お稲荷さんに魅入られ

田舎の夏の風景

今からおよそ十年前のことです。

私は、父の田舎であるN県の山間部を訪れました。夏の帰省で、親戚一同が集まっており、夜には恒例のお楽しみとして、従兄弟たちと怪談話をしていました。

話が進むにつれて、だんだんとネタが尽きはじめた頃、私は年長の従兄兄に「もっと話してよ」とせがみました。

すると、彼は少し戸惑いながらも、「実は…お隣の奥さんの話なんだけど」と、口を開きかけたのです。

その瞬間、隣にいた彼の妹が、鋭い声で叫びました。

「お兄ちゃん、その話やめな!!」

空気が一変しました。

その反応がかえって私の好奇心を刺激し、ますます話を聞きたくなりました。やや渋りながらも、兄は重い口を開いて、話し始めました。

その家の近くの山中には、ぽつんと、忘れ去られたかのような一体の小さなお稲荷さんが祀られていたそうです。

神社というにはあまりにも簡素で、まるでお地蔵様のような佇まい。人里離れたその場所に、なぜ一体だけ置かれていたのかは分かりません。

近隣で最もそのお稲荷さんに近い家が、隣家のご夫婦の住まいでした。

特に奥さんは、その稲荷像を気にかけ、暇を見つけては掃除をし、供え物をするなど、熱心に世話をするようになったそうです。

やがて、「一体だけなんて寂しそうでかわいそう」と感じた奥さんは、ふもとの町にある立派な稲荷神社へと引き取ってもらおうと考えました。

しかし、ここで奇妙なことが起こります。

神社の神職によれば、そのお稲荷さんは格が低く、神社の神狐たちとは階級が合わないため、迎え入れることができないというのです。

そうして、元の山中の場所へと戻されてしまいました。

奥さんはそれをたいそう悲しみ、「やっぱりかわいそう」と、さらにいっそう世話をするようになりました。

ところが――

そのあたりから、奥さんの様子がおかしくなり始めたのです。

ある日、ご主人がスーパーで大量の油揚げを買い込む奥さんの姿を目撃しました。

それだけではありません。彼女は毎日のように、お稲荷さんのもとへ通い詰め、まるでそこが自宅かのように長時間を過ごしていたそうです。

明らかに異常でした。

不安になったご主人は奥さんを病院に連れて行きましたが、診断は「異常なし」。しかし帰り道、彼女はふらりと姿を消してしまいます。

翌日、山の中の景色の良い高台で、彼女は発見されました。

ぽつんと座り込み、誰に話しかけるでもなく、何かを呟き続けていたといいます。

次にご主人は、お坊さんを呼ぶことに決めました。

その旨を奥さんに伝えると、またもや彼女は忽然と姿を消しました。

今回は、家族や近隣住民、さらには警察まで動員して捜索しましたが、見つけることができませんでした。

途方に暮れたご主人は、藁にもすがる思いで、霊媒師に相談します。

すると、その霊媒師はこう言いました。

「奥さんは、まだご自宅の半径五キロ圏内にいます。ただし、何かピョンピョンと飛び跳ねるものに連れて行かれています。おそらく、それは動物の類でしょう」

ご主人は、その霊媒師にはお稲荷さんの件は一切話していなかったそうです。

にもかかわらず、なぜそんなことが分かったのか――。

その後、奥さんは見つかりませんでした。

月日が流れる中で、今度はご主人の様子がおかしくなっていきました。

かつての奥さんのように、山のお稲荷さんの前で掃除をしたり、油揚げを供えたりするようになったのです。

ある日、うちの祖母がその様子に声をかけたところ、ご主人は遠くを見つめながら、こう答えたといいます。

「うちのヤツは、狐さんが守ってくれてるんです」

その後、ご夫婦がどうなったのかは分かりません。

ただ一つだけ言えるのは、稲荷信仰においては、決して軽々しく関わってはならないということです。

お坊さんの袈裟には、狐や狸を遠ざける力があるとされており、お稲荷さんをむやみに拝むと「憑いてくる」とも言われています。

山の中でひっそりと祀られていた一体のお稲荷さん。

それに心を寄せた奥さんと、その後を追うように変わっていったご主人――。

この話は、私の父の田舎で今も静かに語り継がれている、不思議で少し怖い実話です。

関連記事

ひな祭り(フリー写真)

三つ折れ人形

私の実家に、着物の袖が少し焦げ、右の髪が少し短い、一体の日本人形があった。 桐塑で出来た顔には、ちゃんとガラスの目が嵌め込まれていた。 その上に、丁寧に胡粉の塗られた唇のぽ…

竹下通りの裏路地

今から5年前、当時付き合っていた彼女と竹下通りへ買い物に出掛けました。 祭日だったと記憶しています。どこを見ても若者だらけで、快晴の空の下、人混みを避けながら買い物を楽しんでいま…

インコ

インコのムウちゃん

2年程前から飼っているオカメインコのムウちゃんについてのブログを始めた。 始めた当初は誰も記事を見に来てくれないし、コメントも残してくれないので結構寂しかった。 でも他の人…

桜の木(フリー素材)

タイムカプセルの手紙

俺の知り合いの超霊感体質の女性(42歳)から聞いた不思議な話。 事の起こりは彼女が中学三年の卒業前まで遡る。 卒業を間近に控えていた彼女のクラスでは、卒業記念にとクラス全員…

アリス(フリーイラスト)

アリス症候群の恐怖

自分は小さい頃から「不思議の国のアリス症候群」の症状があった。 時々遠近感が曖昧になったり、周りの物が大きくなったり小さくなったりする感覚に陥る。 大抵の場合、じっとしてい…

ショートカット

小学校の頃の体験です。 私が通っていた校舎は4階建てでした。 校舎の両端にそれぞれ階段があって、東階段と西階段と呼ばれていました。 東階段部分の校舎は3階までしかなく…

マトリックス空間

宇宙は数字で織りなされる

不思議な体験をした。 簡単に説明すれば、幽体離脱をして宇宙を覗いたとき、螺旋状に永遠に伸びる、うねうねとした膨大なカラフルな数字から成る道を、高速スピードで飛んでいた。 …

昔の電話機(フリー画像)

申し申し

家は昔、質屋だった。と言ってもじいちゃんが17歳の頃までだから私は話でしか知らないのだけど、結構面白い話を聞けた。 田舎なのもあるけど、じいちゃんが小学生の頃は幽霊はもちろん神様…

運命(フリー写真)

運命

その日は仕事で遅くなり、終電に乗って家へ帰ることになった。 駅に着き、改札を出て家へ向かって歩き始めると、駅前広場の片隅に何人か集まっていた。 よく見てみると、集まってい…

時間停止

小学生の時の話。 昼休みの校庭で、10秒ほど周囲が1/10秒シャッターで写真を撮ったように止まったことがあった。 単に止まったのというのは少し違う。慣性の法則を無視してピタ…