
実家のある山あいの集落には、月に一度、共同で道を掃除する日がある。
掃除のあとは、公民館で酒を飲むのが決まりになっている。
俺が子どもの頃は、まだ祖父の世代が元気で、その日は村中が賑やかだった。
子どもの頃、俺は一度だけ、その蓋の上で縄跳びをして、祖父に本気で叱られたことがある。
祖父の手は、そのとき、小刻みに震えていた。
今でも俺は、あの集落の誰にも、U字溝の蓋には近づくなと言われて育った。
この話は、俺の父が体験したことを、後になって聞かせてもらったものだ。
月に一度の共同清掃
集落のはずれに、何を祀っているのか誰も知らない、古いお堂がある。
苔むした石段を十段ほど上がると、傷んだ格子戸の奥に、黒ずんだ木の台が置いてある。
格子戸の隙間から、線香とも黴ともつかない匂いが漏れてくる。
風が吹くと、お堂の屋根の風鈴が、一度だけ短く鳴った。
年に二度、お堂の周りを掃除する日がある。
祖父の世代は、なぜかそこには近づかなかった。
その代わりに、息子たち、つまり俺の父の世代が、順番に出ることになっていた。
お堂の裏には、一本のU字溝が通っている。
幅は、大人の足が一つ入るほどだった。
溝は、お堂の下を潜って、集落の外の沢へ抜けている。
その一か所だけ、コンクリートの蓋が被せてある。
蓋の四隅には、古い縄の切れ端が、結びつけてあった。
年寄り衆は、掃除の前の日に、かならず、その縄を新しく結び直していた。
「結び直さんと、祟るからな」
祖父は、酒を飲みながら、冗談とも本気ともつかない顔でそう言っていた。
でも、父の世代は、そんな話を年寄りの迷信だと笑った。
蓋の周りに、誰が最初に手を付けたのか、今となっては分からない。
ただ、ある年から、U字溝の中の落ち葉まで、全部かき出すようになった。
U字溝の蓋に触れた手
最初の年のことは、父も詳しくは覚えていないと言う。
その日は、よく晴れた初夏だった。
父たちは、お堂の周りの草を刈り、U字溝の蓋の上に積もった土を掃いた。
隣の家のおじさんが、蓋を持ち上げようとして、手を掛けた。
「おい、やめとけ」
誰かが止めたが、おじさんは笑って首を振った。
「迷信だろ。ちょっと中を掃除するだけだ」
蓋は、思ったよりも軽く持ち上がったらしい。
溝の中には、黒くて湿った泥が、ぎっしり詰まっていた。
おじさんは、素手でその泥をかき出した。
夕方まで、元気に笑っていた人だった。
その晩、風呂場で、おじさんは倒れた。
翌朝、家族が気づいたときには、もう冷たくなっていたという。
警察も来たが、倒れた原因は、はっきりしなかった。
脳の病気だろう、ということで、話は収まった。
その日から、おじさんの家には、夜になると誰かの足音がするようになった。
隣の家の子どもは、夜中に何度も目を覚まして、天井を指さして泣いたという。
家は、いつの間にか、住む人がいなくなった。
集落の中では、しばらくその噂で持ちきりだった。
けれど、父たちは、すぐにお堂の掃除から、足を遠ざけた。
数年間は、誰も溝に触れなかった。
年寄り衆が縄を結び直しに行く姿を、父は遠くから見ていた。
その頃にはもう、祖父も、他の年寄りたちも、足が悪くなっていた。
縄を結ぶ手は、少しずつ、減っていった。
蓋が動いた午後
数年が経って、また掃除の当番が回ってきた。
その年は、年寄り衆はほとんど参加しなかった。
「今年は、溝は避けて掃除しよう」
父たちは、そう申し合わせた。
でも、集落の中には、そんな約束を気にしない者もいた。
別の家の叔父が、こっそり溝の蓋を開けて、中に箒を突っ込んだのだ。
「何ともないじゃないか」
叔父は、父たちに向かって、笑ってみせた。
父は、顔をしかめながらも、それ以上は言わなかった。
その晩は、何も起きなかった。
でも、翌日の昼間、叔父は畑で、農機具の事故に遭った。
刃のある機械に、吸い込まれるように巻き込まれたのだと聞いた。
叔父は、そのまま帰らぬ人になった。
葬儀の日、庭に並べられた農機具の刃は、どれも乾いた土にまみれていた。
一つだけ、洗われたように光っていた。
集落には、重い空気が流れた。
年寄り衆は、もう、ほとんどが亡くなっていた。
縄の結び方を知っている人は、誰もいなかった。
この科学の時代に、本気で祟りを信じる者はいなかったが、怖がらない者もいなかった。
父はその頃、すでに、あの溝の近くには行かないと決めていた。
けれど、次の掃除の日、父は仕事の都合で、どうしても出なければならなくなった。
「溝の近くは、誰も触るな」
父は、顔見知りの仲間に、強く言って回った。
掃除は、順調に進んだ。
