ほっとけさん

田舎のフリーイラスト素材

これは私が小さい頃、実際に起こった出来事です。

私の親は私が物心がつく前に離別し、私は母方に引き取られました。

しかし私の母の実家は結構な田舎で、女性が仕事を探すのは困難であった為に、私を祖父母に預け市内に働きに出ていました。

それでも祖父母は優しく、私は大自然に囲まれ楽しくやっていました。

しかしながら、多少の不満もありました。

と言いますのも、私の過ごした田舎というのが超が付くほどのド田舎だったのです。

当然ながら電車など通っておらず、路線バスも一日二本ほど。

村外に通じる唯一の道ですら大雨が降れば塞がれてしまい、陸の孤島と化す程のド田舎でした(古くは朝廷があった由緒あるド田舎です…)。

そんな田舎に住んでいたので不便もありましたが、そこは物心ついた頃から住んでいるためか、生活での不便は然程気にはなりませんでした…が、人が少ない!!!!

同い年の男は私を含め4人しか居らず、その上それぞれの家が別の集落でかなり離れていたので、学校以外で遊ぶ事は殆ど出来ませんでした。

特に私の集落は子供が少なかったので、同年代が居らず寂しい思いもしておりました。

休みの日は一人で裏山や近所の製材場、雑木林などを探検し、寂しく不満を抱きながらも元気に過ごしておりました。

そんなある日の事でした。私が小学三年生の頃だったと記憶しています。

夕食時に食卓を囲んでいると、唐突に祖父が私に向かって言ったのです。

祖父「R(私)は兄ちゃんが欲しゅうないか?」

私「そら欲しいけど…?」

祖父「ほうかー、実は日曜にY介がうちに来るんじゃがの、暫くうちで一緒に暮らす事になる思うんじゃ」

私「え? ほんとに!!なんでなんで?」

祖父「Y介のやつ、病気ももっちょるやろ?

