
高校二年の夏休み。
私たち器械体操部は、某県の山奥にある公共合宿所へ四泊五日の強化合宿に向かった。
山道を抜けた先に建つ平屋は、周囲五百メートル以内にホテルとコンビニが一軒ずつあるだけで、夜は虫の声しか聞こえない。
田舎育ちでもない私たちは、その隔絶感にむしろ胸を高鳴らせていた。
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到着一日目は午後練習のみ。
夜八時を回ると暇を持て余し、顧問から「九時半までなら外出可」と許可を得て、私を含む十人で菓子と飲み物の買い出しに出た。
懐中電灯の輪が揺れる舗装路を下る途中、合宿所の裏に平屋の古い民家があることに気づく。
木立に半ば埋もれ、窓には板が打ち付けられ、灯りはなく、人の気配もない。
好奇心旺盛なB太が「戻ったら探検しようぜ」と提案するが、他校合同のため顧問が厳しい。
一同、まずはコンビニ優先で歩を速めた。
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往復三十分の買い出しを終え、再びその家の前を通る。
後輩のFが青ざめた顔で「玄関が少し開いて中に子どもがいた」と言いだした。
冗談半分に引き返して確認するが、扉は閉じたまま。
私たちはFを冷やかしつつも、胸に薄い不安を覚えて合宿所へ戻った。
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午後十時。
二階の廊下で夜風を浴びながら、A也と私は件の家を見下ろした。
すると暗闇の玄関が、ほんの数センチ軋み、そこから子どもの頭部だけが突き出すのが見えた。
光は無いのに、月明かりを受けた輪郭ははっきりしている。
「……見えてるよな?」
言葉を失う私に、A也は真っ青な声で同意した。
彼は「携帯で撮る」と駆け去り、代わりに廊下へ集まり始めた他校生徒たちが窓に群がる。
やがて騒ぎを聞きつけた顧問と他校の監督が現れ、家の前を点検したが、鍵は錆びて開かず人気もないと言う。
携帯写真は光量不足で黒い画面。
「肝だめし禁止。即就寝」
顧問は怒号を残し部屋へ戻った。
背中に残ったのは、山の闇と得体の知れない“子ども”の残像だった。
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廊下の消灯は二十三時。
布団に潜り込んだはずの私たちは、五分と経たず囁き声を交わし始めた。
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窓ガラスを軽く叩く音。
覗くと他校のC広たち五人が、二階外壁の狭いひさしを伝って立っていた。
「今から行くぞ、例の家。 証拠つかまなきゃ先生も信じない」
彼らは目を爛々とさせていた。
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結局、私・A也・B太と、C広・D幸・E介の六名が決行組となる。
午後十一時五十七分、合宿所裏の雑木を抜け、無灯火で家へ回り込む。
近づくにつれ、板壁の隙間から黴と土の息が漏れ出すのがわかった。
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玄関は驚くほど軽く開いた。
湿気と埃が襲い、携帯ライトの円は灰色の粒子で霞む。
一階の畳は腐り、家具は一切ない。
「二手に分かれよう」
私は同校の二人と一階を、他校の三人は二階を調べる案に頷いた。
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探索開始からほどなく、上階で甲高い哄笑が弾けた。
「アハハハハハ!」
後に続くのはC広とD幸の悲鳴。
私たちが階段を駆け上がると、奥の部屋でE介が窓を向いたまま狂ったように笑っていた。
顔は無表情、目からは涙が滝のように流れ、ズボンは失禁で濡れている。
C広は必死に頬を叩き、D幸は携帯を握り締め震えていた。
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E介を抱え、玄関へ雪崩れ戻る。
ところが、つい先刻開いた扉は岩のように動かない。
焦げた鉄の匂いとともに、二階の暗がりから再び声が降る。
「ホホホ…ホホホ…」
A也が懐中電灯を向けると、踊り場の手すりから子どもの頭部だけがゆらりと覗いていた。
胴体はなく、細長い黒棒が首の代わりにのびている。
瞳も口も真っ暗な笑み。
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逃げ場は窓しかない。
B太がガラス戸を肘で砕き、外板を蹴り抜いた。
私たちはE介を担ぎ、庭へ転げ出た。
林を抜け合宿所へ走る途中も、背後であの笑いは途切れなかった。
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午前零時四十分。
先生方に怒鳴られながら救急車を呼び、合宿は即時解散となった。
E介は病院へ搬送。
私たちは口裏を合わせる余裕もなく震え続けた。
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翌朝、私・A也・B太、そしてC広・D幸は顧問に連れられ、合宿所近隣の古寺へ向かった。
対応した若い住職は、眉をひそめながら私たちの話を聞き、首を振った。
「それは〈ひょうせ〉ではありません」
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〈ひょうせ〉――この地方に伝わる毛むくじゃらの妖怪。
笑い声と子どもの錯乱をもたらすが、姿は猿に近い。
首が伸びる、和服を着る……そんな特徴は一切ないという。
「別種の“呪物”が動いているのでしょう。 現物を封じない限り終わりません」
住職はそう結論づけた。
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夕刻、お堂にワゴン車が滑り込んだ。
搬送されてきたのは、村の中学生。
E介と同じく笑い泣き状態で、声は機械のよう。
読経が始まると十分ほどで静息し、深い眠りに落ちた。
私は“呪物”説を確信した。
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夜。
座敷で待機する私たちの耳に、再び「コン…コン…」と窓を叩く乾いた音が届く。
恐る恐る廊下へのぞくと、月光の下で屋根に正座する和装の児童人形――あれが首を鞭のように伸ばし、私の部屋を覗いている。
「ホホホ…ホホホ…」
黒い穴のような笑顔が、空っぽの闇を映していた。
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逃げても切りが無い。
私は叫びとともにお堂の鉄燭台を引き抜き、庭へ飛び降りた。
驚く仲間の制止を振り切り、首を伸ばした人形の頭に渾身の一撃を叩き込む。
中空で「バキッ」という乾いた破砕音。
蝋燭の炎が袖へ燃え移り、人形に火が走った。
しかし声は止まらない。
怒りと恐怖と睡眠不足が混ざり、私は泣き笑いしながら何度も鉄を振り下ろした。
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頭部が砕けた瞬間、胸を締めつける異様な高揚が霧散した。
人形は燃えながら地面に転がり、黒い煙を上げるのみ。
住職と村長が砂をかけ鎮火させた。
私たちはへたり込み、夜空にただ蝉しぐれを聞いていた。
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翌朝。
焼け残った胴体を検めると、首芯にあたる木棒に螺旋状の梵字と巴紋が彫られていた。
腰に縫い付けられていた札は黒焦げだが、辛うじて「寛保二年」という年号と六文字の作者名、そして『渦人形』の三字が読み取れた。
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江戸中期に作られた呪術人形――。
詳細は不明だが、人の“気”を吸い集め守り神にも祟り神にも転ずる類と推定された。
村の旧家が戦後に手放した蔵から流出し、空き家に紛れ込んでいた可能性が高いという。
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人形は寺で永久封蔵となり、私たちは住職から護符を授けられて解散した。
数日後、E介も中学生も正気に戻り、以後は誰一人再発していない。
私たち六人の連絡グループは今も残るが、あの日の出来事を語ることは少ない。
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ただ、ときおり満月の夜、耳の奥で無機質な笑い声がこだまする。
「ホホホ…ホホホ…」
それは記憶か残響か。
首筋をかすめる夜風に、私はそっと護符を撫で、唱え慣れた真言を胸の中で結ぶ。