
あの夜のことを、俺はいまだにうまく説明できない。
出張で初めて訪れた町だった。
クライアントとの打ち合わせは翌朝の九時。前日入りした俺は、駅前のビジネスホテルにチェックインして荷物を置いた後、コンビニで買ったおにぎりを食べながら、なんとなく夜の散歩に出ることにした。
知らない土地をひとりで歩くのは、昔から好きだった。
駅から延びるアーケード商店街はすでにほとんどのシャッターが下りていて、街灯だけが等間隔に並んでいた。飲食店がいくつか開いているのが見えたが、入る気にはなれず、ただぶらぶらと歩いた。観光地でもない地方の小さな駅前というのは、夜になると独特の静けさを帯びる。人が消えて、看板の明かりだけが残る。その感じが嫌いではなかった。
商店街を抜けて裏通りへ入ったところで、スマートフォンの地図アプリを確認した。自分がいる場所に、細い路地が一本走っているはずだが、アプリ上には何も表示されていなかった。電波のせいかと思って画面を更新しても、変わらなかった。
おかしいな、と思いながらも、目の前に確かに路地は存在していた。
幅は一メートルちょっとほど。古びたブロック塀の間に、石畳が続いている。奥に橙色の明かりが見えた。
吸い寄せられるように、俺はその路地に足を踏み入れた。
※
路地を二十メートルほど進むと、急に視界が開けた。
小さな横丁だった。
昭和の映画にでも出てきそうな、古い木造の店舗が左右に並んでいる。八百屋、金物屋、床屋——どれも看板は古ぼけ、いくつかには字が消えかかっていた。それでも店の前には人が立ち、客が行き交っているように見えた。
おかしかったのは、音がないことだった。
人が動いている。唇も動いている。でも声が聞こえない。足音もない。ただ、ぼんやりした橙色の光の中で、人影が緩慢に動いているだけだった。
引き返せばよかったのに、俺はそのまま横丁の中へ歩いていった。
見知らぬ顔の人々は、俺を見ているのか見ていないのか判然としなかった。目線が合っているようで、しかし焦点が定まっていない。のぞき込むような視線でも、無関心な視線でもなく、ただそこにある、という感じだった。
横丁の真ん中ほどに、小さなラーメン屋があった。
白い暖簾に、読めない字で店名が書かれていた。読めない、というよりも、それが日本語なのかどうかも判断できなかった。漢字に似た何かが、三文字ほど並んでいた。
中から湯気が漏れていた。それだけが確かに感じられた。温度。温もり。
俺は暖簾をくぐった。
※
カウンターに六席ほど。全席埋まっていた。
客はみな同じ方向を向いて、ラーメンをすすっていた。こちらを振り向いた者はいなかった。
奥から老婆が出てきた。白い割烹着を着た小柄な人で、俺を見て小さく頷いた。言葉はなかった。俺も特に何も言わず、空いていた端の席に座った。
しばらくして、ラーメンが出てきた。
醤油色のスープ。細麺。シンプルな一杯だった。
食べ始めてから、気づいた。
においがしない。
視覚的にはラーメンなのに、鼻に届くものが何もなかった。スープを一口飲むと、確かに味はある。しょっぱいような、甘いような。でも何の出汁なのかが、どうしても判断できなかった。
隣の客に目をやると、その人はずっと同じ動作を繰り返していた。箸でほぐして、すくって、口に運ぶ。またほぐして、すくって、口に運ぶ。その目は、丼の中を見ているようで、どこか遠いところを見ているようだった。ずっと見ていると、その人が何度も同じ麺をすくっているのに気づいた。量が減っていなかった。
壁に古い時計がかかっていた。
短針が五を指していた。長針は十二を少し過ぎていたが、ゆっくり動いているのか止まっているのか、しばらく見ていても判断できなかった。
金を払って店を出た。老婆は釣りを返すとき、俺の手に触れた。その手は人間の手のようで、体温が感じられなかった。
俺は早足で路地を戻り、裏通りに出た。
振り返ると、石畳の路地はそこにあった。しかし奥はもう暗かった。橙色の明かりもなかった。
ホテルに戻って時計を見ると、まだ夜の九時前だった。体感では二時間以上歩いていたような気がしたのに、出発してから四十分も経っていなかった。
※
翌朝、打ち合わせを終えた後、クライアントの担当者に昨夜の横丁について聞いた。
「横丁、ですか」と彼は首をかしげた。
「駅の裏手のあのあたりは、再開発で二十年ほど前に全部更地になりましたよ。今は駐車場です」
スマートフォンのマップで確認すると、確かに昨夜俺が迷い込んだあたりには、何もない空き地が広がっているだけだった。衛星写真で見ても、石畳の路地らしきものは見当たらなかった。
ポケットを探ると、そこに一枚の紙が入っていた。
領収書だった。金額の欄に、数字らしきものが書いてあったが、俺の知っているどの数字とも少しずつ形が違っていた。店名の欄も、あの暖簾と同じ、読めない文字が三つ並んでいた。
紙自体は確かに存在する。触れれば感触がある。でもどれだけ見ても、そこに書かれているものを読めない。
あの横丁が夢だったとは思えない。俺は確かに食べた。確かに払った。
ただ、あの場所に存在したすべてのものが、俺の知っている世界と、少しだけずれていた。
その領収書は今も財布の奥にある。
捨てられないでいる。