せやから、空気の悪いところよりこっちの方がえーやろから、預かってくれへんかって前から頼まれとっての」

私「へー」

祖父「Rがええゆうんやったら、預かろう思うちょるけど…」

私「ええに決まってるやんか!!!!」

祖父「ほかほか、それなら来てもらうから仲良うせーよ」

私「わかっとるよ!やったあああ!!」

Y介は3つ上の親戚で、大きな法事や正月などに何度か遊んだ事があるんですが、体が弱い割には行動派で、物知りで面白い頼れるお兄さんといった感じの人でした。

私は本当に兄が出来るかのように喜びはしゃいで、期待に胸を膨らませておりました。

そして週末にY介が両親と一緒にこの田舎までやって来ました。

私「Y介にーちゃん!」

Y介「R大きくなったなー、これから一緒だけど、おねしょは治ったか?(笑)」

私「いつの話だよ!それならY介にーちゃんかて、トマト食べれへんゆーてないとったやんか!」

Y介「お前あれはだな…」

…などとくだらない話をしながら、子供特有のスキルとでも言うのでしょうか、暫く会っていなかった時間などは無かったかのようにすぐ打ち解けました。

それからは毎日がとても楽しかったのをよく覚えています。

今までは一人だったのが二人になり、楽しさは数倍に。

一人では行けなかった所へも行けるようになり、Y介と居れば何でも出来ると何処かで思っていた気がします。

Y介が来て一ヶ月ほど経った頃、帰りのスクールバスに乗っている時にY介が聞いてきました。

Y介「なあ、R。あの大きい家に住んでるのは誰? 有名人か?」

R「え? どれ?」

Y介が指差したのは、隣の集落にある、恐らくは村で一番大きな御屋敷でした。

ただ誰が住んでいるかなんて全く知りませんでしたが、前の席に座っていた高学年の、その集落の子が口を挟んで来たのです。

集落の子「あー、あの家さー、オレん家が近所なんやけど、ちょっと変なんや」

Y介「変って?」

集落の子「しょっちゅう色んな大人が、なんかぎょーさんお土産持って行くのを見るんや」

Y介「それだけ偉い人が住んでるって事なんじゃないの?」

集落の子「でもな…今までその家から人が出て来たの見た事ないんや…」

R「へー、中は見た事ないん?」

集落の子「いやー、入ろうと思った事はあるんやけども、裏のおっちゃんが見ててめっちゃ怒られてん」

Y介「勝手に入ろうとしたのがばれたんだね」

集落の子「いや、それもやけど、ここに近付くなとか、一家全員が村に居れなくなるんやとか、めっちゃ脅されたかんや」

Y介「何が居るんだろう?」

集落の子「さー。妖怪とかかもな(笑)。俺はもう怖いし、それから近付いてないから分からんけどな」

その後も色々とその家の不思議な話を披露して、その集落の子はバスを降りて行きました。

Y介がこちらを見て、不敵な笑顔を浮かべながら言いました。

Y介「次の探検場所は決まったな」

次の日曜日、私とY介は弁当を持ち、朝から隣の集落へ向かいました。

隣の集落までは、自転車で林道を抜け15~20分程度で着きました。

しかし、そこからが問題でした。

その御屋敷は小さい山の上にあり、山の麓一帯に大きな白壁が巡らされていたのです。

壁の切れ目に立派な門があったのですが、その正面の畑で何人もの大人が農作業をしていたので、見つからずに進入するのは困難な様子でした。

どうするか悩みながら、私とY介は白壁に沿って自転車を押しながら歩いていました。

Y介「どうしようかなー。いっそ正面から一気に走り込んでみるかな」

R「でも見つかりそうやし、見つかったらめっちゃ怒られそうだやんな…」

Y介「う~~ん…。お!Rあれを見るのだ!!」

R「なになに?」

Y介が指差したのは、どこかの家のガレージでした。

Y介「あそこに梯子とかあるかもよ?」

R「えー、泥棒するの?」

Y介「ちょっと借りるだけだし大丈夫だよ」

そう言ってY介は私を引っ張りガレージに忍び込み、脚立を発見しました。

Y介「これで壁を越えて、あの謎の家に突撃するのだ!」

R「オー!!」

何だかんだ私はY介に乗せられ、一緒になって脚立を拝借しちゃいました。

壁に脚立を架けて、まずはY介が登りました。

Y介「誰も来てないか?」

私「大丈夫ー!何かある?」

Y介「いやー木ばっかだなあ(笑)。Rも早く来いよ」

周囲を気にしながら脚立を登っている最中はかなり緊張していましたが、壁の向こう側に降り立ってからは緊張は程無く治まりました。

壁の向こうは木々が鬱蒼と茂り、少々不気味な森でした。

しかし日頃からド田舎の各所を探検していた私達にとっては特別に畏怖するものでもなく、軽い足取りで傾斜を登って行きました。

どれほど登ったでしょうか、木々の隙間からようやく例の御屋敷が見えてきました。

御屋敷に近付くと森が切れ、パッと日の光が差し込み一気に明るくなったのですが、その御屋敷の異様な姿に一瞬息を飲みました…。

御屋敷は周りに塀があったのですが、山の麓にあったものに比べると乗り越えるのは容易であろう高さでしたが、その壁の向こう側にある御屋敷が、余りにも凶凶しく異彩を放っていたのです。

屋敷は塀も含め全て黒一色でした。おまけに窓が一切ありません…。

その家としてあるまじき異様に飲み込まれ、私は暫し佇んでおりました。

そんな私を尻目に、Y介は塀に手を掛けて一言、「行くよ」と言います。

R「え? 入るん?」

Y介「当たり前だろ。ここまで何しに来たんだよ。それでも探検隊か!?」

R「分かったよ…」

私とY介は塀を越え、中庭らしき所に侵入しました。

塀を越えてみると、そこは塀の向こうからは想像もつかない光景が広がっていました。

沢山の艶やかな草花に彩られていたのです。

見た事もない花が沢山あり、まるで建物の黒一色が嘘かのような素晴らしい庭園でした。

しかしそれにより御屋敷の不気味さが一層際立ちました…。

少し花に見惚れた後に、Y介は壁伝いに屋敷と壁の間に向かって歩いて行きました。

私「どこ行くん?」

Y介「流石に玄関から入ったらすぐばれるだろう? 窓も無いし、裏口を探してみよう」

R「待ってよ」

どんどん進むY介の後ろを恐る恐る付いて行くと、勝手口のような扉を発見しました。

穏やかな陽気と薫風がそよぐ中とは裏腹に、私たち二人の緊張はピークに達していたと思います。

Y介「行くぞ…」

黙って頷く私。

そっとY介が扉を開きました…。

中に入って行くY介。

私も後を追ってその扉の敷居を跨ぎ中に入ると、外とは一転して真っ暗な屋内でした。

Y介「お邪魔しますよー…」

小声で言って屋内に上がり、かまちを登り、Y介は土足のまま中に入って行きました。

私も慌てて後を追い掛け、かまちを登った瞬間、急に空気が重くなる感じがしました。

陰鬱な空気が漂い、どこからともなく例え難い臭いが流れて来ています。

勝手口から差し込む光を頼りに私たちは歩みを進め、襖を一つ開きました…。

「バタン!!」

私・Y介「!?」

急に扉が閉まりました!

私「風やんな…?」

Y介「…俺、閉まらないように石を挟んであったんだよ」

R「じゃあ、なんで!?」

私は泣きそうになりながら叫びました。表情は分かりませんでしたが、Y介も泣きそうになっていたでしょう。

その時、

「ギシ、ギシ、ギシ」

何かが歩いてこちらに近付いて来る音が聞こえてきます…。

澱んだ空気が、更に重く私とY介に圧し掛かってきました。

Y介との距離は一メートルも無かったと思います。

一歩踏み出せば届くような距離なのに私は何も出来ず、ただただ全身が強張るばかりでした。

一方、Y介も襖を半開きにした状態で手を掛けたまま、微動だにしませんでした。

しかし、その音は無情にもどんどんこちらに近付いて来ます。

「ギシッ、ギシッ、ギシッ……」

壁一枚向こう側に居て見えないその物体が、何故かどこまで進んでいるか手に取るように脳裏に伝わって来ます。

そして常闇の中を一歩ずつ進んで来たその物体が、襖の隙間から貌を覗かせました…。

「!!!!!!!!!!」

恐怖で声一つ上げられず、静寂の中、ソレは立ち尽くしていました…。

Y介との距離は数十センチも無かったでしょう。Y介越しに見えるソレは間違いなく男でした。

暗闇に溶け込むかのような黒い着流しを着ていたのが、鮮明に焼き付いています。

男の髪は胸まで垂れ流されており、全身が暗闇と同化していましたが、前髪の隙間から異様にギラついた眼で、こちらを睨み付けているのが分かりました。

私は何も考えられず、何も出来ず、ただただ震える事しかできませんでした。

そんな刹那にY介が叫びました!

Y介「わあああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

無音を劈き、Y介のけたたましい叫び声が響き渡りました!

その刹那、Y介は黒い男に体当たりをしたのです!!!

