
夫の転勤で今の町に引っ越してきたのは、ちょうど三ヶ月ほど前のことだ。
見知らぬ土地に慣れようと、隣に住む田中さんという奥さんのすすめで、自治会の集まりに顔を出すことにした。会場は徒歩五分ほどの公民館で、築三十年は経っているらしく、廊下の木の床がきしきしと鳴り、玄関の引き戸を開けると少し黴っぽい匂いがした。初めて足を踏み入れた夜、天井の蛍光灯がジジッと細かく震えているのが気になった。
集会室には長机が二列、向かい合わせに並んでいて、十数人がすでに席についていた。
一番奥、窓際の席に、一人の老婦人が座っていた。
白いカーディガン。髪をきっちりと後ろにまとめ、手を膝の上に重ね、背筋をすっと伸ばして前を向いていた。年齢はよく分からなかったが、七十代か、あるいはもっと上かもしれなかった。
自治会長さんの挨拶が始まり、今月の回覧物の確認や防災訓練の日程調整が進んでいく間も、その方はひと言も発しなかった。隣の席の人と目配せするわけでも、うなずくわけでもなく、ただ静かに正面を見つめていた。
名簿が配られる場面で、不思議なことがあった。
担当の女性が長机の端から順番に一枚ずつ渡していったのだが、一番奥の老婦人のところで手が止まった。そして何も言わず、そっと次の席の人へ渡してしまったのだ。老婦人が断ったわけでもなく、担当の方がそれ以上何か言ったわけでもなかった。まるであそこには誰もいないかのように。
私の斜め前に座っていた田中さんに、こそっと聞いてみた。
「あの一番奥の方って、どなたですか」
田中さんがちらりと奥の席を見た。そしてすぐに手元の配布物に目を落として、「ああ、お茶係の鈴木さんよ、今日は体調が悪いらしくて……」とだけ言って、それ以上続けなかった。
なんとなく、それ以上聞けなかった。
※
二度目の集まりは、翌月の同じ曜日の夜だった。
また彼女はいた。同じ席。同じカーディガン。同じ姿勢。
今回は席の配置が変わったので、私は少し奥の方に座ることになった。横顔がはっきり見えた。肌の色が白すぎると思った。蛍光灯のせいかもしれないが、どこか青みがかっていて、まぶたが重そうで、視線が宙を漂っているようだった。何かを見ているというよりも、ただそこに在るという感じだった。
出席者が今月の困りごとを話す時間になり、進行役の方が一人ひとりを指名していった。老婦人の順番になると、進行役は一瞬だけ奥の席に目をやり、そして何も言わずに次の席の人を指名した。
誰も、おかしいとは言わなかった。
集まりが終わって、みんなが帰り支度を始めた時、私はもう一度奥の席を見た。老婦人が、こちらを向いていた。
目が合った、と思った。
返事が来るかもしれない、と思った瞬間、全身がさっと冷えた。私はそのまま視線をそらして、先に外へ出てしまった。
※
帰り道、田中さんと並んで歩いた。街灯の明かりの下で、私は思い切って聞いた。
「毎回一番奥に座ってる、白いカーディガンの方って、何年くらい来てらっしゃるんですか」
田中さんの足が、わずかに止まった。
「……あなた、ちゃんと見えてるの?」
私は返事ができなかった。
「あそこはね」と田中さんは静かに続けた。「前の自治会長の奥様の席だったのよ。渡辺さんていう方で、何十年もずっとあそこが定席だったの。去年の春に急に亡くなってから……なんとなく、誰もあの席には座れなくて」
「でも毎回、あそこに……」
「そう」田中さんは少しだけうつむいて、「あなたが来るようになってから、また見える方がいるって聞いてたの」
家に帰ってから、しばらく眠れなかった。
怖いというより、なんとも言えない感覚だった。彼女は毎回ちゃんとそこにいた。同じ席で、同じ姿勢で。集まりの内容を聞いていたのか、それとも別の何かを見ていたのか、私には分からなかった。
ただ、最後に目が合ったあの瞬間だけが、頭を離れなかった。
※
三度目の集まりは四月七日だった。
私は少し早めに公民館へ向かった。まだ他の人は来ていなかった。蛍光灯だけが先に点いていて、静かな集会室に机と椅子だけが並んでいた。
一番奥の椅子が、少しだけ引いてあった。
誰かがたった今立ち上がって離れたみたいに、中途半端な角度で。
私はしばらくそれを見つめていた。椅子のシートの上に、白い繊維が一本落ちていた。カーディガンから抜けた毛のように見えた。
机の上には今日の資料が置いてあった。何気なく手に取ると、議題の最後に小さな文字でこう書かれていた。
「渡辺前会長夫人 三回忌 四月十三日 合同慰霊の件」
今日の日付は、四月七日。
三回忌まで、あと六日。
私はその紙を静かに机に戻して、窓際の椅子からできるだけ離れた席に座った。
その日の集まりの間中、私は一度も奥の席を見なかった。
でも、会の途中で一度だけ、右の方からジジッと蛍光灯が震える音がした。窓側の方から。
私は手元の資料を見つめたまま、動かなかった。