
あれは、五年ぶりに実家に帰った秋のことだ。
母が体調を崩したという連絡が入って、急いで帰省した。
夜遅くに着いて、母の顔を見て、ひとまず安心した。
その翌朝、特にすることもなく、久しぶりに実家近くの商店街をぶらついた。
シャッターが増えていた。昔よく行っていたレコード屋も、文具屋も消えていた。
記憶の中の商店街より、ずいぶん小さく見えた。
人通りも少なかった。平日の朝だからというだけではなく、人が減ったのだろうと思った。
懐かしさより、どこか寂しさの方が大きかった。
※
通りの外れで、銭湯を見つけた。
「富士の湯」という古びた木の看板が出ていて、暖簾もかかっていた。
ガラスのはまった引き戸には、手書きの貼り紙がある。
「今月末をもって閉業いたします。長年のご愛顧ありがとうございました」
子供の頃、こんな銭湯が近くにあっただろうか。
記憶をたぐっても、出てこない。
親に連れてこられた記憶もないし、友達と来た記憶もない。
別に用事があったわけじゃない。ただ、吸い込まれるように引き戸を開けた。
※
引き戸をくぐると、正面に番台があった。
七十を超えているだろう老人が、一人で座っていた。
入浴料を渡すと、老人はこちらをじっと見た。
そして、こう言った。
「また来たね」
「……え?」
「久しぶりじゃないか。元気だったか」
人違いだろうと思った。
「あの、初めてです。ここは初めて来ます」
老人は首を傾げた。
「そうか、そうかね」
それだけ言って、奥の湯の方に目を向けた。
笑ってごまかすほどのことでもないと思って、そのまま脱衣場に向かった。
※
脱衣場に入ると、木製のロッカーが壁一面に並んでいた。
昭和そのままの、金属の鍵がついた古いロッカーだ。
どれを使おうかと思った、その瞬間に、体が動いた。
迷いもなく、右端から七番目のロッカーの前に立っていた。
自分でも不思議だった。
なぜ、あの場所だとわかったのだろう。
鍵を回して中を開けると、古い木の匂いがした。
服を脱ぎながら、ぼんやり考えた。幼い頃にここに来ていて、忘れているだけかもしれない。
母に聞けばわかるかもしれない、と思ったが、なぜかそうしたくなかった。
それ以外に、説明がつかなかった。
※
浴室に入ると、タイル張りの湯舟が正面にあった。
壁には富士山のタイル絵。右手に立ちシャワー、奥の左に小さなサウナ。
全部知っていた。
一度も来たことのないはずの場所なのに、間取りを全部、頭が知っていた。
カランを回すと、少し水が先に出て、それから熱い湯に変わる。
そのタイムラグまで、知っていた。
湯で体を流して、湯舟に浸かった。
お湯は熱かった。東京の銭湯よりずっと熱い。それも、どこかで知っていた気がした。
※
湯に浸かりながら、頭が妙に静かになっていくのを感じた。
あの石鹸の香り、カランを回したときの音の反響、湯舟の縁の冷たい縁石。
どれも、初めてのはずなのに懐かしかった。
幼い頃の記憶かもしれないと思ったが、それにしては鮮明すぎる。
しかもどれだけ遡っても、この場所に来た記憶が出てこない。
ぼんやりと天井を見上げた。白く塗られた板張りの天井。隅に小さな換気窓がある。
その窓から、秋の光がわずかに差し込んでいた。
なぜか、子供の頃にもあの光を見た気がした。
出る前に、ふと壁際に貼られた古い写真に目が止まった。
セピア色の、集合写真だ。
「富士の湯 昭和四十二年 夏」という手書きの文字がある。
近づいて見ると、写真の端に、七歳か八歳くらいの男の子が一人で立っていた。
その顔を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
自分の子供の頃の写真に似ていた。いや、似ているというより、同じだった。
同じ目の形、同じ耳の形、同じ首の傾け方をしていた。
蒸気で目がかすんでいるせいだと思って、顔を拭いてもう一度見た。
やはり、同じだった。
※
着替えを終えて、番台の前に戻った。
老人に写真のことを聞こうとして、なぜか言葉が出なかった。
代わりに、こう訊いた。
「この銭湯は、昔から変わってないんですか」
老人はしばらく天井を見上げてから、ゆっくりと答えた。
「変えてないよ。亡くなった子がいてね。この場所が好きだったから、そのままにしてある」
「……亡くなった子?」
「昔、ここで滑って頭を打った子がいた。まだ小さかった。七歳か八歳か」
老人はそこで口を閉じた。
しばらく間があってから、こう続けた。
「あんたに似ていた」
視線を手元に落として、それ以上は何も言わなかった。
※
暖簾をくぐって、外に出た。
秋の朝の空気が、ひんやりと冷たかった。
商店街の路地を歩きながら、あのロッカーのことを考えた。
七番目のロッカー。
その子も、あの番号を使っていたのだろうか。
それとも、ただの偶然だったのか。
帰りがけに振り返ると、暖簾が静かに揺れていた。
風もないのに、ゆっくりと揺れていた。
わからない。わからないまま、今もあの銭湯のことを時々思い出す。
今月末で閉まると書いてあった。
もう一度だけ行けばよかったと、今でも思っている。