高九奈駅

無人駅

「高九奈駅」という駅を、地図で探したことがあります。

路線図にも、時刻表にも、どこにも載っていませんでした。

けれど私は一年半前、確かにその名前の看板を、この目で見ているのです。

当時の私は、都内の会社でデスクワークをするOLでした。

毎日、画面を見つめ続けて目も肩も固まりきっていて、帰りの電車で眠るのが日課になっていました。

混んでいて座れない日でも、吊り革につかまったまま、うとうとしてしまうほどです。

その夜も、残業が思いのほか長引いて、終電に近い電車に乗りました。

車内は驚くほど空いていて、私は座席の端に腰を下ろしました。

暖房の風が足元をじんわり温め、手すりに頭をあずけると、レールの継ぎ目の音が、ゆっくり遠のいていきました。

あとで思えば、あれが、あの夜の最後の「いつもどおり」でした。

午前2時1分の車内

目を覚ましたとき、電車はまだ走っていました。

窓の外は墨を流したように真っ暗で、街の明かりがひとつも見えません。

携帯を取り出すと、画面の時計は、午前2時1分を示していました。

終電は、とうに過ぎている時刻です。

電波の表示は、いつのまにか圏外になっていました。

席を立って見回しても、乗客はひとりもいません。

ふだんは酔客や、疲れた会社員の寝息で満ちている終電に、人の気配がまるでないのです。

床には、誰かの忘れ物らしい新聞が一部だけ落ちていて、日付のところが、滲んで読めませんでした。

蛍光灯の白い光だけが、やけに明るく、床に私の影を落としていました。

どこかの駅に着く気配もなく、アナウンスも流れません。

車掌さんを探そうと、私は前の車両へ向かって歩き出しました。

連結部の扉を開けるたびに、冷たい風が頬をなでていきます。

どの車両も、吊り革だけが、同じ向きにゆらゆらと揺れていました。

誰かがさっきまで握っていたかのように、小さく円を描いているのです。

車両をふたつ抜けたところで、思わず足が止まりました。

座席に、小学生くらいの男の子が、ひとりで座っていたのです。

「ねえ、この電車、どこへ行くのか知っている?」

私が声をかけると、男の子はゆっくり首を横に振りました。

「知らない。ぼくも、どこに向かっているのか分からないんだ」

子どもらしくない、落ち着いた声でした。

よく見ると、彼のスニーカーの先だけが、ひどく濡れて光っていました。

赤い帽子を深くかぶっていて、顔の下半分しか見えません。

こんな時間に、子どもがひとりで電車に乗っているはずがないのに、不思議と私は、その場で声をかけていました。

そのとき、電車がゆるやかに速度を落とし、ホームへ滑り込みました。

男の子は立ち上がり、私の目をまっすぐに見つめて言いました。

「お姉さんは、ここに来ちゃダメだよ」

彼はそれだけを残して、開いたドアから、暗いホームへ降りていきました。

追いかけようとしましたが、足がすくんで、一歩も動けませんでした。

高九奈駅の看板

ホームの柱には、色あせた駅名の看板が掛かっていました。

そこには、かすれた文字で「高九奈駅」と書かれていました。

聞いたことのない名前です。

慌てて携帯で調べようとしましたが、圏外の表示は、やはり消えません。

ホームの端から端まで、錆びた柵と、背丈ほどに伸びた草が続いていました。

ベンチの上には、誰のものとも知れない片方だけの手袋が置かれていました。

駅舎に明かりはなく、改札口にも、人影はありません。

無人駅という言葉が、頭に浮かびました。

ドアが閉まり、電車は何事もなかったように、また走り出しました。

振り返っても、男の子の姿は、ホームのどこにもありません。

高九奈駅で降りた彼は、あの暗がりの中で、誰を待っていたのでしょう。

ひとり取り残された車内で、私は膝の上の鞄を、強く抱きしめました。

窓ガラスに映る自分の顔が、ひどく青白く見えました。

さっきまで確かに聞こえていた車輪の音も、なぜか、水の底で鳴っているように遠く感じられます。

そのとき、手の中の携帯が震えました。

携帯の画面には、父からの着信が、はっきりと表示されていました。

圏外のはずなのに、通話は不思議なほど、すんなりつながりました。

「どうした、こんな時間に。今、どこにいるんだ」

父の声を聞いたとたん、張りつめていたものが、ふっと緩みました。

私は泣きそうになりながら、乗っている電車のことを、懸命に伝えました。

「分かった。車ですぐ迎えに行くから、次の駅で降りて待っていなさい」

