焼かれた十円玉

その出来事があったのは、私が、一人暮らしを始めて、間もない頃でした。

古いけれど、家賃の安い、二階建てのアパートの、一階の角部屋。

駅からは少し遠いものの、まわりは静かで、住み心地は、悪くありませんでした。

両隣との壁は薄く、生活の音が、筒抜けなのが、玉に瑕でしたが。

それでも、その頃の私は、始まったばかりの一人暮らしに、満足していました。

入居の日、大家さんが、鍵を渡しながら、ぽつりと言いました。

「この部屋は、しばらく、空いていてね」

「前の方は、半年も経たずに、出ていかれたんですよ」

「どうしてですか」と私が聞くと、大家さんは、言葉を、濁しました。

「まあ、人それぞれ、事情がありますからねえ」

そのときは、深く、気にも留めませんでした。

家賃が安い理由も、そんなものだろうと、思っていたのです。

あの、奇妙な異変が、始まるまでは。

最初に気づいたのは、よく晴れた、ある朝のことでした。

郵便受けの中に、見慣れないものが、入っていたのです。

十円玉が、三枚。

それも、バーナーか何かで炙ったように、どれも、黒く焦げていました。

はじめは、たちの悪い、いたずらだろうと、思いました。

近所の子どもの、悪ふざけだろう、と。

その焦げた十円玉を、私は、深く考えずに、ゴミ箱へ捨てました。

けれど、その日の夜、妙なことに、気づきました。

捨てたはずの十円玉が、また、台所の隅に、転がっていたのです。

三枚、きっちり、揃えて。

気のせいだと、自分に言い聞かせ、もう一度、捨てました。

いま思えば、あれが、最初の、はっきりとした合図でした。

ところが、それは、一度きりでは、終わりませんでした。

その晩、私は、奇妙な物音で、ふと、目を覚ましました。

枕もとの時計を見ると、ちょうど、午前四時。

外から、かすかに、歌のようなものが、聞こえてくるのです。

子守歌のような、低い、女の人の声でした。

そして、カチャン、と。

玄関の、郵便受けの蓋が、鳴る音が、しました。

私は、布団の中で、息を、ひそめていました。

外を、確かめに行く勇気は、とても、ありませんでした。

歌は、しばらく続いて、やがて、ふっと、止みました。

あとには、しんとした、夜の静けさだけが、残りました。

その静けさが、また、こわいのです。

歌が聞こえるのも、いやでしたが。

聞こえなくなった、その後の静けさは、もっと、いやでした。

何かが、すぐそこで、息を、ひそめているような。

それから、私は、毎朝、郵便受けを開けるのが、こわくなりました。

けれど、開けずには、いられないのです。

確かめずにいると、かえって、落ち着かないのでした。

郵便受けの、銀色の蓋に、手をかけるたび。

指先が、氷のように、冷たくなるのを、感じました。

そして、決まって、新しい一枚が、増えているのです。

翌朝、おそるおそる郵便受けを開けると、四枚目の、焦げた十円玉。

私の背筋に、冷たいものが、走りました。

五枚目のときは、その十円玉が、古ぼけた、おみくじの紙に、包まれていました。

広げてみると、紙には、見たこともない、奇妙な文字が、びっしりと並んでいました。

六枚目のときには、十円玉に、数本の髪の毛が、固く結わえつけられていました。

長い、黒い、女のものらしい、髪でした。

七枚目のときには、十円玉が、赤い糸で、ぐるぐる巻きにされていました。

もう、いたずらなどという、生やさしいものでは、ありませんでした。

私は、たまらず、隣の部屋の住人に、相談してみました。

「最近、夜中に、変な歌が、聞こえませんか」

隣人は、けげんな顔で、首を、かしげました。

「歌? いや、俺は、何も聞こえないけどな」

壁が、あれほど薄いのに、隣には、何も聞こえていない。

そのことが、かえって、私を、ぞっと、させました。

「お前、寝ぼけてるんじゃないのか」と、隣人は、笑いました。

けれど、その目は、どこか、不安そうに、揺れていました。

本当は、聞こえていたのかもしれない、と、いまでは思います。

ただ、認めるのが、こわかっただけなのだ、と。

あの歌は、私にだけ、聞こえているのでしょうか。

さすがの私も、これは、ただのいたずらではない、と思い始めました。

毎晩、午前四時に。

あの低い歌とともに、それは、必ず、やってくるのです。

不思議なことに、十円玉は、いつも、決まった枚数だけ、増えていきました。

三枚、四枚、五枚、六枚、七枚。

まるで、何かを、数えているように。

あと何枚で、それが、満ちてしまうのか。

十のつくものを、供える。

そういう、まじないが、あると、どこかで聞いたことがありました。

