
出張から帰るタクシーの中で、俺は携帯を見ていた。
画面に表示されるのは午前2時47分。四国の地方都市から駅に向かう帰り道だった。3日間の出張を終えて、とにかく家に帰りたい気分だった。
「ちょっと走路を迂回していいですか」
タクシーの運転手が不意に呟いた。
「ああ、工事があってさ」
俺は返事をした。いつもの帰り道ではないのだろう。でも疲れていたから、特に気にしなかった。
街の景色が変わり始めたのは、そのすぐ後だった。
ビルが低くなって、古い商店街が現れた。でも俺は、その商店街に見覚えがなかった。この街に何度も来ているのに。
「あ、ちょっと待ってください。ここ……?」
「見知らぬ場所ですね。でも進みます」
運転手の返事は淡々としていた。
※
商店街は不気味だった。深夜だから人気がないのは当然だけど、それだけじゃなかった。
街灯がぼんやり光っていて、看板に書かれた店名が読めない。古い鮮魚店、乾物屋、薬局……。看板は昭和の風合いそのもので、ペンキが剥げて、文字が褪せていた。
「これ、昭和?」
つぶやくと、運転手は何も言わなかった。
タクシーはゆっくり走っていた。速度を落としているのではなく、この迷路のような商店街の中では、そのくらいのペースが自然なのかもしれない。
窓の外を見ていると、男の人が立っていた。
商店街の脇道に、老人が立っていた。白髪で、年は80近くありそうだった。紙袋を持っていて、ぼんやり空を見つめている。
「俺、この街、知らないんですけど」
「ああ」
運転手は返事だけした。
※
タクシーはさらに奥へ進んでいった。
商店街は続いていて、曲がり角が増えた。ビルの間を左右に曲がりながら。迷路だった。完全に迷路だった。
「あ、あの……目的地は駅だったんですが」
「はい」
「進めています?」
「進んでいます」
返事に違和感があった。会話が成立していないような。でも俺は疲れていたから、それ以上何も言わなかった。
窓の外を見ていると、さっきの老人が、角の所に立っていた。
またあの、白髪のおっさんだ。
「あ、また……」
だが、おっさんはこっちを見ていなかった。今度は反対方向を向いていた。別の商店街の方を。
「あのおっさん、どっか仕事しているんですか?」
「わかりません」
運転手は答えなかった。
※
タクシーの窓に、時計が映っていた。携帯を見た時から、どのくらい経ったのか。
画面を見ると、まだ午前2時47分だった。
「え?」
携帯をもう一度確認した。バッテリーもそこそこある。だが時間は2時47分のままだった。
「運転手さん、今何時ですか?」
「わかりません」
「いや、お宅の時計」
ルームミラーの上を見た。デジタル時計が付いていた。表示は、午前2時47分だった。
※
商店街は続いていた。
いや、同じ場所を回ってるんじゃないか。そう思い始めた。看板が同じだ。「やまだ鮮魚店」という看板を、さっきも見た気がする。
「あ、あの」
後部座席から身を乗り出して、フロントガラスの外を見た。
するとおっさんが立っていた。
さっきと同じ老人。白髪。紙袋。ぼんやりした表情。
その老人が、ゆっくりこっちを向いた。
そして口を動かした。何か言っていた。声は聞こえないが、唇の動きから読み取れそうだった。
「……戻りなよ」
そう言っているように見えた。
「え?」
後ろを振り返ると、おっさんはもう別の場所にいた。
※
タクシーが止まった。
いつの間にか、商店街を抜けていた。前方に、大きな橋が見えた。夜の河を渡る、古い橋。
俺は何か異常なことに気づいた。
携帯の画面を見ると、午前2時47分から、午前4時15分に変わっていた。
「え、え?」
「お客さん、ここからどこへ?」
運転手が振り返った。
「あ……あ」
俺は言葉が出なかった。どのくらい乗っていたのか、まったく覚えていなかった。体感では10分もない気がする。だが、実際には1時間半以上が経っていた。
「どこから来たんです?」
運転手の表情が変わった。何か異変に気づいたような。
「あ、四国の…」
「違います。あなた、どこから来たんです?」
「ここに乗ったのは……」
タクシーを拾った場所が、思い出せなかった。
運転手は後ろを見つめていた。恐れているような顔で。
「ここ……見たことある?」
「いや……」
橋の向こう側。街灯に照らされた向こう側には、同じ商店街が見えた。
※
俺は橋の上に立っていた。
いつの間にか、タクシーを降りていた。
橋の手すりに手をかけて、下を見た。川の水が音もなく流れていた。
背後から、足音が聞こえた。
振り返ると、白髪のおっさんが立っていた。
「お疲れさん」
おっさんが言った。声は聞こえた。はっきりと。
「俺……ここ、どこですか?」
「さあね」
「帰れますか?」
「知らん。でも、戻ったら、もう二度と来るなよ」
おっさんが指差した先は、來た方向ではなく、橋の向こう側だった。
同じ商店街が、暗く光っていた。
「え……」
「行きな。もう朝になる」
おっさんは消えた。
いや、消えたんじゃなくて、別の方向に歩いていったのかもしれない。夜道は暗くて、何も見えなかった。
※
俺は橋を渡った。
橋を渡ると、見知らぬ駅があった。駅舎も古く、改札も無人だった。
ホームに立つと、列車が来た。
乗車した時の記憶はない。
気がつくと、俺は自分の家の前に立っていた。
携帯は午前6時30分を示していた。
※
翌日、俺は地図を見た。
出張先の駅から、俺の家までの経路。
タクシーが走ったはずの商店街は、地図に存在しなかった。
どこを探しても、その商店街は見当たらない。
でも俺は確かに、そこにいた。
白髪のおっさんにも、会った。
「戻ったら、もう二度と来るなよ」
その言葉だけが、今も耳に残っている。
「戻る」って、何だったのか。
俺は、一体、どこへ行っていたのか。