男は若干後ずさりをし、Y介はすぐさま踵を反し、

「逃げるぞ!!!」

と上ずった声で叫びつつ私の手を取り、入って来た扉に向かって走り出しました。

扉は苦もなく開き、そのまま私とY介は飛ぶように走り、その場を逃げ去りました。

屋敷の横を抜け、庭園を駆け抜け、玄関をくぐり抜け、壁を越えて行くような余裕も無く、最初に敬遠した正面側に向かって走りました。

延々と続く石段を転びそうになりながらも駆け下りて、気が付けば真正面の田んぼ泥の中に飛び込んでおりました。

幸いなのかは分かりませんが、その時は既に農作業をしていた大人は居ませんでした。

私とY介は急いでその場を離れ、息を切らしながらお互いの顔を見合わせていました。

Y介「凄く怖かったな。オレ食われちゃうかと思ったよ」

私「でもかっこよかったわー!めっちゃ強いやん!!」

Y介「隊長だからね!(笑)Rみたいに漏らしたりしないさ」

私「漏らしてないわ!…ちょっと危なかったけど」

Y介「泥だらけやから分からないと思って…本当の事言ってみ?」

私「ホンマに漏らしてへんって!!…でもあれなんやったんやろ…」

Y介「んー、あれは多分妖怪だな!多分…」

この後ずっと、Y介と私の他愛もない妄想話が膨らんで行きます。

しかし、得てして現実は妄想よりも残酷で恐ろしいものだと知るのは、もう少し後の事でした。

ぬかるみに飛び込み、体中に纏わり付いた泥もヒビが入る程に乾いた頃でしょうか。

どちらともなく帰ろうという事になり、私達は家路に着きました。

外壁沿いに停めていた自転車を取りに行く時には、脳裏にあの男の貌が過り、そそくさと自転車に飛び乗りその集落を後にしました。

帰路の最中は深層に恐怖を抱えたままで、私たちは片言隻句の会話しか交せなかったのを覚えております。

しかし、喉元過ぎればと申しましょうか。家に着いて夕餉の頃には、すっかり戦慄も薄れておりました。

興奮が冷めやらぬのか、床に就いた私とY介は遅くまで今日の出来事について語り明かしました。

当初は何事か起きるものかと心の一隅で思っておりましたが、特に異変は無く時は過ぎました。

御屋敷の件から数週余り経った頃だったと思います。

子供の好奇心というのは何よりも恐ろしいものだと、今になるとほとほと感じます。

またもや私たちの『探検病』が顔を出して来ました。ド田舎である事もその一因を担っているのでしょうが。

Y介「R!○神池あるだろう?」

R「うん、神社んとこやろ?」

Y介「そうそう、その奥行った事あるか?」

R「奥…? 杉林の中?」

Y介「いや違う、この間の写生授業の時なんだけどね…」

Y介「○神池沿いの道あるだろう?」

R「うんうん」

Y介「あれはそのまま歩くと、○神池を一周するじゃないか」

R「そうだね」

Y介「あの途中にな…隠された道があるんだよ…!!」

R「え~!? そんなの見た事も聞いた事もないけどな…」

Y介「おっと? 怖いならやめてもいいんだけどね~?」

Y介が私を一瞥する。

R「こ、怖いわけちゃうけど!!…前のお屋敷見たいなのはちょっと嫌かも…」

Y介「大丈夫だって!何かあれば俺がRを守ってあげるから!!お屋敷でもちゃんと助けただろ?」

R「うん…」

Y介「隊長に任せなさい!!」

R「はい!!隊長!!」

そうして私とY介の探検隊は、○神池にある未踏の脇道の奥地を目指す事になった。

この奥地に踏み入った事を激しく悔恨する事を、私たちはまだ知らなかった。

そして、そこに踏み入る事が必然であった事も。

○神池は二つ先の集落なのだが、勾配が険しく、自転車で子供が向かうには一時間半程度かかった。

そして池の辺に自転車を停めて、遊歩道をのんびりと歩き出した。

R「やっぱり○神池はでかいな~、泳げないかな?(笑)」

Y介「その前にお前泳げないだろ!(笑)」

R「泳げるよ!…ビート板あれば」

Y介「それを泳げないって言うんだよね(笑)」

実の無い会話を幾分かしている内に、Y介が足を止めました。

Y介「こっちだ」

そう言うや否や、Y介は木々が生い茂り、子供の臍まではあろうかという草むらを掻き分けて進み出した。

ものの数分も進んだところで急に草むらが開け、そこには一条の獣道がありました。

R「あれ!? こんなところに道なんかあったんや!でも、これって道?」

Y介「立派な道だよ。この先に行けば、ここが誰か通るためのモノだって事は分かるさ」

R「へー」

その獣道は木々に囲まれていて、その傍らには大人の拳よりも大きな岩石が幾つも転がっており、道の上にも折れた枝葉や粘土の塊が点在しておりました。

人が通う為のモノとは思えませんでしたが、道なりに凡そ15分程歩いたところで、私たちは看板を見つけたのです。

丸木を柵のように組み、柵の隙間に金網を張り巡らして、その組まれた木に打ち付けられた『立ち入り禁止』の看板を。

御屋敷の件もあったので、私はY介に行くのは止めようと哀願したのですが、Y介は相も変わらず私を挑発するような言葉しか口にしませんでした。

私が逡巡している姿を見てY介は唐突に笑い出しました。

実はその地域は何かの謂れがある場所では無く、特別保護区に指定されているだけの場所でした。

原生の動植物等を保護するた為の場所、というだけの話でしたが、Y介もおぼろげに「自然を守るための場所」とだけ理解しているだけのようでした。

それでも安心し切った私は、Y介の導くままにその区域に入り込んでしまったのです。

ある程度の探索をしましたが、目新しいものはこれといって無く、裏山と大差の無い風景でした。

そろそろ飽きが芽生えて来た頃に、ぽっかりと木漏れ日が照らし出す大岩を発見したのです。

大凡四畳位の大きさの岩の上は、木漏れ日に照らされていて、まるで天然のテラスのようでした。

私とY介は空腹に気付き、その岩の上でお弁当を食べる事に致しました。

緑風が優しく頬を撫でます。

Y介「気持ちいいなーーー」

ゴロンと仰向けになるY介。

R「ほんとやなー!ここ秘密基地にしようや(笑)」

Y介「そうだなー…ん?」

Y介の視界に何か興味をそそるモノが飛び込んできたようです。

Y介「あそこに何かあるな…。行ってみよう!」

Y介は私の返事を聞く前に体を起し、ソレに向かっていました。

ソレは、大岩から少し坂を上った丘陵の上にひっそりと建っておりました。

…祠?

今になって思えば、何故人の入ってはいけない場所に祠があるのかよくよく考えるべきでしたが、少年の私たちにそのような思慮もなく、あろう事かその祠の扉を開いたのです。

扉の中にはご神体のような、柄の部分まで金属製の剣が納めてありました。

素材は判りませんが、その剣は赤褐色で、かなり劣化している様子でした。

その剣には、八の字を重ねたように黒い縄のようなものが巻き付いておりました。縄には所々に玉が結わえてありました。

Y介は不意にその剣を手に取り、じっくりと観察していました。

私も横から見せてとせがむのですが、Y介は「ちょっと待って!」と、なかなかをの剣を手放そうとしません。

するとY介はいきなりこちらを睨み付け、叫びながら剣を振り被りました!!

