
これは実際に起きた事件にまつわる、生存者の証言をもとにした話である。
「大雪山ロッジ殺人事件」として、過去に北海道新聞にも掲載された記録が存在する。
本稿で語るのは、その唯一の生き残りとされる男性の口から語られた証言である。
それが真実なのか、それとも精神を病んだ者の妄言なのかは、読み手に委ねるしかない。
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男がその奇妙な体験に巻き込まれるきっかけとなったのは、札幌市中央区にある古びた古本屋を何気なく訪れた時だった。
店内の一角で手に取った一冊の本の間から、一冊の大学ノートが落ちた。
拾い上げ、ふとページをめくった瞬間、男は身震いした。
そこには狂気に満ちた文字が、びっしりと綴られていた。
『奴が来る 奴が来る 奴が来る…』
そしてその後には、
『もう自分で命を断つしかないのか…
助けて 助けて 助けて…』
と延々と繰り返されていた。
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気味が悪くなった男は、店主に問いかけた。
「これ…なんですか?」
店主は明らかに動揺し、「ああ、それは売り物じゃない」と、ノートを取り上げてしまった。
帰宅した後も、男はノートの内容が頭から離れなかった。
“奴”とは誰なのか。
書いた人物は今も生きているのだろうか――。
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翌日、男は再び古本屋を訪ねた。
そしてその後、一週間にわたって通い続けた末、ついに店主は根負けし、重い口を開いた。
「あんた…そんなに知りたいなら、8月23日に大雪山の五合目にあるロッジに泊まってみるといい。
ただし…後悔しても、わしゃ知らんよ」
その言葉に男は抗えなかった。
友人4人(男3人・女2人)を誘い、8月23日、彼らはロッジを目指して登山を開始した。
登山そのものは順調で、何の異変も起こらなかった。
ロッジに到着すると、女たちは「お茶を淹れてくるね」と言い、男たちは寝室へ向かった。
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しばらくして、ドアの外から女の声が聞こえた。
「お茶、持ってきたよ。開けて」
ドアのそばにいた男が手を伸ばして開けた瞬間――
「ゴトッ!」
首が落ちた。
だがそこには、男の体に乗った“女の生首”があった。
首の付け根からは血が噴き出し、目だけが恨めしげにこちらを見つめていた。
女の生首は手に何かを持っており、次の瞬間、部屋の中央にいた別の男の首も、容赦なく切り落とした。
窓際にいた男(登山を提案した本人)は、とっさに窓から飛び降りて逃げ出した。
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助けを求めた登山者と共にロッジへ戻ると、そこには女二人の首を切り落とされた遺体があった。
通報を受け、警察が現場へ駆けつける。
調査の結果、遺体の切断面は非常に鋭利で、ほとんど出血も見られなかった。
凶器は不明、そして四人の“首”だけが見つからなかった。
事件は迷宮入りとなった。
※
生き延びた男は病院へ搬送されたが、精神的ショックは深く、やがて旭川の精神病院に収容されることとなった。
ある日、病室にいた男の元に、看護師が点滴の交換に訪れた時のことだった。
「コンコン」
ドアの外から、女の声がした。
「入院している者の母でございます。荷物を持ってきたので、開けていただけませんか」
母親の声だった。
だが男はその瞬間、異変に気づいた。
母は東京にいたはず。
旭川まで、誰がどうやって連絡したのか?
そして何より、あの“奴”は自らドアを開けることはできず、人の手によってのみ入ってくる――。
男は叫ぼうとした。
「開けるな! そいつは違う!」
しかし声は出なかった。
次の瞬間、「ゴトッ…!」という鈍い音が響いた。
※
以来、男は重度の精神障害を発症し、鉄格子付きの病室で暮らしている。
そして今日もノートにこう書き続けているのだ。
『奴が来る 奴が来る 奴が来る 奴が来る…』
それは、あの古本屋にあったノートの主と、まるで同じ狂気の言葉だった。
※
この話を私が初めて聞いたのは、ある深夜のことだった。
友人2人と談笑しながらこの怪異を語っていた、その瞬間――午前5時を回った頃、インターホンが鳴った。
玄関の前から聞こえてきた声は、東京に就職したはずの友人・祐司のものだった。
「おい、俺だよ、祐司だよ!開けてくれよ!」
さすがに全員が青ざめた。
鍵を開けていたため、「開いてるよ」と返すと、こう返ってきた。
「お土産、たくさん抱えててさ……なあ、開けてくれよ!開けてくれよ!」
不審に思った私たちは、裏口から声をかけた。
「祐司、ドア壊れたみたい。裏から入って」
それでも結局、誰も入ってはこなかった。
※
午前10時、私たちは祐司本人に電話をかけた。
「今? 東京にいるけど、何かあった?」
その言葉を聞いた瞬間、私たちは本物の恐怖に包まれた。
あれは何だったのか――
今も分からない。
ただ、もう誰かのために「ドアを開ける」ことだけは、絶対にしないようにしている。