十円玉が、その、まじないの、道具なのだとしたら。

満ちたとき、いったい、何が、起きるのか。

想像するだけで、私は、夜も、眠れなくなりました。

それを思うと、私は、夜が来るのが、恐ろしくて、たまりませんでした。

寝不足で、昼間も、頭が、ぼんやりとしていました。

会社でも、ミスが、増えました。

同僚に「顔色が悪い」と、何度も、心配されました。

けれど、本当のことなど、とても、話せませんでした。

話せば、私の頭が、おかしいと、思われるだけでしたから。

こわいながらも、私は、いったい誰の仕業なのか、確かめてやろうと思いました。

その夜、私は、眠らずに、玄関の、覗き穴のそばで、じっと待ちました。

やがて、午前四時。

例の、あの低い歌が、だんだんと、近づいてきました。

私は、息を殺して、覗き穴に、そっと目を当てました。

心臓が、口から飛び出しそうなほど、高鳴っていました。

歌は、すぐ、ドアの外まで、来ていました。

けれど、覗き穴の向こうには、誰の姿も、ありませんでした。

ただ、暗い廊下が、見えるだけ。

おかしい、と思いました。

声は、こんなにも、近いのに。

姿が、どこにも、ないのです。

そのときでした。

覗き穴の、視界の、下のほうから。

ぬっと。

女の顔が、せり上がって、現れたのです。

能面のような、白く、のっぺりとした顔でした。

眉が薄く、二つの目が、左右に、不自然なほど離れていました。

そして、その顔が、覗き穴ごしに、私と、目が合った瞬間。

げらげらと、けたたましく、笑い出したのです。

その笑い声は、人のものとは、思えませんでした。

覗き穴のレンズが、その顔で、いっぱいに、なりました。

白目も、黒目も、判別がつかないほど、ぬめりと、光っていました。

私は、その目に、吸い込まれそうな、錯覚を、覚えました。

私は、思わず、悲鳴を、上げてしまいました。

腰が抜けて、その場に、へたり込みました。

とにかく、警察を、呼ばなければ。

そう思って、私は、枕もとの携帯電話を取りに、床を這って、進みました。

そのときでした。

背後で、ガチャガチャと、激しい音が、鳴り響きました。

振り返ると、信じられない光景が、ありました。

郵便受けの、内側の口から、二本の、白い手が、突き出ていたのです。

指を、めいっぱい、こちらへ伸ばして、何かを、つかもうとしています。

そして、その郵便受けの隙間から。

細い指が、一本ずつ、ぎこちなく、動いていました。

骨の浮いた、青白い手の甲に、黒い土が、こびりついています。

あの奇妙な歌が、今度は、絶叫のように、響きました。

その声には、もう、子守歌の優しさなど、微塵も、ありませんでした。

喉が裂けるような、金切り声でした。

郵便受けの口から、生臭い、土のような匂いが、漂ってきました。

白い手は、私の足首を、つかもうと、必死に、伸びてきます。

山が割れて、恐ろしいものが来て、みんな、さらわれてしまった。

その歌詞だけは、なぜか、はっきりと、聞き取れました。

古い、わらべ歌のようでもあり、まじないのようでも、ありました。

白い手の指は、なおも、空をかいて、私を、探していました。

その爪は、どれも、長く、土で、黒く汚れていました。

私は、壁に背中を押しつけたまま、動くことが、できませんでした。

そんな、意味の分からない、歌でした。

そのとき、私の携帯電話が、鳴りました。

壁の薄い、隣の部屋の住人からの、電話でした。

「おい、どうした。すごい声がしたぞ。大丈夫か」

私は、震える声で、いま起きていることを、必死に、話しました。

「分かった。とにかく、警察を呼ぶ。お前は、じっとしてろ」

隣人は、そう言って、すぐに通報してくれることに、なりました。

警察が来る、という安心感から、私は、少しだけ、強気になりました。

「おい、てめえ、いったい、何なんだよ」

そう叫んで、私は、玄関のドアを、内側から、思いきり蹴りつけました。

すると、ドアの向こうの女は、急に、わあわあと、泣き出しました。

そして、何か固いもので、ドアを、ばんばんと、殴りつけてくるのです。

その音は、まるで、骨で叩いているような、いやな音でした。

私の、堪忍袋の緒も、とうとう、切れました。

そばにあった、傘立ての、金属の棒を、ぐっと、つかみました。

そして、意を決して、玄関のドアを、一気に、開け放ったのです。

そこに、女が、立っていました。

泣き笑いの、ぐしゃぐしゃに、ゆがんだ顔で。

自分の顔や腕を、血がにじむほど、かきむしりながら。

そして、私と、まっすぐ目を合わせると、女は、ただ、一言。

その顔は、もう、笑っていませんでした。

