深夜のタクシーで、時間が消えた

夜の商店街と老紳士

出張から帰るタクシーの中で、俺は携帯を見ていた。

画面に表示されるのは午前2時47分。四国の地方都市から駅に向かう帰り道だった。3日間の出張を終えて、とにかく家に帰りたい気分だった。

「ちょっと走路を迂回していいですか」

タクシーの運転手が不意に呟いた。

「ああ、工事があってさ」

俺は返事をした。いつもの帰り道ではないのだろう。でも疲れていたから、特に気にしなかった。

街の景色が変わり始めたのは、そのすぐ後だった。

ビルが低くなって、古い商店街が現れた。でも俺は、その商店街に見覚えがなかった。この街に何度も来ているのに。

「あ、ちょっと待ってください。ここ……?」

「見知らぬ場所ですね。でも進みます」

運転手の返事は淡々としていた。

商店街は不気味だった。深夜だから人気がないのは当然だけど、それだけじゃなかった。

街灯がぼんやり光っていて、看板に書かれた店名が読めない。古い鮮魚店、乾物屋、薬局……。看板は昭和の風合いそのもので、ペンキが剥げて、文字が褪せていた。

「これ、昭和?」

つぶやくと、運転手は何も言わなかった。

タクシーはゆっくり走っていた。速度を落としているのではなく、この迷路のような商店街の中では、そのくらいのペースが自然なのかもしれない。

窓の外を見ていると、男の人が立っていた。

商店街の脇道に、老人が立っていた。白髪で、年は80近くありそうだった。紙袋を持っていて、ぼんやり空を見つめている。

「俺、この街、知らないんですけど」

「ああ」

運転手は返事だけした。

タクシーはさらに奥へ進んでいった。

商店街は続いていて、曲がり角が増えた。ビルの間を左右に曲がりながら。迷路だった。完全に迷路だった。

「あ、あの……目的地は駅だったんですが」

「はい」

「進めています?」

「進んでいます」

返事に違和感があった。会話が成立していないような。でも俺は疲れていたから、それ以上何も言わなかった。

窓の外を見ていると、さっきの老人が、角の所に立っていた。

またあの、白髪のおっさんだ。

「あ、また……」

だが、おっさんはこっちを見ていなかった。今度は反対方向を向いていた。別の商店街の方を。

「あのおっさん、どっか仕事しているんですか?」

「わかりません」

運転手は答えなかった。

タクシーの窓に、時計が映っていた。携帯を見た時から、どのくらい経ったのか。

画面を見ると、まだ午前2時47分だった。

「え?」

携帯をもう一度確認した。バッテリーもそこそこある。だが時間は2時47分のままだった。

「運転手さん、今何時ですか?」

「わかりません」

「いや、お宅の時計」

ルームミラーの上を見た。デジタル時計が付いていた。表示は、午前2時47分だった。

商店街は続いていた。

いや、同じ場所を回ってるんじゃないか。そう思い始めた。看板が同じだ。「やまだ鮮魚店」という看板を、さっきも見た気がする。

「あ、あの」

後部座席から身を乗り出して、フロントガラスの外を見た。

するとおっさんが立っていた。

さっきと同じ老人。白髪。紙袋。ぼんやりした表情。

その老人が、ゆっくりこっちを向いた。

そして口を動かした。何か言っていた。声は聞こえないが、唇の動きから読み取れそうだった。

「……戻りなよ」

そう言っているように見えた。

「え?」

後ろを振り返ると、おっさんはもう別の場所にいた。

タクシーが止まった。

いつの間にか、商店街を抜けていた。前方に、大きな橋が見えた。夜の河を渡る、古い橋。

俺は何か異常なことに気づいた。

携帯の画面を見ると、午前2時47分から、午前4時15分に変わっていた。

「え、え?」

「お客さん、ここからどこへ?」

運転手が振り返った。

「あ……あ」

俺は言葉が出なかった。どのくらい乗っていたのか、まったく覚えていなかった。体感では10分もない気がする。だが、実際には1時間半以上が経っていた。

「どこから来たんです?」

運転手の表情が変わった。何か異変に気づいたような。

「あ、四国の…」

「違います。あなた、どこから来たんです?」

「ここに乗ったのは……」

タクシーを拾った場所が、思い出せなかった。

運転手は後ろを見つめていた。恐れているような顔で。

「ここ……見たことある?」

「いや……」

橋の向こう側。街灯に照らされた向こう側には、同じ商店街が見えた。

俺は橋の上に立っていた。

いつの間にか、タクシーを降りていた。

橋の手すりに手をかけて、下を見た。川の水が音もなく流れていた。

背後から、足音が聞こえた。

振り返ると、白髪のおっさんが立っていた。

「お疲れさん」

おっさんが言った。声は聞こえた。はっきりと。

「俺……ここ、どこですか?」

「さあね」

「帰れますか?」

「知らん。でも、戻ったら、もう二度と来るなよ」

おっさんが指差した先は、來た方向ではなく、橋の向こう側だった。

同じ商店街が、暗く光っていた。

「え……」

「行きな。もう朝になる」

おっさんは消えた。

いや、消えたんじゃなくて、別の方向に歩いていったのかもしれない。夜道は暗くて、何も見えなかった。

俺は橋を渡った。

橋を渡ると、見知らぬ駅があった。駅舎も古く、改札も無人だった。

ホームに立つと、列車が来た。

乗車した時の記憶はない。

気がつくと、俺は自分の家の前に立っていた。

携帯は午前6時30分を示していた。

翌日、俺は地図を見た。

出張先の駅から、俺の家までの経路。

タクシーが走ったはずの商店街は、地図に存在しなかった。

どこを探しても、その商店街は見当たらない。

でも俺は確かに、そこにいた。

白髪のおっさんにも、会った。

「戻ったら、もう二度と来るなよ」

その言葉だけが、今も耳に残っている。

「戻る」って、何だったのか。

俺は、一体、どこへ行っていたのか。

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