その言葉に、私は何度もうなずきました。

次に電車が停まった駅の看板は、墨でかすれたようになっていて、文字がまったく読めませんでした。

線路沿いの暗がり

ホームに降りると、湿った土と、枯れ草の匂いが鼻をつきました。

周りには、田んぼと山の黒い影が広がっているばかりです。

風が吹くたびに、稲の穂ともつかない乾いた音が、足元を渡っていきます。

ここがどこなのか、どの県なのかさえ、私には見当もつきませんでした。

遠くで水の流れる音がして、ほかには何も聞こえません。

父に場所を伝えようとしましたが、看板が読めないので、説明のしようがありませんでした。

電話は、いつのまにか切れていました。

画面を見ても、通話履歴は、ほとんど残っていないように見えました。

それでも、父が迎えに来てくれるのだと、そう信じるほかありませんでした。

迎えを待つよりも、前の駅まで戻ったほうがいい。

そう考えて、私は線路脇の砂利道を、来たほうへ歩き出しました。

靴の下で砂利が鳴る音だけが、夜の底に響きます。

どれだけ歩いても、駅の明かりは見えてきません。

空には月もなく、星の位置さえ、見慣れたものではない気がしました。

ときどき、レールがかすかに震え、遠くから電車の来る気配だけが伝わってきます。

けれど、何も通り過ぎてはいきませんでした。

振り返ると、さっきのホームも、すでに闇にのまれていました。

三十分ほど歩いたでしょうか。

足の裏が熱くなり、ヒールの踵が、何度も砂利に取られました。

引き返すこともできず、立ち止まれば、闇に捕まってしまいそうな気がして、私は歩き続けました。

背後から近づくヘッドライトが、私の影を長く伸ばしました。

道路の脇に車が停まり、運転席には、父が座っていました。

「乗りなさい。もう大丈夫だ」

私は助手席に飛び込み、震える手でシートベルトを締めました。

指先は氷のように冷えていて、座席のヒーターの温かさにも、まるで気づきませんでした。

車内には、見慣れた古い芳香剤の匂いがしていました。

走り出してしばらくは、ほっとして、窓の外の闇をぼんやり眺めていました。

「怖かっただろう」

父がそう言いました。けれど、その声が、どこかおかしいのです。

いつもより低く、喉の奥から響くような声で、言葉の切れ目が、人の話し方とは少し違っていました。

「大丈夫。すぐ、着くからね」

私の知っている父は、娘を「おまえ」と呼ぶ人で、そんなふうに優しく言い含めることはありません。

同じ言葉が、同じ抑揚で、何度も繰り返されます。

ハンドルを握る横顔を、私はそっと盗み見ました。

街灯の光が横切るたび、その顔は、父のようでもあり、知らない誰かのようでもありました。

車が、家とは違う方向へ、ゆっくりとカーブを切りはじめました。

男の子の声が、耳の奥によみがえりました。

「お姉さんは、ここに来ちゃダメだよ」

曲がり角で車が減速した、その瞬間です。

私は迷わずドアを開け、暗い道路へ飛び降りました。

白い天井と父の顔

地面に打ちつけた体の痛みで、目の前が真っ白になりました。

次に目を開けたとき、私は病院のベッドの上にいました。

白い天井と、消毒液の匂い、点滴の落ちる小さな音。

窓の外はすでに明るく、遠くで、始発電車の走る音が聞こえていました。

傍らの椅子には、疲れた顔の父が、腰かけていました。

その手が、私の指先を、確かめるように何度も握り直していました。

その温かさだけは、確かに、本物の父のものでした。

私は駅のことも、男の子のことも、夢中で話しました。

けれど父は、困ったように首をかしげるばかりです。

私は、道端に倒れているところを見つけられ、救急車で運ばれてきたのだそうです。

発見された場所は、自宅から電車で一時間以上も離れた、聞いたこともない町の外れでした。

父は、昨夜は早くに寝てしまい、私に電話などしていないと言いました。

携帯の着信履歴には、確かに父の名前が残っています。

父の携帯には、私にかけた履歴がひとつもありませんでした。

今でも、終電でうとうとしかけるたびに、あの無人駅の暗さを思い出します。

あの男の子は、誰だったのか。車で迎えに来た「父」は、一体何だったのか。

その答えは、今も見つかっていません。

高九奈駅という名前は、どの路線図を開いても、いまだに見つけられないままです。

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