契約書の拇印
俺の親父の話を書きます。
親父はタクシーの運転手をしています。
夜中2時を過ぎた頃だったそうです。40代くらいの一人の男性が病院から乗って来ました。
行き先は違う近所の病院でした。
身なりはきちんとした黒の背広姿で、おかしな様子もありませんでした。
車中、男性はカバンからA4サイズの書類を取り出し、一枚一枚を丁寧に見ていました。
目的の病院に着くと男性は、
「運転手さん、悪いが少しの時間だけ待っててもらいたい。
すぐ片付く用事なので、それにこの後、違う病院にも行かないといけないから」
と言いました。
親父は「いいですよ」と承諾しましたが、代わりに、無賃乗車を防ぐため荷物を置いて行ってもらうことを勧めました。
男性はその通りに、カバンにあった封筒だけを取り出し、あとの荷物は全て置いて車を降りて行きました。
※
男性が降りた後、親父は(凄くいけないことなのですが)男性の見ていた書類が気になり、好奇心で見てしまったのです。
書類は何かの契約書のようなものだったのですが、気になったのが、名前の横に判子ではなく拇印が押してあったことでした。
でも車中が暗いのと、男性が本当にすぐ帰って来たので、細かな部分まで見ることはできなかったそうです。
※
男性が急いで病院から出て来るのが見えたので、タクシーのドアを開けました。
その時、男性の後ろを女性が追って来るのが見えたのです。
親父はその女性に、ただならぬ雰囲気を感じました。
男性は「女性は無視して、すぐに車を出してください」と、意外に冷静な口調で言いました。
親父は言われた通り、と言うより反射的にすぐに車を出し、バックミラーも何か怖くて確認できなかったそうです。
その後、男性は小さな声で「すいません」と一言言ったきりずっと無言のままで、また違う病院の前で降ろし、そそくさと病院の中に入って行ったそうです。
※
男性を降ろした後、すぐに会社から無線が入りました。
『至急、家に連絡を欲しいと、家族から電話があった』
という伝言でした。
家に連絡するまでもなく、親父は妻(俺の母親)が死んだことをその瞬間悟ったそうです。
と言うのは、俺の母親は持病の心臓病を患い、もう長く持たないと医者に宣告されていました。
親父はこの話を、10年近く経ってようやく話してくれました。
小さかった俺にショックを与えないように、配慮してくれたのだと俺は思っています。
当時は自分の愛する人の死のショックで、その男性について深く考えることができなかったそうですが
『あの男性は何者なのか?』
『あの書類の中に母親の名前はなかったのだろうか?』
『追いかけてきた女性は?』
『あの「すいません」の意味は?』
親父は今になって考えてしまうそうです。
俺も俺で、母親の葬式の記憶の中にある、母親の亡骸の親指が微かに赤かったことを、親父には言えないままでいます。
10年ほど経ったら話そうと思っています。