Y介「食らえ!!リボルケイン」

…何とも愚かしい事でしょうか。Y介はその剣でライダーごっこを始めたのです。

更に恥を重ねるようですが、私自身も敵役のキャラに成り切り、その突拍子も無い戯れに付き合い出したのです。

Y介は曰くあり気なその剣を振り翳し、私の後ろの木立を打ち据えたのです。

「ガッ」

樹皮に剣が食い込みました。

剣を引き抜くY介。

「ブツ…ボトッ」

剣に巻きついていた黒い縄が千切れ落ちました。

その瞬間、山が囂々と鳴り響いた気がしました。

それまで煌々と輝いていた太陽も暗雲に覆い尽くされ、辺りは一瞬にして暗く、不穏な空気が漂い始めました。

私とY介は得も知れぬ恐怖に襲われ、お互いに言葉を発せずとも『すぐにその場を離れなければ!』と、本能的に察知しました。

Y介は剣をその場に投げ捨て走り出しました。私も同時に走り出しました。

心臓は高鳴り、喉の奥からは粘着質な錆びた味が込み上げて参りました。

一目散に獣道を走り抜け、草叢を突破し、自転車に跨り、家に向かって全力でペダルを漕ぎ出しました。

帰り道はほぼ下りなので、かなりのスピードで降って行きました。

「キーーーーッ!!」

カーブの度に甲高い乾いたブレーキ音が響きます。

かなり危ない場面もありましたが、私たちは決して勢いを緩める事無く走りました。

きっとY介も感じていた事かと思われます。背中にへばり付くような視線、絡み付いてくる悪寒。

私たちは後ろを一度も振り返らず家に着きました。

しかし、御屋敷の時のような安堵感は生まれて来ませんでした。

私たちは食事も喉を通らず、意気消沈したままでした。

そこから布団に入るまでの数時間を、どのように過ごしたか全く憶えていません。

しかし、布団に入ってからY介と交わした会話だけははっきりと覚えております。

Y介「……今日は電気点けて寝ようか?」

R「…うん」

布団に入ってからは沈黙が続き、無音は耳鳴りのように響いていました。

このような状態で眠れるはずも無いと頑なに思っておりましたが、疲労困憊した体が休息を求めるように、いつしか眠りに至っておりました。

「ガリ…ガリガリガリ…」

壁を掻き毟るような音に起こされました。

音は天井裏から漏れているようですが、最初は鼠の仕業かと判断して再び瞼を閉じようとした瞬間、ある違和感に気が付きました。

あれ? 暗い…。電気は点けたまま寝たはず!!

最初は祖父母が消したのかと思い込もうとしたのですが、どうにも言い訳の効かぬ事態に陥りました。

恐怖に駆られてY介の布団に潜り込もうとしたのですが、体は天井を正面に見据えたまま微動だにしません。

私は己の意のままに体が動かぬ最中、その瞳だけで助けを求めるかのようにY介を見つめた…。するとY介の両眼が開いている!!

Y介も同じ状況に見舞われている事がすぐに確信出来ました。

一体、何が自分に降りかかってくるのか想像も出来ず脅えていました。

自分の視界には天井の板と電灯しかありませんでしたが、一箇所だけ物凄く暗い…?

違う…黒い煙のようなもやが天板の隙間から漏れ出して来ている!!

黒いもやは空気より重いガスのように下に降り注いで、一つの塊になりました。

黒い塊はY介の足元に漂っています。

黒く蠢く塊から陶器のような白い手が…。

黒い塊が一種の穴のように、どんどん人の形をしたモノが這い出て来ました。

「ズズッ…ズズズッ…・」

その人の形をしたモノは、Y介の上を這いずりながら上って行きます。

Y介の瞳が酷く脅え、顔は汗に塗れているのが見て取れますが、私は何も出来ません。

そのモノは女性の形を成していて、髪は腰の辺りまで伸びており、全身が絹のように真っ白でぼんやり光っていました。

こちらの側から顔を伺い知る事は出来ませんでしたが、その女の顔がY介の眼前まで迫って来ています。

「…ゴキッ!」

「ガボガボッ…ゲホ!」

その女の白い手が、Y介の口の中に捩じ込まれて行きます!!!!Y介は声にならない嗚咽を漏らしています!

女の手…髪の毛…顔、首…。

黒い靄になりながら、ずるずるとY介の口に入り込んで行きます!!

私は頭の中で声にならぬ叫びを繰り返していました。

女が飲み込まれて行くにつれて、どんどんY介の顔がドス黒く、腐敗したような色に変色して行き、女の膝辺りまで飲み込んだところで、Y介は白目を剥いていました。

私はそこで気を失ってしまいました……。

空が白くなり、雀の声が朝を告げます。私はいつもより少し早く目が覚めました。

…夢だったのだろうか?

