聞こえないけどな」
壁が、あれほど薄いのに、隣には、何も聞こえていない。
そのことが、かえって、私を、ぞっと、させました。
「お前、寝ぼけてるんじゃないのか」と、隣人は、笑いました。
けれど、その目は、どこか、不安そうに、揺れていました。
本当は、聞こえていたのかもしれない、と、いまでは思います。
ただ、認めるのが、こわかっただけなのだ、と。
あの歌は、私にだけ、聞こえているのでしょうか。
さすがの私も、これは、ただのいたずらではない、と思い始めました。
毎晩、午前四時に。
あの低い歌とともに、それは、必ず、やってくるのです。
不思議なことに、十円玉は、いつも、決まった枚数だけ、増えていきました。
三枚、四枚、五枚、六枚、七枚。
まるで、何かを、数えているように。
あと何枚で、それが、満ちてしまうのか。
十のつくものを、供える。
そういう、まじないが、あると、どこかで聞いたことがありました。
十円玉が、その、まじないの、道具なのだとしたら。
満ちたとき、いったい、何が、起きるのか。
想像するだけで、私は、夜も、眠れなくなりました。
それを思うと、私は、夜が来るのが、恐ろしくて、たまりませんでした。
寝不足で、昼間も、頭が、ぼんやりとしていました。
会社でも、ミスが、増えました。
同僚に「顔色が悪い」と、何度も、心配されました。
けれど、本当のことなど、とても、話せませんでした。
話せば、私の頭が、おかしいと、思われるだけでしたから。
※
こわいながらも、私は、いったい誰の仕業なのか、確かめてやろうと思いました。
その夜、私は、眠らずに、玄関の、覗き穴のそばで、じっと待ちました。
やがて、午前四時。
例の、あの低い歌が、だんだんと、近づいてきました。
私は、息を殺して、覗き穴に、そっと目を当てました。
心臓が、口から飛び出しそうなほど、高鳴っていました。
歌は、すぐ、ドアの外まで、来ていました。
けれど、覗き穴の向こうには、誰の姿も、ありませんでした。
ただ、暗い廊下が、見えるだけ。
おかしい、と思いました。
声は、こんなにも、近いのに。
姿が、どこにも、ないのです。
※
そのときでした。
覗き穴の、視界の、下のほうから。
ぬっと。
女の顔が、せり上がって、現れたのです。
能面のような、白く、のっぺりとした顔でした。
眉が薄く、二つの目が、左右に、不自然なほど離れていました。
そして、その顔が、覗き穴ごしに、私と、目が合った瞬間。
げらげらと、けたたましく、笑い出したのです。
その笑い声は、人のものとは、思えませんでした。
覗き穴のレンズが、その顔で、いっぱいに、なりました。
白目も、黒目も、判別がつかないほど、ぬめりと、光っていました。
私は、その目に、吸い込まれそうな、錯覚を、覚えました。
私は、思わず、悲鳴を、上げてしまいました。
腰が抜けて、その場に、へたり込みました。
※
とにかく、警察を、呼ばなければ。
そう思って、私は、枕もとの携帯電話を取りに、床を這って、進みました。
そのときでした。
背後で、ガチャガチャと、激しい音が、鳴り響きました。
振り返ると、信じられない光景が、ありました。
郵便受けの、内側の口から、二本の、白い手が、突き出ていたのです。
指を、めいっぱい、こちらへ伸ばして、何かを、つかもうとしています。
そして、その郵便受けの隙間から。
細い指が、一本ずつ、ぎこちなく、動いていました。
骨の浮いた、青白い手の甲に、黒い土が、こびりついています。
あの奇妙な歌が、今度は、絶叫のように、響きました。
その声には、もう、子守歌の優しさなど、微塵も、ありませんでした。
喉が裂けるような、金切り声でした。
郵便受けの口から、生臭い、土のような匂いが、漂ってきました。
白い手は、私の足首を、つかもうと、必死に、伸びてきます。
山が割れて、恐ろしいものが来て、みんな、さらわれてしまった。
その歌詞だけは、なぜか、はっきりと、聞き取れました。
古い、わらべ歌のようでもあり、まじないのようでも、ありました。
白い手の指は、なおも、空をかいて、私を、探していました。
その爪は、どれも、長く、土で、黒く汚れていました。
私は、壁に背中を押しつけたまま、動くことが、できませんでした。
そんな、意味の分からない、歌でした。
※
そのとき、私の携帯電話が、鳴りました。
壁の薄い、隣の部屋の住人からの、電話でした。
「おい、どうした。すごい声がしたぞ。大丈夫か」
私は、震える声で、いま起きていることを、必死に、話しました。
「分かった。とにかく、警察を呼ぶ。お前は、じっとしてろ」
隣人は、そう言って、すぐに通報してくれることに、なりました。
警察が来る、という安心感から、私は、少しだけ、強気になりました。
「おい、てめえ、いったい、何なんだよ」
そう叫んで、私は、玄関のドアを、内側から、思いきり蹴りつけました。
※
すると、ドアの向こうの女は、急に、わあわあと、泣き出しました。
そして、何か固いもので、ドアを、ばんばんと、殴りつけてくるのです。