汗ばんだ首筋に、山の風が涼しかった。
鳥の声と、刈払い機の音が、交互に響いていた。
昼を過ぎて、父は、お堂の脇にそびえる大きな木の枝を、チェーンソーで落としていた。
足場にしていたのは、太く張り出した別の枝だった。
その枝が、突然、乾いた音を立てて折れた。
父の身体が、宙に浮いた。
下で、父の古い友人が、とっさに両腕を伸ばして受け止めてくれた。
「大丈夫か」
「ああ、助かった」
父は、友人の肩につかまって、ようやく地面に足を着けた。
その瞬間、父は、足元を見て凍りついた。
友人が踏んで立っていたのは、あの、蓋をしたU字溝の蓋の上だった。
その場にいた全員が、同じことに気づいた。
空気が、すっと冷たくなった。
誰も、何も言わなかった。
そのとき、蓋の下から、音がした。
コン。
コン。
下から、誰かが、蓋の裏を叩いているような音だった。
大人二人を乗せたまま、コンクリートの蓋が、二度、わずかに上下に動いた。
蓋の隙間から、湿った土と、苔の匂いが立ちのぼった。
足の裏に、蓋の振動が直接伝わってきたという。
父はそのとき、自分の膝が笑っているのに気づいた。
誰かが小さく息を呑む音が、静まり返ったお堂の前に響いた。
「今日は、ここまでにしよう」
父は、掠れた声で言った。
それ以上、誰も反対しなかった。
道具を片付けて、無言のまま、集落へ戻った。
帰り道、蝉の声さえ聞こえなかった。
友人は、翌日の昼間、釣りに出かけた先で、帰らぬ人になった。
一緒に行った仲間の話では、普通に会話をしていたのに、突然ふらりと立ち上がって、そのまま海に落ちたのだという。
父は、一緒に行った仲間に、強く食ってかかった。
「どうして、すぐ助けなかったんだ」
「助けようとしたよ。でも、落ちたときには、もう……」
仲間は、それ以上、言葉を続けられなかった。
父は、友人の葬式で、一度も顔を上げられなかった。
焼香の煙の向こうで、友人の笑った顔の写真が、静かに父を見ていた。
水門の祠に張られた内向きの注連縄という話を読んだとき、あの縄のことを思い出した。
結び直された縄
この話を、俺が初めて父から聞いたのは、俺が三十を過ぎてからだった。
実家に帰った夜、父が、縁側で酒を飲みながら、ぽつぽつと話してくれた。
父は縁側の柱にもたれたまま、遠い山の稜線を見ていた。
夜風に混じって、庭の土の匂いが漂ってきた。
「だから、俺はな、あそこには、もう行きたくないんだ」
「でも、清掃は、誰かが行かなきゃならないだろう」
「今年は、お前が行くのか」
「親父が行かないなら、俺が行くよ」
俺がそう言うと、父は、猪口を持つ手を止めた。
「お前、蓋には絶対に乗るなよ」
「分かってるよ」
「乗らなくても、縄だけは、気をつけろ」
父は、そこで言葉を切った。
それ以上、何も教えてくれなかった。
次の日曜、俺は初めて、集落の掃除に参加した。
参加者は、俺と同世代と、少し年上の人が六人ほどだった。
誰も、U字溝の話はしなかった。
俺たちは、お堂の周りの草を刈り、石段の落ち葉を掃いた。
昼休みに、缶コーヒーを飲みながら、ふとお堂の裏へ目をやった。
蓋をしたU字溝の蓋が、日陰の中に黒く横たわっていた。
そして、俺は、あることに気づいた。
蓋の四隅に、縄が結ばれていたのだ。
新しい縄だった。
麻の繊維が、まだ白く毛羽立っている。
結び目は、驚くほど固く締められていた。
俺は、一緒に来た先輩に尋ねた。
「あの縄、誰が結んだんですか」
「縄?」
先輩は、首をかしげた。
「そんなの、見たことないぞ」
「今年は、誰も結び直してないよな」
「結び方を知ってる人なんて、もういないだろう」
先輩の顔色が、少し変わった。
沈黙が落ちたとき、遠くで、カラスが一声だけ鳴いた。
俺は、蓋に近づかないよう、遠くから縄の結び目を見つめた。
測量で余った境界杭の裏手のように、土地の境目には、触れてはいけないものが残っている。
縄の結び目は、まだ濡れていた。
雨は、ここ数日、一滴も降っていない。
夕方、公民館で酒を飲みながら、俺は父に電話をかけた。
「親父、縄があったよ。新しいのが」
電話の向こうで、父は、しばらく黙っていた。
受話器の向こうから、氷が器に当たる小さな音だけが聞こえた。
「そうか」
それだけ言って、通話は切れた。
俺は、それ以上、あの場所を調べるのをやめた。
帰りの車の中で、バックミラーに、お堂の屋根が小さく映っていた。
その屋根の影が、いつまでも消えないように思えた。
今年の掃除でも、U字溝には、誰も触れなかった。
でも、来年の縄が結ばれる日を、俺は見に行かないと思う。