昨夜の記憶は生々しく残っております。

寝巻が冷たい…。敷布団に大輪が描かれていました。

しかし、我が身の痴愚を憂うよりも、先ずはY介の事を心痛し、隣に目を配らせました。

視線の先にY介の姿は無く、私は慄然としながら噎び泣いていました。

Y介「朝からどうしたんだ?」

私は涙に塗れた顔に安堵の笑顔を浮かべながら、Y介に駆け寄りました。

私「Y介えええ…」

Y介「なんだー、また漏らしたのかよ(笑)Rもいい年なんだから、漏らしたぐらいでそこまで泣くもんじゃないぞ?」

私「違うわ!違うわ!…Y介がおらへんから…」

Y介「トイレに行ってたんだよ。俺はRと布団でおしっこしないからね(笑)」

R「だって…!Y介…昨日の夜、何もなかったの?」

Y介「何の事だ? 怖い夢でも見たのか? それで…」

一瞬だけY介の表情が曇ったような気がしましたが、私も自分を納得させるためにY介の夢と言う言葉を信じる事にして、それ以上は何も聞きませんでした。

その後、私は祖母に軽い叱責を受け、朝食の卓につきました。

Y介は食欲が無いと、一切箸をつけませんでした。

元よりY介は持病を患っており、体調の優れぬ日は朝食も取らずにそのまま学校を休むといった事も時々ありましたので、祖父母も特には気には留めておりませんでした。

私は一抹の憂慮を抱きましたが、すぐさま掻き消しました。

私は身支度を整え、スクールバスに乗るためにバス停に向かって家を出ます。

バス停は家から目鼻の先にあり、いつも祖母が見送ってくれます。

Y介が学校を休む時は、Y介も祖母と一緒に見送ってくれます。

門を越え、上の道に出るための階段を半ばまで登った所でしょうか、Y介が胸を押さえていました。

体調が悪化してきたようです。呼吸も荒くなり、喘鳴音もして参りました。

いつもの発作だろうと思われ、取り敢えず祖母はY介を私に任せ、家まで薬を取りに戻りました。

昨日はかなり激しく運動したからなあ…などと思い返しつつ、私はY介を気遣いながら横に立ち尽くしていました。

「オエ…ゲボッ…ゲェェェェェェェ」

突然、Y介がその場に突っ伏し嘔吐しました。

私は瞬間的に目を逸らして、Y介の背中をさすりながら「大丈夫?」と声を掛けました。

Y介の返事は無く、尚も嘔吐し続けていましたが、不意に視線を落とし驚愕致しました。

Y介の吐瀉物が毛髪だったのです。うずくまるY介の下に大量の毛髪が嘔吐されていました。

立ち上がり、こちらに向き直るY介。

Y介「……」

私「…毛が…」

Y介の眼頭から顎先の辺りまで、触角のように毛髪が垂れています。

ゆらゆらと微風に揺られている黒々とした毛髪が、ひとしお私の戦慄を煽ります。

そこに祖母が戻って参りました。

泣きじゃくる私を見て、祖母が異常に気付きました。

祖母「R、どないしたね?」

私「毛…が…Y介が…ばーちゃん…」

祖母「なんじゃこれは…。R、Y介を連れてうちに帰るんや。すぐにこんこんさんに連絡するからの!」

母は即座に状況が尋常では無い事を見極め、気丈に振る舞ってくれました。

(『こんこんさん』とは、うちの集落にあるお寺の事です。恐らく『金剛』か『金光』が訛ったものかと思われます)

私はY介に肩を貸し、祖母と一緒に家まで戻りました。

祖母に指示されて、仏壇のある部屋の縁側にY介を寝かせました。

祖母がバケツと数珠を持って来てY介に渡し、

「じーちゃんがおっさん呼びにいっちょるからな!Y介もう少しの辛抱やからの!!」

そう力強く言い、仏壇に向かって祈り始めました。

(『おっさん』とは、方言で和上様の略語のようなものです。中年男性を指すオッサンとはイントネーションが異なります)

「ジャリジャリジャリ」

庭の玉砂利が響き、車が乗り込んで来た事を教えてくれました。

祖父「おっさん来てくれはったで!」

祖父が叫びながら駆け込んで来ました。

僅かに遅れて和上様が、一礼をして仏間に入って来られました。

既にY介は顔面蒼白で、バケツの半分程の毛髪を吐き出しておりました。

和上様は私とY介を凝視した後、優しく微笑みながら仰いました。

和上「R君…。Y介君がこうなった原因に、心当たりはあるのかな?」

私は覚束ないながらも、昨夜の闇から出て来た女がY介の中に入り込んだ事、○神池の奥地に踏み入った事、そこの祠に安置されていた剣で遊び、巻き付いていた黒縄を切り落とした事を話しました。

穏やかな顔で聞いておられた和上様も、全てを聞き終える頃には怪訝な表情を浮かべておりました。

そして、呟きながらまた問いかけて来られました。

和上「…おかしい、あの場所に辿り着けるはずは…。

R君、Y介君が××(隣の集落)にある、黒い大きなお家に行った事があるか知らないかな?」

私はすっかり失念しておりました。あの御屋敷に行った事自体が、今回の事と関係があったのでしょうか?

疑問を抱きながらも、和上様にその事を話しました。

私「前に一緒に行きました…。中で髪の長い男の人みたいなのが居て、逃げました…」

そこまで話すと、それまで傍らで聞いてた祖父が怒声を発しました。

祖父「なぜあそこに行った!!あそこは行っちゃならん場所なんじゃ!!」

すぐに横から祖母が制止しました。

祖母「今更ゆーても仕方なかろうに!ちゃんと教えておかんかったわしらも悪いのじゃから…」

そこまで言うと祖母は涙ぐみ、祖父も俯いて押し黙りました。

どうやら子供が興味本位で禁忌を犯さぬよう、敢えて何も教えて無かったとの事らしいのです。

束の間の沈黙が流れ、祖父が口を開きました。

祖父「和上様!Y介を助けてやって下され!!お願いじゃ…!」

和上「…残念ながら、私の功徳の足りんせいも在りますが、これは領分外になりますので、私の力ではどうしようもありません…」

祖母「そんなむごい話あるますじゃろうか!? 和上様!!なんとかならんのじゃろうか」

和上「…どうなるか確たる事は申せませんが、やはり専門の者に頼むしか…」

和上様は少し言葉を濁した様子でしたが、祖父母はそこまで聞いて察している様子でした。

祖父「それしかなかろうし…和上様…お願い出来ますかの」

和上「解りました。では、来て頂くように手配いたします…ほっとけさんに……」

祖母は仏壇に向かい、一心不乱に祈っております。

祖父はY介の隣に座し、遮二無二Y介の事を励まし続けています。

和上様がほっとけさんを呼びに行かれて暫しの間は、祖父母はひたすらにY介の身を案じておりましたが、私は抜け殻のようにY介の傍に立ち尽くすのみで、涙を流すのみでした。