その音は、まるで、骨で叩いているような、いやな音でした。
私の、堪忍袋の緒も、とうとう、切れました。
そばにあった、傘立ての、金属の棒を、ぐっと、つかみました。
そして、意を決して、玄関のドアを、一気に、開け放ったのです。
※
そこに、女が、立っていました。
泣き笑いの、ぐしゃぐしゃに、ゆがんだ顔で。
自分の顔や腕を、血がにじむほど、かきむしりながら。
そして、私と、まっすぐ目を合わせると、女は、ただ、一言。
その顔は、もう、笑っていませんでした。
泣いているような、すがるような、悲しい目で。
「またいっしょだねぇ」
そう、つぶやいたのです。
それから、暗い廊下の奥へと、すうっと、消えていきました。
私には、もう、追いかける気力など、残っていませんでした。
女が消えたあとの廊下には、点々と、黒いものが、落ちていました。
近づいてみると、それは、焦げた、十円玉でした。
逃げ際に、こぼしていったのか。
それとも、最後の、置き土産だったのか。
私は、それを、拾う気にも、なれませんでした。
翌朝、その十円玉は、跡形もなく、消えていました。
誰かが、片付けたのか。
それとも、はじめから、なかったのか。
いまとなっては、確かめようも、ありません。
※
少しして、警察が、やってきました。
けれど、廊下には、もう、誰の姿も、ありませんでした。
事情を話しても、あまり、まともには、取り合ってもらえませんでした。
「酔っ払いの、いたずらでしょう」と。
「最近、物騒ですからね。鍵は、しっかり、かけてください」
若い警官は、そう言って、手帳を、閉じました。
「あの、郵便受けに、変なものが」と、私が食い下がると。
「届け出は、受けておきますよ」と、気のない返事が、返ってきただけでした。
結局、警官は、ろくに調べもせず、帰っていきました。
焦げた十円玉を見せても、けげんな顔で、苦笑いを、されるだけでした。
その夜は、結局、それきり、何ごとも、ありませんでした。
警官が帰ったあと、私は、一睡も、できませんでした。
夜明けまで、玄関のドアを、ずっと、見つめていました。
もう二度と、開けたくない、と思いながら。
※
ところが、次の日の朝。
私は、郵便受けを開けるのが、こわくて、たまりませんでした。
それでも、意を決して、開けてみると。
中には、小さな、紙の包みが、一つ、入っていました。
そっと開けてみて、私は、その場で、吐いてしまいました。
中身が何だったかは、どうか、聞かないでください。
ただ、それは、生きものの、一部でした。
そして、その上にも、焦げた十円玉が、一枚、添えられていました。
十枚そろえば、何かが、完成してしまう。
そう、直感しました。
あと一枚で、満ちるところで、それは、唐突に、終わったのです。
それで、ちょうど、十枚に、なるはずでした。
それを最後に、あの女が、来ることは、二度と、なくなりました。
※
私には、いまでも、まったく、心当たりが、ありません。
あの女が、いったい、何者なのか。
なぜ、よりにもよって、私だったのか。
隣人も、以前は、そんなことは、一度もなかったと、言っていました。
けれど、あとで、大家さんから、こんな話を、聞きました。
あの部屋を、半年以内に出ていった人たちは、みな。
口をそろえて、同じことを、言っていたそうです。
「夜中に、誰かが、郵便受けを、開ける音がする」と。
私だけが、選ばれていたわけでは、なかったのです。
ただ、あの『またいっしょだねぇ』という、言葉だけが。
いまも、私の頭から、こびりついて、離れないのです。
また、とは、どういうことなのでしょう。
いったい、いつ、私たちは、一緒だったというのでしょう。
あの、眉の薄い、目の離れた、女の顔を、思い出すたびに。
あの女が、誰かを、待っていたのは、確かだと思います。
毎晩、午前四時に、欠かさず、供えものを置きに来ていたのですから。
けれど、その相手は、私では、なかったはずです。
きっと、あの部屋に、かつて住んでいた、別の誰か。
その人と、私を、女は、見間違えていたのかもしれません。
『またいっしょだねぇ』。
あの言葉は、私にではなく、その誰かに、向けられていたのでしょう。
だとしたら、その人は、いま、いったい、どこに、いるのでしょうか。
私は、いまも、震えが、止まらなくなるのです。
その後、私は、逃げるように、その部屋を、引き払いました。
退去の日、新しく入る人の姿を、廊下で、見かけました。
若い、女の人でした。
私は、声を、かけようとして、けれど、やめました。
何と言えば、いいのか、分からなかったからです。
あの郵便受けに、いまも、午前四時、何かが来ているのか。
それは、私には、もう、知るすべも、ありません。
ただ、一つだけ、願っていることが、あります。
あの新しい住人の郵便受けに、午前四時、何も来ていませんように。
あの低い歌が、もう、誰の枕もとにも、届きませんように。
そう祈りながら、私は、いまも、午前四時に、目を覚ますのです。
新しい部屋の、静かな郵便受けを、じっと、見つめながら。