泣いているような、すがるような、悲しい目で。

「またいっしょだねぇ」

そう、つぶやいたのです。

それから、暗い廊下の奥へと、すうっと、消えていきました。

私には、もう、追いかける気力など、残っていませんでした。

女が消えたあとの廊下には、点々と、黒いものが、落ちていました。

近づいてみると、それは、焦げた、十円玉でした。

逃げ際に、こぼしていったのか。

それとも、最後の、置き土産だったのか。

私は、それを、拾う気にも、なれませんでした。

翌朝、その十円玉は、跡形もなく、消えていました。

誰かが、片付けたのか。

それとも、はじめから、なかったのか。

いまとなっては、確かめようも、ありません。

少しして、警察が、やってきました。

けれど、廊下には、もう、誰の姿も、ありませんでした。

事情を話しても、あまり、まともには、取り合ってもらえませんでした。

「酔っ払いの、いたずらでしょう」と。

「最近、物騒ですからね。鍵は、しっかり、かけてください」

若い警官は、そう言って、手帳を、閉じました。

「あの、郵便受けに、変なものが」と、私が食い下がると。

「届け出は、受けておきますよ」と、気のない返事が、返ってきただけでした。

結局、警官は、ろくに調べもせず、帰っていきました。

焦げた十円玉を見せても、けげんな顔で、苦笑いを、されるだけでした。

その夜は、結局、それきり、何ごとも、ありませんでした。

警官が帰ったあと、私は、一睡も、できませんでした。

夜明けまで、玄関のドアを、ずっと、見つめていました。

もう二度と、開けたくない、と思いながら。

ところが、次の日の朝。

私は、郵便受けを開けるのが、こわくて、たまりませんでした。

それでも、意を決して、開けてみると。

中には、小さな、紙の包みが、一つ、入っていました。

そっと開けてみて、私は、その場で、吐いてしまいました。

中身が何だったかは、どうか、聞かないでください。

ただ、それは、生きものの、一部でした。

そして、その上にも、焦げた十円玉が、一枚、添えられていました。

十枚そろえば、何かが、完成してしまう。

そう、直感しました。

あと一枚で、満ちるところで、それは、唐突に、終わったのです。

それで、ちょうど、十枚に、なるはずでした。

それを最後に、あの女が、来ることは、二度と、なくなりました。

私には、いまでも、まったく、心当たりが、ありません。

あの女が、いったい、何者なのか。

なぜ、よりにもよって、私だったのか。

隣人も、以前は、そんなことは、一度もなかったと、言っていました。

けれど、あとで、大家さんから、こんな話を、聞きました。

あの部屋を、半年以内に出ていった人たちは、みな。

口をそろえて、同じことを、言っていたそうです。

「夜中に、誰かが、郵便受けを、開ける音がする」と。

私だけが、選ばれていたわけでは、なかったのです。

ただ、あの『またいっしょだねぇ』という、言葉だけが。

いまも、私の頭から、こびりついて、離れないのです。

また、とは、どういうことなのでしょう。

いったい、いつ、私たちは、一緒だったというのでしょう。

あの、眉の薄い、目の離れた、女の顔を、思い出すたびに。

あの女が、誰かを、待っていたのは、確かだと思います。

毎晩、午前四時に、欠かさず、供えものを置きに来ていたのですから。

けれど、その相手は、私では、なかったはずです。

きっと、あの部屋に、かつて住んでいた、別の誰か。

その人と、私を、女は、見間違えていたのかもしれません。

『またいっしょだねぇ』。

あの言葉は、私にではなく、その誰かに、向けられていたのでしょう。

だとしたら、その人は、いま、いったい、どこに、いるのでしょうか。

私は、いまも、震えが、止まらなくなるのです。

その後、私は、逃げるように、その部屋を、引き払いました。

退去の日、新しく入る人の姿を、廊下で、見かけました。

若い、女の人でした。

私は、声を、かけようとして、けれど、やめました。

何と言えば、いいのか、分からなかったからです。

あの郵便受けに、いまも、午前四時、何かが来ているのか。

それは、私には、もう、知るすべも、ありません。

ただ、一つだけ、願っていることが、あります。

あの新しい住人の郵便受けに、午前四時、何も来ていませんように。

あの低い歌が、もう、誰の枕もとにも、届きませんように。

そう祈りながら、私は、いまも、午前四時に、目を覚ますのです。

新しい部屋の、静かな郵便受けを、じっと、見つめながら。

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