そのまま幾分か時が経ち、祖父がにわかに語り始めました。

祖父「御屋敷の事、なんも言っちょらんで悪かったの…」

私もY介も返事は出来ませんでした。

しかし、祖父は語り続けました。

祖父「じーちゃんらが子供ん頃までは、何処の家でもちゃーんと教えておったんや…。

ただの、ちょっとした事件があってからは、下手に教えるからいかんのじゃ、と言う話になっての…」

事件? 多少気にはなりましたが何も聞く事は出来ず、そのまま祖父の話に聞き入っておりました。

祖父「大人連中があの御屋敷に行く時も、決められた日だけ、離れにしか入る事が出来ないようになっておるんや…。

それだけ近寄る事が恐れ多い場所なんや…」

そこまで祖父が話したところで、庭から玉砂利の音が響き、複数名分の足音がして参りました。

先ずは和上様が一礼をして仏間に入って来られて、仰いました。

和上「ほっとけさんが御越しになられました」

その和上様の後ろに、異彩を放つ一団が居るのが眼に入りました。

純白の衣装に身を包み、顔を白塗りにして麻呂のように紅を塗っていました。

和上様の後ろに見えた三人が皆同様の身形と御作りをしていたのが、尚更不気味に感じたのを覚えております。

和上様が一歩下がり、その三名が前に出て左右に分かれました。

その後ろから、黒い装束に身を包んだ矮躯な男性が現れました。

…私は思わず息を飲みました。

その男性は、明らかにあの御屋敷で遭遇した男性だったのです。

彼が『ほっとけさん』と呼ばれる人だったとは、夢にも思いませんでした。

陽の下で見るその男性は40歳前後と思われ、髪を後ろで束ねており、精悍とも思わせる顔つきをしておりました。

しかしその眼光は鋭く、畏敬の念すら感じさせられる程です。

残る三名は従者のような者でしょうか、その中の一人から声が上がりました。

従者「此方がほっとけさんです」

その声を引き金に祖父母が叫びます。

祖母「この子を助けてやって下さいまし!お願いします!お願いします…」

号泣しながら懇願していました。

祖父「わしに出来る事なら何でもいたします…ですから何とかしてやってくれんでしょうか…」

畳に額を擦り付けながら哀願するその祖父の姿で、私は自分の愚かさを嘆きました。

横を見ると、Y介もその有様を見て眼を細めている様子です。

ほっとけさん「この子は死ぬな」

予想外な言葉に、その場の全員が凍り付きました。

祖父が重い空気を破り発言しました。

祖父「この子の犯した罪は、家長であるワシの責任です…。

代わりにワシが死んでも構わんのです!何とかこの子の命だけは助けてやって下され…」

祖父の哀願も虚しく、ほっとけさんは冷淡に語ります。

ほっとけさん「無理だ」

祖母「そんな…あんまりです…」

ほっとけさん「誰かが代わりに死ねば助かるという問題の話ではないのだ」

私は恥ずかしながら、この時既に涙は枯れ、思考が停止して、第三者のような目線になっておりました。

ほっとけさんは徐にこちらに歩み寄り、その冷眼でY介を見据えた。

ほっとけさん「既に呪(しゅ)に染まっておるな。愚かな事をしたな」

Y介は何も言わずに突っ伏しています。

ほっとけさん「お前たちが悪戯したモノは荒神を封じてあったものだ。

荒神は長い時を経て、我が一族の掛けた封印によって、既にあの剣には居らんがな」

当時の私達には、言葉半分ほどしか理解出来ていなかったと思います。

それを聞いて疑問を挺したのは祖父でした。

祖父「悪い神さんが居らんのじゃったら、何故この子は苦しんでおるんです!?」

ほっとけさん「それは我々の一族が用いているのが呪術だからだ。

呪によって荒神を縛り、長い年月をかけ荒神を善神にして、土地の守り神に据えると言う方法を取っているからだ」

後に詳しく知る事になるのですが、ほっとけさんの一族は所謂、呪い師のようなものだという事です。

そしてそのまま説明を続けました。

ほっとけさん「長年かけて荒神を縛った呪は、荒神の負の力により更に強力な呪となるのだ。

そしてその呪は荒神が居なくなった後も長い時間をかけて解いて行く。今のあの祠は呪自体を封じていたものだ」

もう誰も何も言う事は出来ませんでした。

静かな空間で、祖母のすすり泣く声と、呟くように「お願いします…」と繰り返す言葉だけが虚しく響きます。

ほっとけさん「坊主、お前は死ねるか?」

ほっとけさんはY介に、無情とも言える問い掛けをしました。

Y介はその言葉の意図も意味も理解出来ぬ様子で、呆然とほっとけさんを見上げておりました。

ほっとけさん「お前に纏わりつく呪は印のようなモノなのだ。その印をめがけて少しずつ呪が注がれ続けている。

長年かけて強大になった呪は、お前を殺したとしても治まる事は無い」

Y介は蚊の泣くような声で一言を発しました。

Y介「…どういう…事ですか?」

ほっとけさん「お前を殺した後も、呪は近い者を喰らい続けるだろう。

この場に居るお前の身内や、離れてはいてもお前の家族や血の繋がっている者は、殆どが死ぬだろう。

しかしお前が死んでも良いと言うなら、他の者達だけでも助ける事は出来る」

ほっとけさんはまだ幼いY介に、犠牲になるか否かの決断を迫りました。とても残酷で、誰しもが言葉を失っておりました。

Y介「…はい…お願いします…みんなを…助けて…」

恐らく喋る事すら辛いと思われるほど衰弱し切ったY介が、力を込めて言いました。

私「いやや…!!何でY介が死ななアカンの!!…死んだらアカンよ…いややいややあああ…」

私は堰を切ったように涙が溢れ、顔をぐちゃぐちゃにして叫びました。

祖父母は何も言いませんでしたが、噎び泣いていた事と思います。

しかし、そんな私にY介は一言だけ放ちました。

Y介「言っただろ…守るって…」

泣きじゃくり「いや」を繰り返すだけの私に比べて、Y介はとても大人に見えました。

Y介「オレは……隊長だから…な」

そう言って私に笑顔をくれたのです。

ほっとけさん「立派な覚悟だ。準備をしよう」

ほっとけさんの一言で従者が動き出しました。

心なしか、ほっとけさんの顔から険が取れ、優し気に見えました。

外から幾つかの大きな葛籠が運び込まれ、儀式の為の準備が始まりました。

仏間全体が純白の垂れ幕で覆われて、部屋の中央部には150センチ四方くらいの、黒く光沢のある織物が置かれました。

その織物を囲むように短い白木の杭が畳に打ち込まれて、そこに朱色の水糸が張られて行きます。

縁側に荒縄が幾重にも巡らされ、そこに模様が描かれた鳴子のような物が吊るされていました。

(他にも色々あったと思いますが、私が確かに覚えているのはこれだけです)

