また来たね

静かな湯舟と富士山

あれは、五年ぶりに実家に帰った秋のことだ。

母が体調を崩したという連絡が入って、急いで帰省した。

夜遅くに着いて、母の顔を見て、ひとまず安心した。

その翌朝、特にすることもなく、久しぶりに実家近くの商店街をぶらついた。

シャッターが増えていた。昔よく行っていたレコード屋も、文具屋も消えていた。

記憶の中の商店街より、ずいぶん小さく見えた。

人通りも少なかった。平日の朝だからというだけではなく、人が減ったのだろうと思った。

懐かしさより、どこか寂しさの方が大きかった。

通りの外れで、銭湯を見つけた。

「富士の湯」という古びた木の看板が出ていて、暖簾もかかっていた。

ガラスのはまった引き戸には、手書きの貼り紙がある。

「今月末をもって閉業いたします。長年のご愛顧ありがとうございました」

子供の頃、こんな銭湯が近くにあっただろうか。

記憶をたぐっても、出てこない。

親に連れてこられた記憶もないし、友達と来た記憶もない。

別に用事があったわけじゃない。ただ、吸い込まれるように引き戸を開けた。

引き戸をくぐると、正面に番台があった。

七十を超えているだろう老人が、一人で座っていた。

入浴料を渡すと、老人はこちらをじっと見た。

そして、こう言った。

「また来たね」

「……え?」

「久しぶりじゃないか。元気だったか」

人違いだろうと思った。

「あの、初めてです。ここは初めて来ます」

老人は首を傾げた。

「そうか、そうかね」

それだけ言って、奥の湯の方に目を向けた。

笑ってごまかすほどのことでもないと思って、そのまま脱衣場に向かった。

脱衣場に入ると、木製のロッカーが壁一面に並んでいた。

昭和そのままの、金属の鍵がついた古いロッカーだ。

どれを使おうかと思った、その瞬間に、体が動いた。

迷いもなく、右端から七番目のロッカーの前に立っていた。

自分でも不思議だった。

なぜ、あの場所だとわかったのだろう。

鍵を回して中を開けると、古い木の匂いがした。

服を脱ぎながら、ぼんやり考えた。幼い頃にここに来ていて、忘れているだけかもしれない。

母に聞けばわかるかもしれない、と思ったが、なぜかそうしたくなかった。

それ以外に、説明がつかなかった。

浴室に入ると、タイル張りの湯舟が正面にあった。

壁には富士山のタイル絵。右手に立ちシャワー、奥の左に小さなサウナ。

全部知っていた。

一度も来たことのないはずの場所なのに、間取りを全部、頭が知っていた。

カランを回すと、少し水が先に出て、それから熱い湯に変わる。

そのタイムラグまで、知っていた。

湯で体を流して、湯舟に浸かった。

お湯は熱かった。東京の銭湯よりずっと熱い。それも、どこかで知っていた気がした。

湯に浸かりながら、頭が妙に静かになっていくのを感じた。

あの石鹸の香り、カランを回したときの音の反響、湯舟の縁の冷たい縁石。

どれも、初めてのはずなのに懐かしかった。

幼い頃の記憶かもしれないと思ったが、それにしては鮮明すぎる。

しかもどれだけ遡っても、この場所に来た記憶が出てこない。

ぼんやりと天井を見上げた。白く塗られた板張りの天井。隅に小さな換気窓がある。

その窓から、秋の光がわずかに差し込んでいた。

なぜか、子供の頃にもあの光を見た気がした。

出る前に、ふと壁際に貼られた古い写真に目が止まった。

セピア色の、集合写真だ。

「富士の湯 昭和四十二年 夏」という手書きの文字がある。

近づいて見ると、写真の端に、七歳か八歳くらいの男の子が一人で立っていた。

その顔を見た瞬間、胸の奥が冷えた。

自分の子供の頃の写真に似ていた。いや、似ているというより、同じだった。

同じ目の形、同じ耳の形、同じ首の傾け方をしていた。

蒸気で目がかすんでいるせいだと思って、顔を拭いてもう一度見た。

やはり、同じだった。

着替えを終えて、番台の前に戻った。

老人に写真のことを聞こうとして、なぜか言葉が出なかった。

代わりに、こう訊いた。

「この銭湯は、昔から変わってないんですか」

老人はしばらく天井を見上げてから、ゆっくりと答えた。

「変えてないよ。亡くなった子がいてね。この場所が好きだったから、そのままにしてある」

「……亡くなった子?」

「昔、ここで滑って頭を打った子がいた。まだ小さかった。七歳か八歳か」

老人はそこで口を閉じた。

しばらく間があってから、こう続けた。

「あんたに似ていた」

視線を手元に落として、それ以上は何も言わなかった。

暖簾をくぐって、外に出た。

秋の朝の空気が、ひんやりと冷たかった。

商店街の路地を歩きながら、あのロッカーのことを考えた。

七番目のロッカー。

その子も、あの番号を使っていたのだろうか。

それとも、ただの偶然だったのか。

帰りがけに振り返ると、暖簾が静かに揺れていた。

風もないのに、ゆっくりと揺れていた。

わからない。わからないまま、今もあの銭湯のことを時々思い出す。

今月末で閉まると書いてあった。

もう一度だけ行けばよかったと、今でも思っている。

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