従者の一人が藤色の長い包みを持ち、後の二人は杯と木の枝を持っていました。

そして、黒い布の上に私とY介が座らされたのです。

ほっとけさん「これから執り行う事を説明する。お前たち二人は決してそこから出てはいけない。絶対にだ」

私・Y介「…はい」

ほっとけさん「これから少しの間この部屋にいれば、注ぎ込まれている呪が断たれる。

すると今まで少しずつ注がれていた呪が纏めて全てやってくる。それをお前の中に全て取り込むのだ」

Y介の表情からは悲壮感は感じませんでしたが、その恐怖は余りあるものだったでしょう。

しかしY介は何も言いませんでした。

ほっとけさん「もう一人も少なからず呪が付着しておるので、この場でその呪もこちらに移すから、何があってもこの糸の外に出ないようにしろ」

祖父母は既に部屋から出されていたのが幸いでした。恐らくはこの説明を聞いて正気を保てはしなかったでしょうから。

儀式が始まると、歌とも呪文ともつかぬものを、左右にいる従者と正面に居るほっとけさんが口ずさみ始めました。

左右の従者は手に持った枝で杯の中にある液体を私達に振りかけながら、周囲をゆっくりと周り出しました。

稀にほっとけさんが、枡に入った色の付いた生米をぶつけてきます。

儀式が始まりどれくらい時間が経ったのでしょうか。物凄く長くも感じ、ほんの数分のような気もしました。

Y介を見ると、顔色がかなり良くなっているのが伺えました。

同時に、少しずつですが、眼に涙が浮かんでいるのが見て取れました。

遠くで山鳴りが鳴っている。

…違う!これは山鳴りじゃない!庭先で何かが蠢いている。得体の知れぬ何かの息遣いだ。

見えないけれど、眼前に居るかのように感じる。

その何かは少しずつだが確実に、一歩一歩、歩くようにこの部屋に近付いて来ています。

「ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ!!!!」

縁側のガラス戸が激しく揺れて音を立てている!

ほっとけさん「来たぞ!」

ほっとけさんの声に呼応するかのように、縁側の垂れ幕が左右の従者によって引かれました。

「カランカランカランカラン」

荒縄の鳴子が狂おしく鳴り響きます。

Y介「ひっ!」

思わず声が漏れてしまったようです。

私もY介も歯の根が合わず、カチカチと歯のぶつかり合う音がします。

ソレが後ろから近付いて来ているのが分かります。

距離が縮まる毎に背中の方から強い圧力が掛かり、徐々に空気が重しの如く圧し掛かってきます。

とうとう私とY介の真後ろまでやって来た!

私・Y介「あああああああああああああああああああああああああああああ」

私とY介は叫びました。

辛うじてその場から逃げ出す事は踏み止まりましたが、Y介の方を見て驚愕致しました。

昨晩見た白い手が、無数にY介を捉えています!

私は完全に凍り付いていました。

後ろからは低くくぐもった怨嗟のような声が聞こえています。

Y介は今までに聞いた事のないような奇声を発し、悶え苦しんでいます!

私はろくに言葉になっていなかったと思いますが、必死でY介の名前を呼んでいました。

Y介の全身がドス黒く染まり、目や口からは大量の汁が垂れ流されています。

刹那に天上まではあろうかと言う大きな闇がY介を包み込み、Y介の全身にその闇は収縮し収まりました。

それを見計らっていたかのように、ほっとけさんが動きました!

左の袖を捲り上げて、左手でY介の顔を鷲掴みにして、呪文のようなものを唱え続けました。

するとY介の耳、眼、鼻、口から、黒いもやが溢れ出て来たのです!

黒いもやは細く糸状になり、ほっとけさんの指先から入り込んで行きました。

すると今度は、ほっとけさんの指先からどんどん黒く染まり始めました。

ほっとけさんの顔が険しくなり、脂汗をかいている様子です。

ほっとけさんを見ると、手首から肘の手前辺りまで、三本の黒白の斑模様の紐が結ばれています。

黒い浸食が手首の紐の辺りまで伸びて来ると、プツ、プツと紐がほつれて弾け飛びました。

更に浸食は進みます。次は二本目の紐のところまで浸食されて来ました。プツ、プツ…。

ほっとけさん「今だ!!!」

ほっとけさんの叫びが木霊しました!

それまで藤色の包みを携えてほっとけさんの後ろで佇んでいた従者が動き、包みの布を投げ捨てました!!

従者「阿っ!!!」

「ズダンッ!!!!!ボトッ…」

白刃が解れかけた紐をめがけ振り下ろされ、その刃は下の畳に食い込んでいます。

どす黒く変色したほっとけさんの腕は切り落とされ、Y介の膝元に転がり落ちました。

石榴のような色をした血潮が飛び散り、従者とY介が紅に染まりました。

刃を振るった従者はすぐに懐から筆を取り出し、ほっとけさんの腕から滴る血で、切り落とされた手に文様のようなものを描きました。

更に和紙を上に乗せ、その上から刃を包んでいた布で包むように拾い上げました。

包んでいる最中にガサガサと和紙が立てる音を聞いて、まるで切り落とされた手が動いてるのではないか、という恐怖に駆られたのを記憶しています。

残った二人の従者が駆け寄り、それぞれ取り出した黒と白の紐でソレを縛り、桐の箱に納めました。

ほっとけさんは止血をしながら険しい顔でこちらを見ていましたが、今までとは別人のような温もりに満ちた声で労ってくれました。

ほっとけさん「よく頑張ったな…二人とも…」

ほっとけさんの優しい言葉に、それまでの緊張と恐怖は一瞬にして拭い去られました。

しかし恐怖の余韻からか体が強張り、感謝の言葉すら返す事が出来ないでいる私を後にして、ほっとけさんはその場を去って行きました。

滴り落ちる血痕は、まるでほっとけさんの足跡のようにも見えました。

ほっとけさんに続き、左右の従者も切断された手を納められた箱や諸々の道具を持ち、その場を後にしました。

一人だけ残った従者が私の前に立ち、これから後の処理があるので、もう少し頑張るようにと言われたのです。

その時、僅かにですが、従者の方の口角が緩んだ気がしました。

従者「あなたもですよ、動けますか?」

私はその言葉を聞くまで、恥ずべき事に隣で横たわる最も大事な存在に気を配る事が出来ないでいました。

心の奥底から希望と興奮が込み上げ、泣きじゃくりながら声を掛けました。

私「Y介え…Y介えええ!!」

Y介に手を添えて激しく揺さぶります。

Y介「…何だよ…また漏らしたのか? …R」

私「アホか…!Y介はアホや…!!……ありがとう…」

Y介は少し上体を起こして笑いました。

そして祖父母が和上様に付き添われ、仏間に入って参りました。

祖父母の顔はこの数時間の間に憔悴し切った様子で、私はそれを見て途轍もない罪悪感に駆られて涙が溢れました。

Y介もそっと顔を逸らしたのが見て取れました。

祖父は私達を一喝し、すぐさま従者の方に向き直り詰め寄ったのです。

祖父「Y介は…この子らはもう大丈夫なんやろうか!? 助かったんでしょうか…!?」

従者「恐らくはもう命の危険は無いと思われます」

祖母「有難う御座います…有難う御座います…」

今にも泣き出しそうな声で祖母が言いました。

そして、少しの間を置いて従者の方が懇々と語り出しました。

従者「今回のこの子たちは、ある意味で運が良かったと言えるでしょう。

この子たちが『うつった』呪が他のものでしたら、この子の死でしか全てを終わらす方法はありませんでしたから…」

背筋に冷たいものが走りました。

祖父母も動揺の色が顕著に表れております。

それを見て従者の方は祖父母に向かって言いました。

従者「御二方は、過去の忌まわしい事件は知っておられますね?」

祖父「はい…、あのような事が、まさかワシの孫の身に降りかかるとは…」

従者「良い機会ですから、その事も含めて君たちにお話ししましょう。

そして出来る事なら反省して、君たち以外に同じ過ちを犯す事が無いよう、君たちの世代からも戒めて行くと良いでしょう…」

私とY介は黙って頷きました。

昔々、この地で三体の荒神が暴れておりました。

この三体の荒神は非常に強力な力を持ち、幾人もの高僧が封じようと試みましたが、返り討ちに遭ったそうです。

そこに噂を聞き付けてやって来た一人の呪い師が、特殊な方法で封じたそうです。

呪いを用いて荒神を封じた彼を、『封渡家さん』と呼ぶようになったそうです。

それがほっとけさんの御先祖様に当たる方だそうです。

(他にも、仏さんの使いという意味から発生した言葉だという説もあるそうです)

三体の荒神は呪で縛りつけられ、別々の場所に封じられました。

しかし荒神の力はとても強力で、そのまま滅する事も敵わず、その力を逆にこの地の為に使えるように、何代にも渡り呪を結び続けてやがて浄化する、という形を取る事になりました。

その為にほっとけさんはこの地に居を構え、崇められる存在となりました。

何代にも渡り呪を結び続け、三体の荒神全てが浄化され土地神となった後には、荒神の邪気を吸い、幾重にも結ばれ続け強大になった呪が残りました。

その次の代のほっとけさんからは、この呪を『ほどく』作業が始まり、また何代にも渡って少しずつ解かれて行くのです。

この呪を解く方法は、ほっとけさんが少しだけ呪を取り込み、結界で囲われた御屋敷にて少しずつ浄化して行く、という方法だそうです。

御屋敷の母屋とほっとけさんは普段からその呪に侵された状態で、一度取り込んだ呪が浄化され次の呪を取り込むまでの間だけ、外部からの御進物等を持って来た人と会う事が出来るそうです(ただし、直接会うのは従者の方だけだそうです)。

そんな事情から、村では古くからほっとけさんの屋敷にみだりに近付いてはならぬとの言い付けが語られておりました。

このような話を聞かされた私は子供ながら大きな疑問を抱き、それをそのまま口に出してしまったのです。

私「でも…そんなの一回も聞いた事ないで?」

その質問への答えは、祖父の方から返って来ました。

祖父「それはの…じーちゃんが子供の頃の事件のせいなんじゃ…」

その事件とは、祖父が少年の頃に疎開して来た子供達の数名が御屋敷の話を聞き付け、同じような事をしでかしたのです。

後になって、子供たちは空腹で、御屋敷には食料が沢山隠してあると思い込み侵入したのだと判ったらしいです。

しかし子供の好奇心によるところも大きいだろうとの事で、知らねば誰も行くまいと大人たちの間で結論が出て、祖父の世代以降は村でほっとけさんについては語られぬようになったとの事です。

その時の数名の子供はみな命を落とし、その親族も戦争によるものか分かりかねますが、全員がお亡くなりになったとの事でした。

通常であれば呪を封じた祠には辿り着けぬようになっているのですが、御屋敷で呪に感染してしまった事で私とY介は呪に呼ばれ、その感染した呪の源まで導かれてしまい、このような惨事に見舞われてしまったのです。

ただ不幸中の幸いであったのは、その時の呪が既にかなり解かれていたので、何とか私達の命は救う事が出来たとの事でした。

ただしY介に本当に命を懸けるだけの覚悟が無ければ、恐らくは助ける事は出来なかっただろうと言われた時は、本当に鳥肌が立ちました。

こうして全ての真相を明かされ、従者の方はその後の処理を終えて御屋敷に帰って行かれました。

(後処理は、仏間の畳を燃やしたり、私とY介の体を清めたりといった事をしました)

全てが終わり、遙か遠くから夕陽に照らされ黒と橙のコントラスに染まる居室で、私とY介は呆けていました…。

蜩が物悲しく夕暮れを告げている。

Y介「…R」

私「何?」

Y介「探検隊は解散だな…」

私「…そうやな」

私と私の親友がほんの少しだけ大人に一歩近付いた、そんな気がしました。

それからY介は両親の元に帰る事になり、現在でも元気にやっています。

ただ、あの時の後遺症か視力がかなり落ち、代わりに見えなかったものが年齢と共に見えるようになったと聞きます。

ほっとけさんは間も無くして引退され、次の代に家督を譲られたそうです。

あの時に手を切り落とした方が現在のほっとけさんだそうですが、もう次の代まで持ち越す事は無いだろうと聞きました。

私はあの時のほっとけさんに引退された後一度だけ会う事が出来、呪について色々な話を聞く事が出来ました。

そのせいか、この年になり今もまた『探検病』が再発している最中でございます。

長々とお付き合い頂いた皆様、ありがとうございました。

私の幼い頃の体験談はこれで全てですが、皆様もくれぐれも過ぎた好奇心には御気を付けますよう…。

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